過去の礼拝説教集2022年1-6月
2022年1月2日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書1章19~28節
説教 「恩師とその弟子」
牧師 藤塚 聖
バプテスマのヨハネとイエスの関係は、どういうものだったのでしょうか。全ての福音書で、ヨハネは自らをイエスの「履物のひもを解く資格もない」(27節)と言っています。そして自分は終末に期待されているメシアでもエリヤでも預言者でもない、つまり真打ではなく前座にすぎないと言うのです(21節)。これを上下関係で考えるならヨハネが下ということになります。
しかしながら、そのヨハネがイエスに洗礼を授けたのははっきりしています。イエスはヨハネの教えに惹かれて洗礼を受け、そのグループに加わり一緒に活動していたと思われます。つまり普通に考えるとヨハネはイエスの師匠であり、多くの研究者はそのように考えています。それにもかかわらず、聖書でヨハネがわき役にされるのは、キリスト教会とヨハネの教団はライバル関係にあったので、教会としてはイエスの優位を強調する必要があったからです。間違っても、イエスがヨハネの弟子だったとは言えない事情があったのです。
さて、イエスはヨハネの教えに共感して、家族と仕事を捨てて出家してまでヨハネの活動に参加しました。何が彼を引きつけたかというと、その教えの真剣さと庶民性にありました。ユダヤ教は世俗的権力となり、その信仰は形骸化していました。また罪が赦されるには、年に何度もエルサレム神殿に行って祭儀に参加しなければなりません。それには膨大な時間と費用が掛かるので庶民の負担となり、ましてや貧しい人や病人はその機会すら奪われていました。そういう時代に、煩雑な祭儀の代わりに、水の洗礼を受けさえすればいいという教えは、庶民にとってこれほど有り難いことはなかったのです。それで各地から大勢の人たちが、ヨハネのもとにやって来たのでした。
さてヨハネが処刑されてから、イエスはヨハネ教団から離れて独自の活動を始めました。それはヨハネを評価しながらも、その限界を見ていたからだと思います。ヨハネを評して、「女から生まれた者で最大でも、神の国で最も小さい者も彼より偉大だ」(マタイ11:11)と言っています。その発言からも分かるように、イエスはヨハネのやったこととは真逆のことを始めました。ヨハネが神のさばきを語ったのに、イエスは神の愛を説きました。ヨハネは世間から離れて荒野で禁欲生活をしましたが、イエスは人々の中で禁欲とは無縁の生活をしました。「大食漢で大酒飲み」(マタイ11:19)と悪口を言われるほど、仲間と楽しく飲んだり食べたりして、人として当たり前の生活を貫きました。また、ヨハネ自身は水で洗礼を授けても、イエスは聖霊で洗礼を授けると言っています(33節)。実際に、イエスはヨハネのような洗礼は実践しなかったようです。
以上から分かるように、ヨハネはユダヤ教を徹底的に純化しようとしました。その為に罪の赦しの方法を、神殿祭儀から水の洗礼に替え、形骸化した信仰を禁欲的倫理的なものに変革しようとしました。イエスはそのやり方を受け継ぐことなく、むしろユダヤ教の救済の枠組み自体を不必要なものとして無化したのでした。つまり人が救済されるために何が必要かではなく、今の自分たちの中に「神の国」が実現していることを宣教したのでした。
私たちの信仰というのは、その洗礼の形も倫理も、イエスではなくヨハネのやり方をそのまま引き継いでいると言えます。それらすべてをイエスのように無化するならどうなるのでしょうか。
(牧師 藤塚聖)
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2022年1月9日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書1章29~34節
説教 「聖霊によるバプテスマ」
牧師 藤塚 聖
前回、イエスは恩師のヨハネのような生き方をしなかったという話をしました。ヨハネの活動を評価したけれども、自分はそのようにはしなかったということです。
まず大きな違いとして、ヨハネは世俗を避けて、人里離れた荒野できわめて禁欲的な生き方をしました(マタイ3:4)。そして神の怒りを強調して、悔い改めて倫理的な生き方をしないと神のさばきにあうと説きました(マタイ3:10)。だから彼が行った水の洗礼も、神にさばかれないために、罪を洗い流すという意味があったのだと思います。本来ならば、エルサレムに何度も宮詣して金のかかる祭儀を行い、祭司から罪の赦しの認定を受けねばならないのに、ただ洗礼を受けるだけなので、庶民にはそれはそれで有り難いことでした。
しかしイエスは、そのような神のさばきを説かないどころか、ひたすら神の愛を語り、罪を問題にしないどころか、罪人のレッテルを貼られた人に、あなたの罪はゆるされた、つまりもともとそんな罪などないのだと宣言したのでした(マルコ2:5)。そのようなイエスにとって、禁欲的で倫理的な生き方など意味がなかったのです。神の愛を信じて、自分と隣人を信じて普通に生活すれば、そこに「神の国」が実現しているというのが、イエスの宣教内容でした。
そうであるならば、「聖霊によって洗礼を授ける」(33節)とはどういうことなのでしょうか。イエス自身は「聖霊による洗礼」を言っていませんが、聖霊を自分の代わりに来る「弁護者」(14:16)や「真理の霊」(14:17)と言い、それが自分のことを思い起こさせ、真理を悟らせると言っています。つまり、イエスの言葉やその生き方を知って、そこから大切なことを教えられることが聖霊の働きであり、それが洗礼を受けたということになるのでしょう。だから水の洗礼というのは、単なるしるしというか形にすぎないものであり、私たちがイエスの言動から色々と気づかされることの方が重要なのだと思います。実際に、私は15才で洗礼を受けて何か変わったとは思えませんでした。
さて、ヨハネは人々に徹底して倫理的な生き方を説き、罪の赦しの洗礼を授けました。しかし私たち自身のことを考えるとすぐ分かると思いますが、人というのは、四六時中神さまのことに集中できるわけではありません。清く正しく倫理的な実践を積んで、ストイックに生きるということは非常に難しいことだと思います。またそれが本当に必要なことだとも思えません。きっとイエスも、ヨハネの生き方について徐々に疑問を感じたのでしょう。
イエスは「洗礼」も行わなかったと思われます。つまり宗教的な罪を前提にしていないので、そのゆるしを意味する洗礼さえ必要としなかったのではないでしょうか。こうしてヨハネとイエスを比べてみると、ヨハネが宗教を徹底的に純粋化したのに対して、イエスは宗教的発想そのものを捨てたのではないかと思います。これは物事を宗教的に考えるのではなく、当たり前の人間として当たり前に生きるということなのでしょう。宗教的に凝り固まった考え方から解放されて、物事を普通の言葉に転換していきたいものです。
(牧師 藤塚聖)
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2022年1月16日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書1章35~42節
説教 「次代への受け渡し」
牧師 藤塚 聖
最初の弟子たちがどのようにしてイエスに従うことになったのか、福音書によってその様子は違っています。マルコ福音書では、漁の最中にイエスに呼びかけられた4名が、すぐに網も船も捨ててついていったとあります(1:16以下)。こういうことは普通ならありえないので、理解に苦しみます。実際に、新約聖書学者のブルトマンという人も、これは史実というより、理想的場面を描いているにすぎないと分析しています。私もそういうことなら納得できます。一方で、ヨハネ福音書では、元々ヨハネの弟子だった二人がイエスについて行くことになり、それに続いてその兄弟や知り合いが仲間に加わったとあるので、これはいかにもありそうで現実味があります。
例えば、人があるサークルに入会するとき、そのサークルの売りを鵜呑みにしないで、まず判断材料を集めるために、既に会員になっている人の話を聞いたり、ネットで評判を調べたりするのは、誰もが考えることです。私たちも、この教会と関わるようになったのは、間接的にまず人を介してなのではないでしょうか。弟子たちも一部を除いては、イエス本人から直接勧誘されたというより、先に弟子になっている人に勧められたりして、正面ではなく横から入っていったと言えます。
それと弟子たちにとって重要だったのが、洗礼者ヨハネの促しだったと思います。ヨハネの洗礼活動と、その後に始まったイエスの活動は、当初はライバル関係にありましたが、徐々に多くの者がイエスの活動に引っ張られていきました(3:26、4:1)。簡単に罪の赦しの洗礼を受けられことでは両者同じでも、イエスの方なら、恐ろしい神のさばきや厳しい倫理道徳を強要されないので、人々から支持されたのでしょう。ヨハネの弟子たちの中にも、張り詰めた厳しい宗教生活に疲れ、転身を考えていた者も多くいたと思われます。ヨハネ自身も、自分の活動は暫定的なものであることを自覚していました。改革運動が新しい段階に入ったならば、後に託す覚悟ももっていたと思われます(1:27、1:30)。
そこで、ヨハネは転身を考えていた弟子たちに、イエスの元へ行くように促したのでした。弟子たちにしても、ヨハネへの遠慮からためらっていたかも知れませんが、恩師に背中を押されるのだから、ふんぎりがついたことでしょう(1:37)。イエスに向けて言われた「神の小羊」(1:36)が、贖罪の犠牲を表すのかどうかは分かりません。というのはヨハネ福音書には「贖罪信仰」はないからです。とにかく、ヨハネは自分よりイエスの方が神の真理に近いと悟ったのでしょう。弟子たちの信仰の成長のためにも、残念ではあるけれども、自分のところよりイエスのところがふさわしいと思ったのでした(3:30)。
こういうことは、私たちにも関係することです。例えば親子関係において、親離れ子離れはまさにそういうことです。子どもはある意味で親を否定して自律していきます。親としてはそれが寂しいことでも、子供が大人になることを喜ぶべきです。また私たちは多くの人を踏み台にして、ここまで来たと言えます。恩を仇で返すようなかたちで、先輩を踏み越えたかもしません。だから自分が踏み台になることがあるなら、それを引き受けるべきでしょう。また教会も次代にとって別のかたちがあるのなら、それも受け入れる謙虚さと柔軟さをもちたいものです。
(牧師 藤塚聖)
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2022年1月23日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書2章1~12節
説教 「水からぶどう酒に」
牧師 藤塚 聖
ヨハネ福音書は、他の福音書と比べると物語の部分が少ないのに講釈が長くて非常に分かりにくいです。その理由の一つは、著者のヨハネでない人が大量の加筆をしているからです。それも考え方の違う別人がしているので、読んでいて意味が分からなくなるのも当然です。代表的な加筆は21章全体です。また「イエスの最後の祈り」といわれる15章から17章もそうです。他にも、読んでいて意味が通じなくなるところや、だらだらくどいところは加筆と思ってもいいかもしれません。
