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​過去の礼拝説教集2023年1-6月

2023年1月1日(日)10:30~

   聖書 ヨハネの黙示録21章1~8節

 説教 「新しい世界の実現

​ ​牧師 藤塚 聖 

 「ヨハネの黙示録」は、世界の終わりについての予言と言われるので、年末礼拝で扱うのがいいのかも知れません。しかし21章には、最初のものは過ぎ去って、「万物を新しくする」(5節)とあり、「刷新」が言われているので、新年にふさわしい内容かと思います。

 それによると、新しい天と新しい地が実現し、人が神と共に住み、その目から涙がぬぐわれ、死も悲しみも労苦もなくなる、そういう時がきっと訪れると言うのです。これはいわゆる「世界の終末」なのか「理想の世界」なのか意見は分かれますが、ここを読むと、本当にそうなってほしいと思うのです。

 その一方で、直前の20章を読むと心がなえてしまいます。細かい説明が多く本筋がはっきりしないのに、読むとすごく嫌な持ちになるからです。趣旨としては、第一の復活と第二の復活という段階があり、最終的には全ての人が復活した上で、最後の裁きがあるということです(3節)。システィーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画では、キリストを中心にして、その上には救済された人、下には地獄に落ちる人が描かれているのですが、このイメージが私たちに刷り込まれていると思います。そしてそれに近いことが、マタイのイエスの教えの中にも、小麦と毒麦の選別(マタイ13:36以下)、羊と山羊の選別(マタイ25:31以下)として出てくるので困ってしまうのです。

 これらはイエスの福音とは別物であり、聖書にはこういう思想もあると割り切るしかありません。イエスは神の無条件の愛と赦しを教えました。パウロの「信仰義認」も、神なき者を義とすることなので、結局は聖書の中にある多様な考えの中のどこに自分の軸足を置くかということなのでしょう。宗教改革者のルターは、パウロの「信仰義認」に軸足を置き、聖書の各文書に評価を下しました。ヤコブ書は「藁の書簡」、黙示録は「使徒的でも預言者的でもない」というように、自分の心に正直に判断しました。これはある意味で非常に良心的な態度だと思います。

 「最後の審判」という思想は、黙示録が書かれた時代的背景を考えると仕方がない面もあります。ローマ帝国の迫害により、教会は抑圧され、殉教の死を遂げる者も続出しました。教会内は混乱して棄教する者も増えたようです。そこで「忍耐」と人の「運命の逆転」が強調されました。神が自分たちを苦しめる者に復讐してくれるという考えです。これはこれで非常に問題なのですが、今に見ておれという怒りがエネルギーになったことは確かです。

 それに比べて、新天新地の到来の部分は感動的で、心から共感できます。渇いている者は無条件で命の水を飲めるのです(21:6)。そうであるなら、たとえ最後の裁きがあったとしても、神は無限の愛により受け入れてくれのではないでしょうか。そのとき、憎み合い反目していた者たちも心を通わせ、互いに手を取り合って和解することでしょう。

 これらは単なる幻想に過ぎないのでしょうか。しかしそのようなイメージを持てることは、すでに私たちの中にその可能性があるというではないでしょうか。厳しい現実の中で消えてしまいそうでも、確かな神の約束に向かって着実に歩んでいきたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年1月8日(日)10:30~

   聖書 ヨハネの黙示録21章1~8節

 説教 「新しい天と新しい地

​ ​牧師 藤塚 聖 

 ヨハネの黙示録」には、「渇いている者には、命の泉から値なしに飲ませよう」という慈愛に満ちた考え方と、救われない者は火の池に投げ込まれて永遠に苦しむという残酷な考え方が混在しています。それによって読者は混乱するのですが、最新の研究によると、この二つはまったく別の著者によるものであり、残酷な部分は大分後からの加筆ということだそうです。私はそれが分かって本当にすっきりしました。今までは黙示録を理解しようとして、異質な両者のつじつまを合わせるために、そうとう無理してきたからです。この二つの考え方は、質的にも向いている方向も全く違うということです。

 本来の著者ヨハネは、ローマ帝国支配に対する厳しい批判を書いています。ローマが支配下にある人々を政治的・経済的に抑圧して苦しめていることが隠喩的に表現されていて(6章,13章他)、こんなことがいつまでも続くはずがない、必ず終わりが来るというのがその結論です。だから「終末」とか「最後の審判」を言いたいのではありません。言いたいのは、新しい世界では人は神の民となり、嘆きも苦しみもなく、神はその涙をぬぐってくれる(21:4)、そして渇いている者は値なく命の水を飲めるということです(21:6)。しかしそうなる前には、「神殿」中心のエルサレムという空しい宗教システムは不要とされ(11章)、世界中の略奪により成り立っているローマの繁栄や贅沢と、それを可能にしている地中海貿易は必ず破綻すると、はっきりと批判するのです(18章他)。