また分りにくさは、イエスが人間というより神の「真理」そのものとして描かれていることです。イエスは神として人に意味深長な託宣を与え、驚く奇跡を起こし、死人をよみがえらせ、次々としるし(証拠)を見せていきます。しかしこのように徹底的に神のしるしを見せておきながら、それを見て信じる信仰はだめだという訳です。この福音書の最後にはイエスの言葉で「わたしを見たから信じたのか、見ないで信じる人は幸いである」(20:29)とあるので、見ないで信じる信仰とはどういうことか考えざるをえません。
そういうことを踏まえて、本日のエピソードを読むと色々と分ることがあります。婚礼のぶどう酒が足りなくなり、母マリアはイエスに助けを求めましたが、対話が全く嚙み合っていません(4節)。つまりこれはそもそも母と息子の会話ではなく、絶対的な神が人間に託宣を与える場面なのです。「わたしの時」とは、イエスに代わる聖霊の到来を指してるので、今はその時ではないのです。人間の願いや都合など、神の真理の前には突き放されるので、水がぶどう酒に変わるという出来事も、人の願いが聞かれた結果ではなく、神の力が不覚にも漏れ出てしまったにすぎません。このように、人が求めるものと神が与えるものは大体一致しないのは当たり前であって、ましてや大量のぶどう酒を見た弟子たちがイエスを信じたところで、それは信用に値するものではありません。奇跡やしるしを見て信じる信仰ではだめだということです(2:24)。
思い返すと、私たちが神に願うことや求めることは殆どその通りにはなりません。それは神の真理からいつもずれているからでしょう。むしろ全く違うところから思ってもいない別のものが示されることを、私たちは経験しているのではないでしょうか。
最後まで疑っていたトマスが、イエスの復活というしるしを見てやっと信じる者になったように(20:28)、私たちの信仰もイエスを特殊化してしるしを求める信仰になっていないでしょうか。本当はそれではいけないのだと思います。ヨハネ福音書では、十字架や復活さえ神の証拠にはならず、イエスその人が神の真理だといいます。つまりイエスの言動と生と死にふれ、そこから教えられることが神を知ることになるのでしょう。もっと言うならば、神を信じるとか神を知るということは、しるしを求めるような特殊なことではないと思います。それは宗教的ではなく、実は極めて単純なことであって、人生の中で少しでも視野を広げられ、色々な面で気付きを与えられることなのかもしれません。
(牧師 藤塚聖)
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2022年1月30日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書2章13~22節
説教 「正しい怒り」
牧師 藤塚 聖
エルサレム神殿境内での騒動は、4つの福音書すべてに記されています。しかし、それがイエスの3年間の活動の、最初のことなのか最後なのかで意見が分かれます。もし活動の最後であるなら、人生最後の命がけの行動という感じになります。現に3つの福音書ではこのことが引き金になって、殺害必至となり、そのまま裁判を経て処刑されています。そうなるとイエスのこの行動は、確信犯的に一世一代の大立ち回りをしたという意味になります。
ところが、ヨハネ福音書では、この話は活動の初期にあったことになっていて、その後2回は「過ぎ越し祭」のために上京したことになっています。そうなると一気に緊迫感がなくなり、境内でのちょっとトラブルという印象になります。特にヨハネの報告によるなら、これはイエスの単独行動であって、多少暴れたとしても、そのままやり過ごされています。羊や牛を追い払い、両替人の台を倒したとしても(15節)、もっと目に余るほどの大ごとであるなら、その場で用心棒に袋叩きになるか、神殿警察に拘束されるかどちらかだったでしょう。そういうことでもないので、この話の実態というのは、神殿商人たちとの小競り合い程度のものだったのかもしれません。
それにしても、イエスは敵を愛し迫害する者のために祈れとまで教えたのに(マタイ5:44)、どうしてこんな過激なことをしたのでしょうか。詩編の引用によると(17節)、神殿の欺瞞を厳しく批判していた旧約預言者の精神を、イエスも受け継いでいたことが分かります。イエスの時代も神殿は宗教による支配の象徴であって、そこには権力と富が集中して、人々を抑圧して搾取するシステムになっていたのです。神殿貴族を中心にして、そのうま味を知る者たちがそれを死守していました。境内で商売する神殿商人はそのおこぼれに預かる弱い存在にすぎません。彼らに文句を言っても仕方ないし、巨悪は別のところにいるのを分かっていながら、イエスはこのような行動をとったのでした。確かに金儲けのために神を利用して、人を幸福にするはずの宗教が人を抑圧している現実に我慢ならなかったとも言えます。また、それ以上にあえてこのような行動をとることにより、自分の意思を人々に知らせる意図があったかもしれません。たとえば、言葉でなく行動で表す「象徴預言」として、イザヤが反戦のためにはだしで歩いたり、エレミヤが敵国への服従を説いて首にくびきをはめたように(27章)、イエスの行いも一つのパフォーマンスだったと思います。とにかく自らの怒りを、行動によって皆に知らしめたことに意味があるのでしょう。
先日テレビ番組で、1989年の日本初のセクハラ裁判の顛末を観ました。出版社勤務の女性が会社の不当解雇を訴えたものです。当時は女性差別を禁止する法律がない中、支援弁護士は日本国憲法14条により会社の使用者責任を問い質しました。「すべての国民は、…性別、社会的身分により、政治的、経済的…関係において、差別されない」。この裁判の判決文では、初めてセクシャルハラスメントという言葉が明文化され、数年後の男女雇用機会均等法の改正につながりました。この女性の怒りが社会を動かしたと言えます。
愛を説くイエスが激しく怒ったことに注目しましょう。本当に怒るべきことに怒らないのは、決して寛容ではなくて大切なことが分かってことになるのです。良心をマヒさせてはいけません。
(牧師 藤塚聖)
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2022年2月6日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書3章1~10節
説教 「新たに生まれる」
牧師 藤塚 聖
ニコデモはイエスと敵対するパリサイ派でありながら、イエスをよく知ろうとした人でした。彼は、祭司長など権力者たちがイエスの殺害を企て捕えようとしたときも、逮捕するなら律法の規定に従うべきだと発言したり(7章)、イエスの遺体を引き取って埋葬までしています(19章)。信者ではないけれども、密かに尊敬していたのではないかと思います。そうでなければ、わざわざ危険を冒してまでイエスを訪ねることはなかったでしょう。
ニコデモはイエスから教わる気満々だったのに、残念ながらその対話は全くかみ合わないままでした。そもそも彼がイエスにひかれたのは、その「しるし」を見たからであり(2節)、それはイエスからして信用に値するものではありませんでした(2:24)。また彼は確立した律法にまったく疑問をもたなかったので、何かを変えるような発想はなかったのでしょう。しかしイエスの言うことはまさにその真逆でした。新たに生まれるとか(3節)、霊から生まれるとか(5節)、風は思いのままに吹くとか(8節)、正解ありきの発想に留まるニコデモには理解できないことでした。しかしそれはニコデモに限らず、私たちもイエスの言っていることは非常に抽象的なのでよく分からないのです。せいぜい思いつくのは、心機一転とか、生まれ変わった気持ちでやり直すとか、その程度です。本当はどういうことなのでしょうか。
今まで解説書や高名な先生方の説教を読んでも、あまり納得できる答えはありませんでした。ただカール・バルトの説教は何か心に響くものがありました。バルトの視点は独創的で、この話は「ニコデモの回心」だと言うのです。「どうしてそんなことがありえましょうか」(9節)と言ってから、ニコデモはこの話から完全に消えてしまいます。そして後にはイエスの独白だけが続いています。ニコデモの回心どころか、彼がこの後どうなったかさえ触れられていません。イエスを多少理解して帰ったのか、何も得ることなくそこに留まったのか、それさえも言及されないのです。しかしバルトは、ニコデモの存在が消えてなくなり、イエスの語りかけだけ残ることが、彼の回心なのだと言います。
私なりにまとめるなら、バルトの言う「回心」とは、人の心や生き方が変化することではないようです。むしろ人の存在が無となり神に目が向くという、主体の転換の問題なのだと思います。つまり、神の絶対的な愛や恩寵の前には、私たちが何者でどんな存在であるかさえ、もはや何の問題にもならないということでしょう。それほどに神の恩寵は絶大なのだから、私たちはそれに信頼して安心して生きればいいのです。自分の不信仰や不完全さについて思いわずらう必要もありません。「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(8節)という言葉も、人知を超えた大きな力の中に私たちが生かされているということです。パウロはそのことを、「生きているのはもはや私ではない、キリストが私の内に生きているのである」と言っています(ガラテヤ2:20)。
教会では、「信仰」が「倫理道徳」と混同されがちです。人がみな同じなら信仰の意味がないとか、何でもありなら困るという人は、まだ新しく生まれていないのでしょう。生きる上でこのコペルニクス的転換に気付けるなら、こんなに有難いことはないでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2022年2月13日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書3章16~21節
説教 「安心して生きる」
牧師 藤塚 聖
信仰は人を救済するはずなのに、必ずしもそうでない場合があります。ある牧師の体験を読んでもそう思いました。彼は若いころ信者でありながら救われている確信が持てなくて、神学校で研鑽を積みました。在学中に闇の中でもがき苦しみ、卒業間際になり、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」(3:16)という言葉に出会い、やっと光を見出したというのです。しかしこれは例外ではなく、信者の多くがよく分からないまま不安で確信を持てないという面があると思います。
私は信仰的に苦しむことはなかったのですが、信じる者だけが救われるという教会の教えには疑問を感じていました。現実的に考えて、日本の99パーセントの人が、死後地獄に落ちるとは考えられないのです。また信者であっても、その信仰が今後どうなるか誰にも分かりません。それなのに、神の愛は人の信仰のある無しに関わらないということを、教会の中で聞いたことはありませんでした。そのように、肝心なことはいつも曖昧にされていたのです。
また、信仰というのは十字架の贖罪を信じることであり、それを信じる者が永遠の命を得て、信じない者は滅びると教えられてきました。まさに本日の個所もそのように読まれていて、聖書は全てそのことを証言していると教えられています。しかしながら信仰には多様なかたちがあって、このヨハネもパウロも贖罪論ではありません。
それならば3章15節以下をどう理解すべきでしょうか。まず、「神は…世を愛された」(16節)という点です。「世」はこの現実世界であって、その中には悪人も善人もいて、神は全部含めて愛したということです。もっとも、本来「愛」というものは無償で無条件なものなので、信仰のある無しによって限定されるようなものは愛とは言えません。
また、「信じる」とは広い言葉であって、何かを信じるというよりもとにかく信頼感、安心感を持って生きる態度を言います。だから独り子を信じるとは、キリストにおいて安心して生きることです。
また、ヨハネの神学は「現在的終末論」と言われています。つまり、常に今現在が問題であって、「滅びる」「永遠の命」「裁く」「救われる」は、将来的な死後の事柄ではなく、今現在の人間のありようのことが言われています。だから信じないで、つまり絶対的な安心感を持たないでいる者は、そのことによって今現在が非常に悲惨で酷いことになっており、闇の中にいる状態だというわけです(19節)。人生の荒波を渡るときに、羅針盤を持たないで進むことはまさに地獄でしょう。何によってそのような信頼感を持てるのか、それは人それぞれかもしれませんが、とにかく持てない人は、自らを裁いて滅ぼしていることになると、多少大げさかもしれませんが、ごく当たり前のことが言われているのです。
私たちなら、「独り子」(16節)「御子」(17節)であるイエスキリストとの出会いによって、生きる上での根本的な信頼感と安心感をいただいていることでしょう。そうであるならば、それが今この世において「永遠の命」(16節)を生きていることになるのです。人生で何があったとしても、根本的な支えがあるのだから、前に進んで行けるでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2022年2月20日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書4章16~26節
説教 「普遍的である真理」
牧師 藤塚 聖
少し前の話になりますが、新聞に著名な司祭の「提言」が二日にわたり掲載されていて、共感しながら読みました。この司祭は全ての人の無条件の救い、いわゆる「万人救済」を表明していました。私もそれをいつも説教で語っているのですが、キリスト教会では、今でもそれが主流にならないのが不思議な気がします。逆に、信者だけの救いを信じる人が依然として多いのです。その司祭は、宗教教義を語るのではなく、普遍的な言葉によって、万人の救済を説く宗教が今後主流になるだろうと言っていました。これからの時代は、そのような宗教が、互いに尊敬しあって平和のために協力できる素地を作っていけるというわけです。つまり中身もその表現も、普遍的でなければならないのでしょう。そこに宗教の未来を見る思いがします。
その意味では、ヨハネ福音書はそれなりに普遍的な信仰を表現していると思います。本日の話も、色々な面で狭さが破られて広がっていくことが示されています。まず、ユダヤ人のイエスがサマリア人の女性と話をしたということです。何でもないことのように思いますが、深堀するなら複雑な事情が見えてきます。ユダヤ人とサマリア人はもともと一緒でありながら、歴史的な事情により憎み合うようになり、特にサマリアに対するユダヤ人の差別意識は酷いものでした。イエスがわざわざサマリヤを通ったこと(4:4)、そしてさらにこの女性と対話したということは、それらの狭さを打ち破ったことになります。女性が夫以外の男性と話をすることは、現代世界でも国や地域によってはタブーなので、ましてや当時の状況では考えられないことのようです。このように考えると、この話しは、民族的な偏見や差別のみならず、性差による偏見や差別という壁を打ち破っているといえます。
さらに、二人の対話は最後には礼拝の話になっていきますが、イエスは礼拝する場合、エルサレムでもゲリジム山でもない所で、神を礼拝する時が来ると語りました(21節)。もともとイエスはエルサレム神殿には批判的でしたが、礼拝場所の問題だけでないのでしょう。「霊と真理を持って
父を礼拝する時が来る」(23節)と言うのだから、まことの神礼拝というのは、ユダヤ教かサマリア教かという問題でもないのでしょう。イエスはそういう時が来ると繰り返すのですが、私たちの現状はそれからは程遠いと言わざるを得ません。教会の礼拝は自分の宗教が正しいと喧伝する場所になっているのですから。イエスは特定の宗教を超えるような、普遍的な信仰を言っているのかもしれません。
最後に角度を変えて、礼拝について補足します。イエスとサマリアの女性の対話がかみ合わないのは、彼女は現実の水のことを言い、イエスは渇かない水という人の本質面を言っているからです。決して渇かない生ける水とは、神とつながる実感をいっていると思います。それが分かるなら、自分の中で泉となるからです。確かに、このサマリアの女性のように毎日水を汲み、日々生きることに苦労するのが人の現実です。しかし「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)存在でもあります。この両方があって人間というものです。したがって、礼拝とはそのバランスをとるところだと思います。日々の苦労を携えながら、すでに頂いている生ける水を再認識するところです。渇くことのない生ける水を確信するなら、私たちの日常はきっと違って見えてくることでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2022年2月27日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書4章39~42節
説教 「自分で聞いて納得する」
牧師 藤塚 聖
イエスは復活者を見てやっと信じたトマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」(20:29)と言いました。これがヨハネ福音書の結論と言えます。それなら「見ないで信じる信仰」とはどういうものなのでしょうか。この福音書は、信仰をもっていない人に向けたものではなく、すでに信仰のある人に向けて書かれたと言われています。つまり教会の信者に対して、浅い信仰から見ないで信じる信仰へ深めていくことを教えています。
本日の話は、信仰の在り方は階段のように一段づつ上っていくことが一つのテーマとなっています。話の内容としては、生ける水について対話したイエスを、サマリアの女性はメシアだと信じて、そのことを町の人たちに伝えました。彼女がどのようなメシアを考えていたか分かりませんが、自分の複雑な内情をイエスに全部言い当てられたことから、メシアだと思ったようです。(29節)。何だか占いを信じる人と同じで、それが果たして信仰と言えるのかどうか怪しいのですが、とにかくイエスを特別な人と思ったのでした。
町の人たちも最初は彼女の話をうのみにして、イエスのことを信じたのですが(39節)、これが信仰の第一段階だと思います。私たちも、霊感により突然悟りを啓いたわけではないし、自分で修行したのでもありません。信仰の先輩に導かれたり、牧師の説教から学んだり、教えられるままに無批判に受け入れたのが始まりだったと思います。しかし信仰には必ず次の段階があります。そのまま受け入れたものが、自分の経験などに照らして本当にそうなのか、自分でもよく理解して納得しているのか、そこが問われるのです。町の人たちも、イエスを招いて直接話を聞きました。二日間も滞在してもらって、不明確なところや疑問だった点も解消して、イエスの話に本当に納得して了解できるようになったのでしょう。教えてくれた女性に対して、「もうあなたが話してくれたからではない、…自分で聞いて、…分かった」(42節)とあるように、これが借り物ではなく自立した信仰だと思います。
さらに、この自立した信仰について、注意すべきことあります。それは、自分でつかみ取った信仰を最終結論にしてしまうという落とし穴です。やっとつかみ取った確信なので、それを批判されたくないのは分かります。しかし凝り固まって聞く耳を持たないのは問題です。批判的にとらえた自立した信仰であっても、それもまた批判の対象なのです。あのパウロでさえ、「既に完全な者となっているわけではありません…既に捕らえたとは思っていません」(フィリピ3:12-13)と言っています。
最後にまとめます。信仰はまず他者の証言を信じることから始まります。次に、その無批判な信仰から、自分の頭で考えた自立した信仰に移行しなければなりません。そしてその自立した信仰であっても他者の証言には耳を傾けるのです。これが「見ないで信じる信仰」のひとつの姿かもしれません。
(牧師 藤塚聖)
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2022年3月6日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書5章1~18節
説教 「神は今も働いている」
牧師 藤塚 聖
安息日に、イエスは38年間も病気に苦しんだ人を癒しました。しかし安息日の禁止規定は律法の中でもとくに厳しかったので、癒された人が床を担いで歩くことも咎められるくらいでした(10節)。ましてや、それをあえて無視するイエスを、ユダヤ人たちは絶対に許すことはできずに、殺そうと企みました(18節)。旧約聖書にも、それを破るものは殺されねばならないとあるので(出エジプト31:14以下、35:2以下、民数記15:32以下参照)、ユダヤ人たちからすると当然のことだったのでしょう。元々は人や家畜の休息のために設けられた恵みの規定だったのに、歴史の中で大きく変質して、日常生活を縛り違反者を殺すことになるのですから、宗教の持つ恐ろしさを思わずにはいられません。
罪を犯すと悪いことが起きるというイエスの言葉は(14節)、この人が犯した罪のせいで病気になったことになりますが、果たしてイエスがそんなことを言うのでしょうか。生まれつきの盲人に対する偏見に対して、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(9:3)とはっきり反論しています。従って、14節は「教会的編集者」の加筆ということでしょう。この人たちは、ヨハネ本人とは別の考えを持っていたので、非常にやっかいです。この福音書を通読してみて、違和感のある個所は加筆を疑ってみていいかもしれません。
さて、イエスは安息日の律法が本来の目的から完全にずれているから、「人が安息にとのためにあるのではない」(マルコ2:27)、「安息日でも息子や牛が井戸に落ちたら助けるだろう」(ルカ14:5)というように、人として至極当然のことを言っています。本日の話では、「私の父は今もなお働いている、だから私も働くのだ」(17節)と言いました。イエスは神が安息日も平日も関係なく私たちに働きかけて下さるのだから、私もそうするのだと言っています。神の意図するものが、自分を突き動かすことを強く感じていたのでしょう。
さて、神自らが働くということでは、1960年代に「神の宣教」という神学思想が注目されました。「ミッシオデイ」という言葉が教会で流行語になったのを思い出します。これはカトリックの第二バチカン公会議が提唱したこととも関わっていて、かつて西欧教会が植民地政策と連動して、キリスト教を押し付けてかの地の宗教と文化を破壊した反省に基づいています。それは、教会が神の働きを世界にもたらすという考え方から、先に神が世界で働いていて教会もそこに参画するという考え方への転換です。つまり神はつねに世界に働きかけ、人を介して愛と平和と正義の実をもたらしているのだから、教会もそれを見出してそこに参画しようということです。
要は、神の働きは「布教」や「伝道」に限定されないということでしょう。そうでなければ、イエスの時代のように、安息日律法や神殿に神の働きを閉じ込めるという間違いを繰り返すことになります。神の働きはそんな狭いところにおさまるはずがありません。だから教会が平和や人権、環境や命の問題と向き合うことは、私たちが思っている以上に大きな意味があるのだと思います。
(牧師 藤塚聖)
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2022年3月13日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書5章31~44節
説教 「神を明らかにする」
牧師 藤塚 聖
教会の説教というのは、権威をもって断言法で語るべきだと言われます。「こうなのだ」と単純明快でなければならないというわけです。しかし私はそれに違和感があり、「私はこう思います」という言い方をしています。というのは人は物事を主観的にしかとらえられないからです。たとえ絶対的な真理があったとしても、それを捕えるのはあくまでも人間なのだから、どうしてもその人の主観でしかないのです。何が真実かということも、それを見た人の数だけ多様性があるというのが、今の時代になってやっと定着した見方ではないでしょうか。
例えば「神」や「キリスト」をどう考えるか、信者の間でもみな違うと思います。教会の歴史はその主義主張の争いだったから、これだけの教派に分裂しているわけです。もっとも異端審問や宗教戦争のことを考えるなら、それは純粋に真理を追究したというより、権力争いの面が大きかったと言えます。
本日の話の中で、イエスは神の御心を行っていることを、色々な証拠を上げて証明しようとしています。イエスは自分こそが神の子だと言うのですが(5:19以下)、これも主観にすぎないのでしょうか。私たちは相手がイエスだから疑問をもたないのですが、もしも一般人がそんなことを言うなら、その証拠を示してほしいと思うでしょう。この話はヨハネ福音書の時代状況と関わっています。教会は第二世代になり、生前のイエスや弟子たちの証言を直接聞くことができなくなりました。だから色々ある証言や文書の内、何が信用できるのか問題になったのです。
5章19節から延々と続くイエスの話は、回りくどくて何を言いたいかよく分かりません。ただし面白いのは、イエスは4つの証拠を示しておきながら、それを自ら否定していることです。1番目は洗礼者ヨハネの証言(33節)、2番目は自分を遣わした父の証言(37節)、3番目は旧約聖書の証言(39節)ですが、それぞれ理由があって否定されています。消去法により残ったものとして、イエス自ら行っている業そのものが、遣わされたことを証しているということのようです(36節)。
確かにヨハネ福音書では、奇跡や復活ではなく、ありのままのイエスを見て信じる者になれと繰り返されています。それは特別なことではなくて、イエスの言葉や行いを見てそこに神の御心を感じるということです。その中心にあるのは「愛」です。ヨハネ福音書とヨハネの手紙は、他の新約諸文書と比較しても桁違いに「愛」というものを強調しています。「私の愛に留まりなさい」(10:10)、「互いに愛し合いなさい」(15:12)、「命を捨てること、これより大きな愛はない」(15:13)、「神はそのひとり子をお与えになるほどに、この世を愛された」(3:16)などなど。
イエスは神の愛を支えに、隣人愛を貫き、命を差し出す生き方をしました。これは必ずしも皆に理解されないかもしれません。しかしイエスに出会った人は、そこに神の御心を感じたことでしょう。「神は愛である」(1ヨハネ4:16)とあるように、「神」とは「愛」の関係そのものだと単純化できると思います。人が相手を大切に思い、相手からも大切にされる関係、それが人間や社会の基本であり本来の姿であるはずです。分かっていながらエゴや自己愛に偏る私たちが、繰り返し立ち返る原点にしていきたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
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2022年3月20日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書6章41~51節
説教 「手をつなぎ孤独に考える」
牧師 藤塚 聖
「父が引き寄せてくださる」(44節)、「信じる者は永遠の命を得ている」(47節)というイエスの言葉から、信仰について考えてみたいと思います。この二つの言葉をつなぐなら、私たちは神に引き寄せてもらっていて、それを信じられるなら永遠の命を生きることになるというわけです。私たちは何となく、永遠の命というものは、信仰を持てばそのご褒美として死後にもらえるものというイメージを持っているのですが、しかしヨハネ福音書では「現在的終末論」と言って、信仰の問題を遠い将来や死後のことではなく、今現在の在り方として考えています。従ってこの「永遠の命」というのも、私たちが信仰を持って生きているなら、今すでに永遠の命を生きているということになります
次にこの「永遠の命」を分かりやすく言うなら、何にも縛られることなく自由によりよく生きることなので、もし私たちがそうでないなら、信じる者になっていないということになります。私たちは長く信仰生活をしていても、今一つ分からないし確信を持てないので、その生き方においても不安だらけなのです。上記のイエスの言葉に沿うなら、信じる者になりきれないので、今も永遠の命を生きていないということです。
それは仕方ない面があります。キリスト教は分かりにくく複雑で、聖書や教理や歴史に通じていないと本当の信仰ではない感じがあるからです。しかし信仰とはきわめて単純なものなのかもしれません。私ならば、神との固いきずなに信頼して安心して生きることだと言い表します。それは私が背を向けたとしても、決して消えない絶対的なものなので、何の不安もありません。
新聞で、評論家片山杜秀氏の印象的な文章を読みました。そのタイトルの「手をつなぎ孤独に考える」を本日の説教題に拝借しました。三つの小説が紹介され、その主人公が夫々にとって大切なものにつながり、それで危機を乗り越えていったという内容です。大前提として、人は孤独では生きていけないということ、何かとつながることで勇気をもらい、しかしその相手に縛られないで、頼りながらも一人で考えて生きるということが言われていました。それが近代人のあるべき姿だというのが結論です。それは人間関係でも同じことが言えるかもしれません。会えなくても本当に信頼できる人がいて、その人とつながっていると思うことで、勇気をもらったり励みになったりすることがあります。神との関係も同じであって、固くつながっているからこそ安心して、あとは間違ったとしても、自分で考えて自分の力で試行錯誤しながら進んでいくことができるのでしょう。そういうことでは、誤解を恐れずに言うなら、親離れならぬ神離れすべきなのかもしれません。
ドイツの神学者ボンヘッファーは、キリスト教の将来を見据えて多くの言葉を残しました。その中に次の言葉があります。「神という作業仮設なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる。」私たちは神と共にあるからこそ、神に寄りかからないで生きることができるというわけです。作業仮設としての神、つまり人にとって都合のいい神への信仰は転換すべきなのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2022年3月27日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書6章47~59節
説教 「イエスの命をひきつぐ」
牧師 藤塚 聖
イエスは自分を「命のパン」だと言いました(48節)。以前サマリアの女性と対話したときは「生きた水」と言い(4:10)、他に有名なものでは「ぶどうの木」や「良い羊飼い」などがあります。これらの意味はイエスとの出会いを経験して、彼に倣って生きるなら、永遠の命を生きることになるということです。ヨハネ福音書では、永遠の命は死後のものではなく、今をより良く生きる命のことなので、もしそうであるなら魂において飢えも渇きもないのは当然のことなのです。
このようにイエスの話は、子供にも分かるような極めて単純で分かりやすいものなのに、51節からは急におどろおどろしい話に変わっています。それによると、パンとはイエスの「肉」であり、それに加えてイエスの「血」まで出てきて、その肉を食べて血を飲む者が永遠の命を得るというのです(54節)。
この論調の違いは、51節から58節までは、ヨハネとは別人の「教会的編集者」が加筆したからです。この加筆者はヨハネとは全く違う思想の持ち主であって、ヨハネの意に反することを大量に付け加えています。もしヨハネが自分の福音書にそんな加筆があるのを見たなら、怒り心頭なのではないでしょうか。まず、ヨハネは復活も永遠の命も、今現在の事柄として考えています。一方でユダヤ教には、終わりの日にすべての者が復活して最後の審判を受け、救われる者と断罪される者に分けられるという思想があります。ヨハネはそれを批判しているのに、加筆者はそれを無批判に認めているのです。
次に、この話は明らかに聖餐式を想定しています。ここで言われているように、教会ではパンとぶどう酒がイエスの肉と血とみなされ、不死の薬のように扱われたのでしょう。ヨハネはそれに対して強い批判を持っていたと思います。というのは、聖餐式の原型である弟子との最後の食事(最後の晩餐)の場面を省いて、代わりに「洗足」(13章)を記しているのが何よりの証拠です。ヨハネにとって、イエスがパンとぶどう酒を手渡した本来の意味は、むしろ「洗足」にあったのでしょう。
これにはまた別の問題があり、聖餐式でイエスの肉と血を強調することが、教会からユダヤ人を遠ざける働きをしたようです。ユダヤ人にとって血や血抜きしていない肉はタブー中のタブーでした(創世記9:4、レビ記7:27)。それは小さいころから教育され、そう簡単に克服できるものではないのでしょう。実際にイエスの弟子たちの中からも、多くの者がそれにつまずいて、イエスのもとから離れて行く者が多くあったようです(60節、66節)。
最後の晩餐でイエスがパンとぶどう酒を手渡したのは、弟子たちに自分の命を託して、それがひきつがれることを願ったのだと思います。つまり神の愛を信じて自らも愛を貫徹する生き方です。そういう意味で「私の体と私の血」をあとの者たちに託したのでしょう。しかし残念ながら後の教会では、聖餐は不死の薬になり、教会からユダヤ人信者を排斥する手段になったのでした。
イエスが弟子たちに託した命は、永遠の命でもあり神の恵みそのものです。「洗足」の姿にも通底しています。それなのにそれが教会から人を排斥することになったり、恵みを受ける条件に制限が加わったりすることは、イエスの意図に沿っているとは思えません。イエスは皆に命のパンを手渡されました。
(牧師 藤塚聖)
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2022年4月3日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書6章60~65節
説教 「真実に生きるとは」
牧師 藤塚 聖
先週の学びの会で聖書の「正典性」について話し合いました。正典とは宗教の規範となるものです。とは言え、聖書には実に多様な文書があって、これが答えだと簡単に分かるものではありません。イエスもユダヤ人たちに、聖書に答えがあると思って探しているが、それはイエスについての証言に過ぎないと反論しています(5:39)。つまり私たちは聖書の証言を基にして、自分なりの答えを見つけねばならないのです。
本日は「命を与えるのは霊である、肉は何の役にも立たない、私があなた方に話した言葉は霊であり、命である」(63節)というイエスの言葉を考えてみます。「命」がより良く生きた命であるなら、どうすればそうなるでしょうか。高度経済成長時代は、物質的な豊かさが追求されました。しかし今は生活水準が上がり豊かになることと、より良く生きることは別の事柄だと思われています。
先月来ウクライナのことがニュースにならない日はありません。ロシアの侵略により、何百万人が隣国で避難民生活を強いられ、日々何十何百という人が亡くなっています。先日牧師の友人たちの間で意見交換をしました。一つの意見は、ウクライナが大幅譲歩して即時停戦して命を優先するというものでした。命あっての物種だし、将来に希望を託すのです。他の意見は、命がけで戦っている人たちの思いを受け止め、ロシアに絶対勝たせてはいけないというものでした。
思い出したのが、人権活動家マララさんの名前の由来です。15才とき過激派に襲撃され瀕死の重体になったあとも、女性の教育の必要性を世界に発信しています。史上最年少の17才でノーベル平和賞を受賞しました。マララは、父が民族の偉大なヒロインのマラライにちなんでつけた名前です。マラライは英国との戦争で先頭に立ち兵士を鼓舞してこう言いました。「家畜として百年生きるより、誇り高い獅子として一日を生きる」と。当然ながら命は一番大事だが、それでも生存することより大事なものがあるということでしょうか。
「命を与えるのは霊であり、肉は何の役にも立たない」というイエスの言葉はどう捉えたらいいでしょうか。「命」「霊」「肉」が何を意味するかです。イエスは悪魔の誘惑に対して「人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と反論しました(マタイ4:4)。パンにより満たされる「肉」、つまりただ命を保つより、人としての尊厳や自由、自己決定権があって、初めて人は本当に生きたことになると考えるなら、先のマラライさんの言葉につながります。
一方で、「肉」は役に立たないとイエスは言いますが、私たちは人である以上、「肉」なるものは否定できません。それはある意味で非常に現実的で常識的な在り方と考えられます。しかし決定的な時には、それは本当に役に立たないのでしょう。そして「霊」を神の言葉ないしイエスの言葉と考えるなら、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)は常識と現実を完全に覆します。イエスはまた「剣をさやに納めなさい、父がお与えになった杯は飲むべきではないかと」と言って十字架に赴きました(ヨハネ18:11)。これは絶対非暴力無抵抗を言っているのでしょうか。
いずれにせよ、聖書を開いても簡単に答えは見つかりません。私たちは一人一人が神の前に立って、間違ったとしても自分で考えて、自分の答えを出すしかありません。
(牧師 藤塚聖)
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2022年4月10日(日)10:30~
聖書 コリントの信徒への手紙二13章1~4節
説教 「弱さとしての十字架」
牧師 藤塚 聖
先週の読売新聞に、「悪魔の証明」という短いコラムが載っていました。悪魔の証明とは、証明がほぼ不可能なことの例えですが、証明する場合に人によって真逆の見方が成り立つのは、「事実は一つでも、真実は人の数だけある」ということによるようです。
それと同じように、イエスの死についても、それをどう見るかは色々な見方ができます。事実としては、イエスがローマの十字架刑により、昼間に何か叫んで死んだということです。そのイエスの死を「贖罪論」では人の犯した罪の贖いと見ます。つまりイエスは人類の罪を背負って、身代わりで死んだという訳です。これは弟子たちの体験が大きな要素となっていると思われます。恩師の惨殺と自らの裏切りから立ち直るためには、その死を意味あるものと考えねばならなかったのです。弟子たちは旧約の「苦難の僕」(イザヤ書他)を援用して、身代わりの死とすることで負い目から解放されたのでしょう。しかしその弟子たちにとっての真実が、そのまま全ての人の真実であるとは限りません。私は贖罪論にはどうしても違和感があり、自己犠牲という面には心が動きますが、罪の贖いとなると疑問符が付くのです。
福音書の中のイエスは、社会の中で差別された人と共に生きて、神の意思に沿って愛を実践したことが、権力者の反感を買い、処刑に至ったというものです。これは神の愛を徹底して生きて、死が予想できても最後までそれを貫いたという姿です。ピリピ書の「キリスト賛歌」(2:6-11)がそれに近いかもしれません。またヨハネ福音書には贖罪論がなくて、十字架の死は神への帰還であり、イエスはこの世を愛する神のアガペーの体現者として表現されています。そういうことであるなら、私はこちらの方が共感できます。
それならば、パウロにとっては、イエスの十字架はどういう意味を持っていたのでしょうか。現在、教会の学びの会で青野太潮氏の本を勉強していますが、結論から言うと、パウロは十字架を弱さと見て、そこで神の力は完成すると理解したようです。コリント教会の論争相手は、キリストは
堂々と力強く奇跡を行い、敢然として贖罪の死に向かい、光り輝く姿で復活したスーパーマンと信じていました(3節)。それに共感する信者は多いのかもしれません。それに対して、パウロはキリストは弱さのゆえに十字架につけられたと言います(4節)。このように、パウロにとって、復活のキリストは栄光に輝く姿ではなく、無惨にも十字架で殺された姿のままで、自らをさらし続ける方でした(1コリント2:23他)。そこに神の力を信じるというのは完全に逆説でしかありません。したがって、パウロの回心というのは、強い在り方を捨てて、弱さに徹することによる救済だったと思われます。
確かに、今の世界の状況を見るときに、弱さと悲惨さと絶望しか見えないし、神の力があるとは信じられません。しかしそれでも隠れた仕方で、強さではなく弱さの中にこそ神の力があると言えなければ、私たちは前に進んでいけないのだと思います。その意味では、弱さとしての十字架は私たちに本質的なことを示しているのかもしれません。
このように、聖書では十字架の死をどう見るか一様ではなく、色々な見方があります。その中に自分を本当に救済するものがあるのなら、それが自分にとっての真実だと思います。
(牧師 藤塚聖)
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2022年4月17日(日)10:30~ イースター礼拝
聖書 コリントの信徒への手紙一15章1~11節
説教 「私たちに現れたキリスト」
牧師 藤塚 聖
先週の礼拝で、イエスの死をどう受け止めるかは、聖書内で様々だという話をしました。復活のイエスとの出会いもそれを同じで、聖書の中には多様な見方があります。そしてそれが体験者に何をもたらしたのかも、人により違いがあります。
ヨハネやルカの復活物語はすごくリアルなので、私たちはイエスの顕現とはこういうものだと思ってしまいます。ヨハネ福音書では、イエスが弟子たちに話しかけて手とわき腹を見せているし(20:20)、ルカでは、亡霊だと恐れる弟子に、イエスはわざわざ焼き魚を食べて見せました(24:43)。しかしその一方で、最古の福音書マルコでは、イエスは全く登場することなく、白い衣の若者がガリラヤに行けば会えると告げて完結しています(16:7)。ヨハネもルカもマルコより20年、30年後のものなので、聖者伝説としてかなり脚色されたのではないかと思います。
それではパウロの復活者との出会いはどうであったか、使徒言行録には3回報告されますが(9,22,26章)、かなり劇画化されています。パウロ自身は、神が「御子を私に示した」としか語りません(ガラテヤ1:16)。つまり彼の心の中に現れたということです。第1コリント15章では、ペテロに始まってパウロまで相当数の人にキリストが現れたことになっています。ただし「現れた」は「見られた」という言葉なので、キリスト自ら「現れた」というよりは、弟子たちの主観として「見た」ということです。これらはパウロもそうだったように、体験者の内面的な出来事だったのでしょう。
私たち自身のことで言えば、目の前に復活のキリストが現れたという人はまずいないでしょう。見たら信者になるというものでもありません。信仰に至るのはそんな単純なことではないと思います。「復活者と出会った者は必ず信者になる」という定理は、神学生のとき某先生から聞いたものですが、これは「信者とは必ず何らかの形で復活者と出会っている人だ」ということでしょう。つまり復活者との出会いとはきわめて主観的で実存的なことなのだと思います。
例えば、自暴自棄に陥った直弟子たちには、復活のイエスは慈愛と赦しの姿に見えたことでしょう。またその死を罪の贖いと受け取ることで、やっと負い目から解放されたのです。自死したユダを思うと、そうでなければ精神を病んで生きていられなかったかもしれません。彼らは師の恩に報いるために、その活動を継ごうとしたのでした。
他方で、パウロには、キリストは十字架にかかった無惨な姿で現れました(1コリント2:2、2コリント13:4)。彼はそこに意味を見出し、それが逆説的に彼を生かす力になったのです。それによって、自らを縛って苦しめた律法から解放されたのでした。
私たちの復活体験はどうでしょうか。聖書のように劇的ではないかもしれませんが、信仰者であるということは、みな必ず何らかの出会いがあったということです。私にはイエスの生と死が人生の指針となることで、出会いがあったのだと思います。そしてその基本にある神の愛から、絶対的な自己肯定感をもてました。それが出会から私に与えられたものなのでしょう。「キリストが私の内に生きている」(ガラテヤ2:20)というパウロの言葉も分かる気がします。
イエスキリストを知って、それによってどんな形であれ生きる力を与えられているのなら、それがその人の復活体験なのでしょう。だから、キリストの復活とは私自身の復活なのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2022年4月24日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書24章28~35節
説教 「イエスと共に歩む人生」
牧師 藤塚 聖
エマオ村へ行く弟子にイエスが同伴した話は、復活物語の中でも印象的であり、西洋の絵画で多く描かれています。エルサレムからエマオまでは約11キロの道のりなので、弟子たちは半日以上もイエスとじっくり語り合うことができました。
イエスが途中から加わるまで、二人はこの数日の出来事を振り返っていました。イエスの逮捕と処刑、議員のヨセフによる埋葬(23:50)、空の墓と天使の告知(24:2)など、これらの衝撃的な事件とそれに付随する情報を、どのように受け止めたらいいのか論じ合ったのでしょう。そこにイエスが加わって、一連の出来事の意味を聖書全体から説き明かしたのでした。メシアが苦しむことは預言者がとっくに言っていたことです(24:26)。それらを聞いて、弟子たちの心は大いに燃えました(32節)。けれども、夕食で祈ってパンを割いた姿から、イエスだと気付いたときには、その姿は見えなくなったのでした。
この幽霊のような不思議な話をどう考えたらいいのでしょうか。私たちにも、経験上見ていても分からないという事はいくらでもあります。分かるにはどこかでスイッチが入る必要があります。ヨハネ福音書で、マリアが名前を呼ばれてやっとイエスに気付くのも(20:16)、かつての記憶と結びついたからです。祈ってパンを割くイエスの姿は、弟子にとっては日常だったでしょう。5千人との食事や最後の晩餐も同様です。これによって弟子たちが生前のイエスの出来事に呼び戻されるなら、もう用が済んだということなのでしょう。先週も話したように、復活のイエスに出会うとは、生前のイエスに出会うことであり、その行いと教えに引き戻されることなのだと思います。その意味では、この話はきわめて示唆的な気がします。そしてその対極にあるのが、この後に続く直截的な話です(36節以下)。これは「聖者伝説」でしかありません。
さて、私はこのエマオの話をイースター後に説教でよく取り上げてきました。それは、イースター前後の喧騒から離れて、二人の弟子がイエスと共に歩いて旅をするというのが、私たちの信仰生活と重なる気がするからです。私たちもイエスに出会って以来、その後長く信仰の歩みを続けているのですから。まずイエスが聖書全体を説き明かした点では、私たちも聖書の中の様々な思想や証言と対話して、人間と世界を考えながら生きていくことが言われている気がします。その解き明かしは説教だけでなく、出会いや信仰仲間との対話のなかで、心が燃える経験ができるなら何よりです。そしてその洞察をたえず更新していく機会として、日曜日の礼拝があるのでしょう。それと、イエスが祈ってパンを割いて渡した姿は聖餐を連想させます。これは聖餐式に限らずに、イエスの命の継承でもあり分かち合いです。人間同士の根源的な横のつながりも再確認させられるのです。このような私たちの歩みに、目には見えないけれど確かにイエスが同伴してくださることでしょう。
信仰生活は旅でもあり登山です。神の国に向かって、長丁場を信仰の仲間と共に歩みます。それは一人ではきわめて困難です。聖書から指針を示されながら、共に生きる仲間と色々なものを分かち合いながら歩んでいきましょう。
( 牧師 藤塚聖 )
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2022年5月1日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書7章1~9節
説教 「時が来たならば」
牧師 藤塚 聖
キリスト教の分かりにくさは、二重構造になっているところにあります。
キリスト教は教義や制度、教会組織が一つの大きな体系になっていて、それを重視する人と、その中でイエスを追い求めて従っていこうとする人がいて、この二つは簡単に切り分けられません。その間で揺れているのが私たちの現状です。またそれと関連して、どうしてもキリストの神性が強調されるので、人としての側面が後退してしまうのです。しかし聖書には人間イエスの喜怒哀楽もあり、そこに人としての真実が示されているように思います。
本日の話では、イエスと兄弟たちとの不仲な関係が語られています。他の福音書には、宣教活動をしているイエスを、気がふれたと思って、母と兄弟たちが連れ戻しに来た話もあります(マルコ3章)。ただし理解できなかったのは家族だけではなく、イエスの弟子になった者たちからも、離反者が多く出たようです(6:66)。彼らはイエスの教えにつまずいたのですが、それ以上にイエスの命が狙われていることに怖気づいて、離れて行ったのでしょう。
ユダヤ人社会では律法が大きな力を持っていましたが、イエスはその本質にもとづいて、無批判に従うことはしませんでした。しかしそれは普通の人には相当難しいことだったと思われます。大多数の者が疑うことなく従っていることを、イエスは否定したからです。
さて、地元に留まるイエスに、兄弟たちは「仮庵祭」に合わせてエルサレムへ行くことを勧めました(3節)。理由としては、彼らはイエスを信じていなかったので(5節)、危険人物が地元にいることで、面倒に巻き込まれるのを恐れて、追い出したかったのかもしれません。もう一つは、イエスの名声を利用して、世間に知られ有名になりたい、成り上りたいという野心があったのでしょう(4節)。事実、イエスの弟のヤコブは、後にペテロを蹴落としてエルサレム教会の権力者におさまったのでした。彼は保守的なユダヤ人たちから「正しい人」と言われていたので、イエスとは全く違う思想の持ち主だったのです。
このように、兄弟たちはイエスを理解せず、ユダヤ人社会の在り方を疑いませんでした。イエスが「世はあなたがたを憎むことができない」(7節)と言ったように、彼らはこの世の在り方にどっぷりと浸っていたのです。確かに、社会の大多数に逆らって別の道を行くことは勇気のいることです。現在のロシアで自国に異を唱えることを考えても、それは非常に難しいことです。イエスはこの時点では、「私の時はまだ来ていない」(6節)と上京を見送りました。イエスも、いつでもどこでも体制に逆らっていたわけではないでしょう。しかしその時が来たら、危険を冒してでも、我が道を行くということなのでしょう。
これほど大変なことでなくても、大多数に反して生きることは難しいことです。しかし自分の信仰に照らして、スルーしてはいけない決定的な時というものがあるかもしれません。その時に自分の考えを表明して、行動できるのか問われている気がします。今がその時ではないなら、自問自答しながら備えていたいものです。
( 牧師 藤塚聖 )
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2022年5月8日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書7章32~37節
説教 「外からくる声」
牧師 藤塚 聖
新約聖書には4つの福音書があります。その中でもヨハネは他と違って独特です。イエス伝というより、説教集か思想書にちかいです。そこで展開される思想は、イエスは人ではなく神の真理、つまりロゴスなので、神から遣わされ使命を果たしたらまたそこに帰還するというものです。その伏線はくどい位いたるところに貼られています(7:16,29,33)。この福音書が好きという人は珍しいのに、私の父は好みだったようです。「初めに言があった…言は神であった」(1:1)という冒頭によって、信仰が分かったと言っていました。
イエスは兄弟たちに上京を勧められても、「まだ私の時が来ていない」と言って最初は断りました(8節)。それにも拘らず、結局「仮庵祭」に参加しています(10節)。また人目を避けなければならないのに、よりによって境内の大衆の面前で教えを説くのだから、話の筋としては支離滅裂です。しかしこの福音書ではそのような理屈は完全に無視されて、神の計画の実現に向けて、すべてが成るように成っていきます。エルサレムで、イエスに対する人々の反応は分かれました。メシアだと認める人がいる一方で、捕まえて殺そうとする人もいました。それでもイエスに手にかける者はいませんでした。つまり「イエスの時がまだ来ていない」(30節)からであり、すべては計画通りなのです。
さて、ここでもユダヤ人たちとの対話は、毎度のことながら全くかみ合っていません。これまでも同じように、パリサイ派のニコデモは、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と言われても理解できず、水汲みに来たサマリアの女性も、「永遠の命にいたる水」(4:14)が分かりませんでした。
「私のいるところに、あなたたちは来ることができない」(34節)というイエスの言葉を、ユダヤ人たちはギリシャにでも行くつもりか(35節)、あるいは自殺でもするつもりかといぶかりました(8:22)。これにはいくつかの意味があります。一つは、イエスが十字架に挙げられて、神のもとへ帰ることです。ヨハネにとって、イエスの死は贖罪でも悲劇でもなく、神への帰還なので喜ぶべきことなのです。確かに、イエスはこの世での任務を完了すると、「成し遂げられた」19:30)と言っています。二つ目は、人はこの世に属しているから、属さないイエスのところには行けないということです。イエスはこの世に縛られず、私たちはがんじがらめになっています。そのために、世に属する私たちには、イエスの言葉がなかなか理解できません。全財産を施せと言われた金持ちががっかりして去ったのも(マルコ10:17以下)、イエスの真意が分からないからです。
考えるべきことは、イエスの言葉が異質で違和感があるのは当然だということです。そもそも私たちとは属しているところが違うのですから。何の抵抗もなくすんなりと受け入れられるのなら、それは私たちの中に既にあるものなのだと思います。逆に私たちの中に存在しないもの、違和感や抵抗感のあるものが、私たちの目を開いたり、新しくしたりするのでしょう。イエスは私たちに出来るか出来ないかではなく、もっと別の見方があり、別の世界が広がっていることを教えてくれます。そこに神に通じる道があるのかもしれません。
( 牧師 藤塚聖 )
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2022年5月15日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書4章31~38節
説教 「美化された歴史」
牧師 藤塚 聖
ヨハネ福音書は言葉を省略する傾向があるので、本日の話は真逆の意味にもとれるため非常に分かりづらく、沢山の説明が必要です。結論としては、ヨハネはエルサレム教会のやり方に文句があり、それをはっきりと批判しているということです。イエスの弟子たちは、異邦人伝道など眼中になく、エルサレムに留まって、直弟子という権威に胡坐をかいていたようです。一方で、地道に伝道していたのは、ギリシャ語を語る信者たち(ヘレニスト)でした。彼らは革新的な人たちだったので、ユダヤ人に迫害されて、サマリヤなど周辺地域に散らされました。しかしそこでめげることなく伝道したので、そのかいあって信者が生まれるのですが、そのうわさを聞き付けたエルサレム教会は、それを自分たちの手柄にして信者たちを支配下に置いたのでした。
31節以下は、このような批判がイエスの口を通して語られています。まずイエスが言う「食べ物」とは、神の真理を人に伝えることであり、直弟子たちはそれを全くやっていなかったわけです(32節)。農作業のたとえにあるように、農業とは本来労働した人がその収穫を報酬として得るものです。しかし古代資本主義によって、働かない地主が労働者の報酬を搾取する結果となりました(37節)。それと同じことが、キリスト教の伝道においても起こっていたということです。
使徒言行録8章には、それに関する報告が載っています。サマリア地方でフィリポの伝道により信者が生まれ、エルサレム教会からペテロとヨハネが視察にやってきました。これだけだとよく分かりませんが、ペテロが手を置いて(按手)初めて正式な信者と認可されています。つまり、周辺の教会は本部であるエルサレム教会の認可が必要だというわけです。さらに11章はもっと露骨で、アンテオケに信者がふえると、エルサレム教会はバルナバを派遣して教会をつくらせ、結果としては本部への上納金を要求しています。それをバルナバとパウロがエルサレム教会へ届けたのでした(30節)。
こうように、エルサレム教会つまりイエスの弟子たちは、自分たちは何もしないで、許認可権をたてにして、ヘレニストたちの伝道の成果を奪い取っていたのですが、使徒言行録はそれをオブラートに包んで、何も問題なく順調に教会が発展したかのごとくに描いています。著者のルカは、教会の姿を理想化して、いざこざや争いを伏せて、歴史を美化する傾向があります。しかし神の教会であってもそれは人間の営みなので、いろいろな問題があって当然なのです。従って、ルカの美化された報告は歴史をゆがめることになります。
それに対して、ヨハネは当時すでに権威になっていたエルサレム教会と直弟子たちを、はっきりと批判しました。キリスト教会にとって不都合な事実であっても、隠さないで明らかにしているのですから、見習うべき点だと思います。このようにキリスト教会の実態、つまり自分たちのやっていることに対して、はっきりと批判できるというのは健全な証拠ではないでしょうか。 ( 牧師 藤塚聖 )
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2022年5月22日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書8章1~11節
説教 「あなたは悪くない」
牧師 藤塚 聖
イエスが言う「あなたを罪に定めない」(11節)とはどういう意味でしょうか。罪だけれども罰しないということなのか、そもそも罪ではないというのか、どうなのでしょうか。もし「罪ではない」という意味なら、それに続く「これからは、もう罪を犯してはならない」は矛盾することになります。
イエスの前に連れて来られた女性は、姦通罪ということで、律法によると石で打ち殺すと定められていました(レビ20:10他)。いくら古代社会のこととは言え、両者の様々な事情を抜きに断罪して、石で打ち殺すというのは酷い話しです。しかも女性が人として扱われない社会においては、こういう規定は絶望的です。それは遠い昔の話ではなく、現代でも国や地域によっては行われています。数年前の新聞に、アフガニスタンで処刑された女性の記事が載っていました。同じ年にイランでも公開処刑の予告がなされ、国連の人権委員会が強く抗議したことを覚えています。そしてこれらに共通するのは、いつの時代でも処刑されるのは決まって女性だけなのです。
モーセの十戒の7番目に、姦淫してはならないとあります(申命記5:18)。これは倫理や道徳ではなく、その前後を見ると分かるように、人の物を盗むなという戒めです。つまり妻は夫の所有物であり、家畜や奴隷のように一生家や夫のために働くモノなのです。夫は気に入らなければいつでも捨てられました。それなのに、姦通については、盗んだ男性ではなく非人格のモノであるはずの女性が処罰されるのでした。このように、姦淫を禁じる律法は、女性不在のまま、男社会に都合よくでたらめに運用されていたのです。
この場面でも男性は雲隠れして、全ての責任がこの女性に押し付けられたのでした。イエスに「罪を犯したことがない者が、まずこの女に石を投げなさい」(7節)と言われて、みな後ろめたい気持ちになったのでしょう。誰もが叩けばほこりの出る身であり、彼女を石打にする資格など誰にもないのです。もしかすると威圧的な関係の中で、彼女は強引に関係を迫られたのかもしれないし、性犯罪被害者でさえあったかもしれません。それに対して、イエスは「あなたは何も悪くない」と言ったのではないでしょうか。そうであるのなら、「もう罪を犯してはならない」など言うはずがありません。
この話はカギカッコで括られているように、後になってから付加された話しのようです。ローマ帝国のコンスタンティヌス帝時代に、迫害によって棄教した信者を教会が受け入れるべきか否かが問題になったときに、棄教した信者をゆるして受け入れるシンボルとして、この話が利用されたようです。その際に、くぎを刺す意味で「もう罪を犯してはならない」という余計な一言が加えられのかもしれません。
この話を読んで、「もう罪を犯してはならない」という言葉に違和感を覚えた人は、ここから私たちの社会が抱える問題にも目が開かれることでしょう。今も残る家父長制や男女の格差、ジェンダーの問題など、この話から考えさせられることは多いです。
(牧師 藤塚聖)
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2022年5月29日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書8章21~30節
説教 「神は神である」
牧師 藤塚 聖
私たちは信仰者なので、神について自分なりのイメージを持っています。それは大体は教会の教えによって培われたものです。その中でも代表的なものは、神は正しい方なので、絶対的な正義によってこの世を導いているという考え方です。しかしそのような信仰は、歴史の中で幾つもの反論にさらされてきました。神がこの世を正しく導いているなら、なぜ不条理があるのか、なぜ苦しみや悲しみがなくならないのかというものです。また善人が不幸になり悪人が栄えるのはなぜかという問いもあります。
これらに対して、教会は様々な弁証を行って来ました。まず、善人と悪人についても、完全な善というものなくて全ての人は罪人だという教えです。どんな善人でも悪と無縁ではないという訳です。従って、ネガティブな結果にはその原因があるということになります。また現在の苦難は神の訓練であり教育だという教育論、あるいは現世の矛盾の解決を来世に託す終末論があります。今は苦しみ悲しみがあるが、それが世の終わりには必ず逆転するという考え方です。
これらは、聖書の中にその論拠はあるかもしれませんが、完全に納得できるものではありません。そもそも神の意思を人が代弁できるのかということです。私たちは分かったような顔をして神を語りますが、それは本来不可能だということに気付くべきなのでしょう。
旧約聖書では、ヨブ記がその人間の浅はかさを教えています。ヨブもその友人たちも自分の勝手なイメージで神を雄弁に語っていたのですが、最後にヨブは人間の限界を突き付けられました(42:2)。そして残ったものは、神がいるという事実だけでした(42:5)。
ヨハネ福音書も、人と神の断絶を語ります。イエスの属する世界と人のそれがまったく違うことは、何度も繰り返し指摘しています(23節他)。また「わたしはある」(24節、28節)という言葉は、人が勝手にイエスを規定することを拒否する言葉のようです。普通ならば、自分はこうだと説明するところを、私は私だとしてまったく説明しないのです。つまり、ヨハネ福音書は、人が神やイエスを自分の想像や願望で勝手に語ることを拒むことにより、神と人の間にある大きな壁に気付かせようとしているのかもしれません。要するに、人は分かった顔をして神をあれこれ語る資格はないし、理解できると思うことが不遜なのでしょう。まずは、神とキリストについての多くの思い込みを捨てねばなりません。
そうは言っても、まったく何もないことになってしまうと困ってしまいます。それなら私たちには何が出来るのでしょうか。そのすべてではありませんが、一例として、ヨハネ福音書では、四の五の言わずに、直にイエスに出会うことを繰り返し勧めています。つまり神を直接知ることが出来なくても、イエスを通して近づくことはできるからです(26節~29節)。ヨハネ福音書においては、イエスが「言」「真理」「光」「羊飼い」「門」など、説明抜きに、単純な言葉で例えられているのは、先入観を持たないで、イエス自身に直接出会うことの大切さが言われているのでしょう。聖書をよく読んで、私自身が何かを感じることが重要です。
(牧師 藤塚聖)
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2022年6月5日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書8章31~38節
説教 「解放されて生きる」
牧師 藤塚 聖
「真理はあなたたちを自由にする」(32節)は私の愛唱聖句の一つです。真理を知るとき人は解放されて自由になれるというのです。それは同時に、真理を知ることで自分が縛られていて不自由であることも分かるということです。これは宗教のことだけではありません。ロシア政府のプロパガンダにより真実が歪められ、それを信じる人は正しく判断できずに、不自由にされています。またアフガニスタンでは、タリバンの復権により中学高校の女子教育が実質禁止されました。女子に知恵をつけないということです。しかし社会の発展は教育なしにはあり得ないし、人が真理を学ぶことの重要さを改めて思います。
イエスとユダヤ人の対話の中で、ユダヤ人たちは、イエスの言葉に留まるなら自由になると言われて憤慨しました。自分たちはもともと偉大なアブラハムの子孫であり、自由を奪われた奴隷であるはずがないという訳です(33節)。私たちには疎遠ですが、アブラハムはユダヤ人にとって特別な存在です。神の祝福の根拠だからです。でもそれがユダヤ人以外の異邦人への差別につながっています。だからこのこだわり自体が、自分を縛り不自由にしているとも言えます。
さて真理を知るためには、イエスの言葉に留まらねばなりません(31節)。しかしそれはユダヤ人のみならず、私たちにとっても簡単なことではありません。イエスは愛や赦しだけでなく、俗人にとってほぼ不可能なことも語っています。7回を70倍にするまで人を赦すこと、敵を愛すること、迫害する者のために祈ること、自分の十字架を追って従うこと等々、これらについて実践できないなら、私たちは自由ではなくて、罪の奴隷だということになるのです。
少し目先を変えるならば、自由で解放されているとはどういうことなのでしょうか。これは本質的な問題です。社会の中で生きるとき、しがらみや人間関係の中で何にも縛られず自由でいられるのでしょうか。また自由なつもりでも、自分の判断や考え方が何かに大きく制約されているかもしれないし、自分の意志と思っていても何かの影響かもしれません。こうしてみると、この自分という存在が一番厄介なのです。自分のこだわりやプライドが自分を不自由にしているのかもしれません。ユダヤ人がアブラハムの子孫であることに過剰にこだわるように、自縄自縛になるのは珍しいことではありません。私たちも何にも縛られずに解放されているとは言えないのです。それに対して、イエスは「父のもとで見たことを話している」(38節)と言うように、神の真理をそのまま語って、何にも縛られずに、自らそのように生きたのでしょう。
数年前にNHKで、ドキュメンタリー「末期がんの看取り医師、死までの450日」が放映されました。僧侶で内科医の田中雅博氏は、境内に診療所と介護施設を作り、末期がん患者に寄り添いました。番組は、2015年本人の末期がん判明から、2017年の死までの記録です。田中氏はがんが判明してこう語りました。「人は元気な内は欲望や怒りや差別から自由になれない、しかし自分の死が避けられないと知った時、そこから離れて自分の命を超えた価値を獲得するチャンスが訪れる、命より大切なのは自分の信仰、それに気づけば、残りの時間をそのために生きることができる」。
これを観た時、自由になり解放された人の姿を見る思いがしました。人が自由になるのは簡単でなくても、少しずつ捨てて軽くなることはできるのです。
(牧師 藤塚聖)
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2022年6月12日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書9章1~12節
説教 「神の業が現れるために」
牧師 藤塚 聖
古今東西、障害や病気に苦しむ人に対して、それを何かの祟や神の罰とみなす差別意識や偏見があります。その人が悪いことをしたから良くないことが起きたと考えるのです。私たちの社会でも、昔はそういうことがよく言われました。イエスの弟子たちもそのように考えていて、生まれつきの盲人を見て、この人が盲目なのは本人の罪のせいか両親の罪のせいか、イエスにたずねました。それに対して、イエスは本人のせいでも両親のせいでもない、「神の業がこの人にあらわれるためである」(3節)と言って、因果応報をはっきりと否定しました。
神の業が現れるとは、この直後にイエスが盲人の目を治したことだという解説があります。確かに話の流れとしてはそうかもしれません。しかしもしそうなら、この人の目が治らなければ、神の業は現れないままなのかと考えてしまいます。というのは、私たちの現実にはこういうことは殆どないからです。先天的な身体障害が回復することは極めて難しいので、私たちに身近なこととしては考えにくいのです。説教で、イエスはこのように奇跡的な癒しを行い、それが神の業でしたと言われても、何か私たちとは縁遠い話に思えてしまいます。
さて、この話の中で忘れてはならないことは、生まれながらの盲人がこれまでどういう生活をしてきたかということです。物乞いで飢えをしのぎ(8節)、目が見えない大変さ以上に、神の罰を受けた者として差別され、人間扱いされないことが大きな苦しみだったことでしょう。その人に向かって、イエスは手間暇かけて癒しを行い、大切にしてくれました。しかもそれが安息日のことなので(14節)、最悪の場合は律法違反として処刑されてしまうのです。それにもかかわらず、親身になってくれたことは、この人にとって、その後の人生を変えてしまうくらい衝撃的なことだったのではないでしょうか。
奇跡的に目が治るのは大きなことですが、それ以上にこの話を伝承した人たちの思いは、差別されて大きな苦悩を負っていた盲人に対して、イエスが、罪を犯したからではないしあなたは何も悪くない、生きる価値があると明言したことにあるのではないでしょうか。たとえ目が見えないままでも、この人は生きる力をもらって、これまでとは違う人生を歩き出したことでしょう。それが「神の業がこの人に現れる」ということかもしれません。私たちも、これから先不治の病になるかもしれないし、体に大きな障害を負うかもしれません。高齢になればなおさらです。それでも生ることは価値があるし生きていても良いと思えるなら、それは神の業と言えるでしょう。
スウェーデンのゴスペル歌手、レーナ・マリアさんは両腕と左足にハンディがあります。彼女は歌手活動のほかに障碍者スポーツ選手として、ソウルパラリンピックの水泳3種目で入賞しました。彼女は今の自分の体のままでいい、これは神がくれた私の個性だからと言いました。
私たちの社会は誰もが生きやすい社会であるべきでしょう。障害はその人の問題ではなく、社会が障害を作り出しているという指摘にハッとさせられました。偏見や差別がなくなり、生活に支障をきたすものが少しでも取り除かれるなら何よりです。ハンディに対して、補助や介助がシステムとして当たり前にあるなら、それは万人に優しい社会です。私たちはそういうものを目指したいし、そのような営みの中に、神の業が現れるのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2022年6月19日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書9章23~41節
説教 「見えると言い張る罪」
牧師 藤塚 聖
イエスが盲人の目を治したことにより、それを巡って人々の間には様々な亀裂が生じました。意外なことに、イエスと対立していたパリサイ派の中でも、イエスを認めるか否かで言い争いが起こりました(16節)。信仰的な建前を重視する者は、安息日の規定違反なのだから、絶対に良いことが生じるはずないと決めつけます。一方で現実を直視する者は、盲人の癒しを認めざるを得ませんでした。他には、盲人とその両親とが断絶しました。両親は息子のせいで自分たちに非難が及ぶことを恐れて、彼を切り捨てたのです(22節)。一方で、この息子はイエスを支持して、社会から排斥されることになりました(34節)。また、罪というのがどういうことか、その見方が完全にひっくり返ってしまいました。イエスは、病人や障碍者を罪人ではないと明言しました。そして、安息日規定は絶対なものではなく、良い行いの方が優先することを、その行動で示しました。当然のことながら良い行いが罪であるはずがないし、それが認めないことが罪になると喝破したのでした(41節)。
このように、イエスの言動に対して、それに共感するか反発するかで、人の生き方は違ったものになるのでしょう。イエスは神の愛を実践したのですが、それを誰もが賞賛したわけではありません。イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである」(39節)と言っています。つまり、「裁き」とあるように、イエスの言動にどう反応するかで、人は幸いな生き方と残念な生き方を自らに引き寄せることになるのです。
さてパリサイ派は、イエスに「見えない者は見えるようになり、見える者は見えない者になる」(39節)、つまりあなたたちは何も見えていないと言われて激怒しました。しかしそう批判されて仕方ないくらい、彼らの信仰は硬直していると思います。まずは、「お前は全く罪の中に生まれたのに」(34節)という偏見は極めて悪質だし、安息日規定に縛られて現実を認めようとしないのは、本末転倒としか言えません。また、モーセの弟子というプライから分かるように(28節)、律法の中に現実の全てを縛り付け、神の働きさえ文字に過ぎない律法の中に閉じ込めるのですから愚かとしか言いようがありません。私たちは彼らを反面教師として、自分の信仰を検証すべきでしょう。未信者は救われないと思っていないか。教理を優先して、現実をそれに合わせていないか。また聖書は絶対で、真理はそこにしか示されていないと思っていないか。もしそうであるなら、私たちとパリサイ派はそっくりということになります。
私たちは自分が大切にしているキリスト教信仰について、その限界を認めていかねばなりません。神の真理を求めて真面目に生きるのは尊いことです。しかし人がどんなに努力しても捉えられる真理は一部でしかありません。信仰の正当性を互いに争うなら、最後は神の名の下に殺し合いになることは、歴史が教えてくれます。信仰について自信満々であるより、他からの批判にも耳傾け、自分を疑うことが出来る人は幸いです。
(牧師 藤塚聖)
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2022年6月26日(日)10:30~
聖書 ヨハネによる福音書9章35~41節
説教 「さかさまの社会」
牧師 藤塚 聖
イエスは盲人の目を見えるようにしたのですが、それが大きな騒ぎに発展しました。見て分かる通り、9章全体がひとつのまとまった話になっていて、その始めと終わりに「罪」という言葉が記されています。しかしそれが意味するものは、最初と最後では大きく違っています。最初に「生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(2節)という問いがあり、最後は「見えるとあなたたちは言っている、だからあなたたちの罪は残る」(41節)で結ばれています。このように、「罪」に対する考え方をイエスが完全にひっくり返したことが、この話のテーマであると言えます。
さて罪とは、旧約聖書によると単純に「律法」に背くことです。それに従えば神の祝福があるけれども、背けば罰が下されるという考え方が、旧約の中心にあります。だからパウロはそれに苦しみました(ローマ7章)。
しかしイエスにとって律法とは神の恵みなので、律法違反どころか、そもそも罪なるものを考えてもいなかったと思われます。だから、生まれつき目が見えないことは罪とは関係ないし、それは「神の業があらわれるためだ」とはっきり言うことが出来たのでした(3節)。そして、本来神の恵みである律法が、人を抑圧して、罪人製造システムのようになっていること、つまり本末転倒していることを厳しく批判しました。そしてそういうのが全く見えていないことが、罪という言葉を使うならば、それこそが罪だと明言したのです。
私たちの目からも、パリサイ派は本末転倒しているように見えます。そもそも安息日規定を形式的に守ることが、生まれつき盲人の目を開けることより優先するはずがありません。また安息日規定を優先するあまり、イエスの癒しがなかったことになるなど考えられません。このように、人がより良く生きられるように律法があるのに、人が律法に従属するのはおかしなことなのです。
ある教会の会報に「さかさま社会」という文章が載っていました。そこには、人が心を病むのは、病んでいる社会に原因があるとありました。確かに私たちの社会は多くの問題を抱えていて、ある意味で歪んでいると言えます。もしそれに合わせるなら、苦しくても無理に無理を重ねることになり、最終的に心を病んでしまうのは当たり前かもしれません。逆に病んだ社会にすんなり適応できて、何も感じず平気な人の方が問題なのでしょう。もしかすると、健全な感情や人としての良心を削られているのかもしれません。
私たちは何を道しるべとすべきでしょう。ヨハネ福音書は繰り返しイエスその人を見なさいと勧めています。福音書の冒頭で、イエスは「ロゴス」と言われます。それは真理や道理というものであり、人や社会はどうであるべきか、イエスの教えと生き方に照らして考えよということです。そうするならば、自分や社会がそれからどれだけずれて逆転しているか、はっきりと分かることでしょう。
今月は参議院選挙があります。私たちはどういう社会を目指すべきでしょうか。自己責任の社会か助け合う社会か、勝者を目指すのか助ける者になるのか、信仰者の目線はどこにあるでしょうか。イエスが示しているロゴスを道しるべとして歩んでいきたいものです。
(牧師 藤塚聖)