 一方で残酷な加筆者は、神により救われるのは、ユダヤ人ないしユダヤ主義者のみで、それ以外は終末の裁きで一人残らず殺し尽くされることを強調しています。彼らは殺されるだけでは済まずに、火と硫黄の池に投げ込まれて永遠に苦しむと、何度も繰り返されるのです(8-9章、14-16章、19-22章)。

 ここで注意すべきことは、この時代はユダヤ教とキリスト教が未分化だったということです。そのために教会の中でもユダヤ主義者が一定の影響力を持っていました。パウロが激しく対立した人達も、キリスト者でありながら保守的なユダヤ主義者でした。彼らは異邦人に対して、教会員になるにはまずユダヤ人にならなければ駄目だと、しつこく言っていたのです(ガラテヤ2:14他)。

最後に、著者のヨハネよりもこの残酷な加筆者の思想の方が、後のキリスト教に多大な影響を及ぼしたことを覚えておきたいと思います。最後の審判で、人がその行いにより救いと滅びに選別されるイメージは、私たちの中にも強く刷り込まれていないでしょうか。いまだに「二重予定説」が信奉されたり、「万人救済」がキリスト教のスタンダードにならないのもその証左だと思います。またそれだけでなく、救われるのは私たち信者だけという独善性にも関係しています。加筆者による残酷な殺戮場面が、異教徒への偏見や差別をどれほど助長したかはかり知れません。

 またそうなってくると、教会が言うところの「終末論」がはたして信仰にとって必要なのか改めて考えさせられます。信仰の中心がいったいどこにあるのか、しっかりとつかんでいきたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年1月15日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書20章19~23節

 説教 「傷を負ったキリスト

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 イエスの活動の大半は、病人や障害者への支援だったと思います。そのために福音書には沢山の治癒が報告されています。昔は病人や障碍者は神の呪いのせいとされたので、偏見と差別により地域から排斥されました。今のコロナへの反応を見ていても、古代においては人間扱いされなかったと容易に想像できます。そう考えると、イエスの活動というのは人権の回復だったのだと思います。

 またイエスの癒しは身体的な病だけでなく、精神的な病にまで及びました。今で言う「統合失調症」だったり(マルコ5章他)、悪霊を追い出したりします(同1章他)。当然うつ病だった人もいたことでしょう。今なら薬でコントロールしながら、環境を変えたり原因の解消をはかったりします。一過性のケースもありますが、ずっと薬を飲み続ける人も多いのです。イエスの癒しはどうだったのでしょうか。

 弟子たちのことを考えると、イエスの死の直後、その精神状態は破綻寸前だったことでしょう。彼らが裏切り見捨てたことで、恩師は処刑で惨殺されたのです。精神を病まない方が不思議です。ユダはその負い目に耐えきれずに自死してしまいました。弟子たちは今で言うならPTSD(心的外傷後ストレス障害)を負い、生き残った罪悪感(サバイバーギルト)を抱えたことでしょう。罪責感と惨殺の衝撃によって、心に大きな傷を負いました。

 イエスはその弟子たちの中に立ち、手とわき腹を見せました(20節)。そこには十字架に吊るされた釘跡と、槍で刺された傷跡が残っていました。なぜわざわざそれを見せたのでしょう。そしてそれを見た弟子たちが喜んだとはどういうことでしょう。普通ならあり得ないことです。なぜならその傷は弟子たちを追い詰めて苦しめることになるからです。

 この話は、弟子たちの治癒物語として読むことができるかもしれません。イエスは「平和」を繰り返し語りました(19,21節)。ヘブル語「シャローム」は最高に満たされた状態を言います。だからイエスは弟子たちに、安心しなさい、もう大丈夫だ、もう苦しまなくていいと言ったのではないでしょうか。弟子たちの立場からすると、逃げたくて逃げたのでもないし、命の危機が迫る中でパニックに陥ってしまったのです。そして本当に責められるべきは、イエスに反発して捕えて殺した人たちです。悪いのは弟子たちではありません。

 さらに踏み込んで解釈するなら、イエスの身体的な傷は、弟子たちの心の傷を投影しているのかもしれません。弟子たちの傷はイエス自身の傷でもありました。イエスはそれを示して、もう苦しまなくていいと語りかけました。だから弟子たちはそれを見て心が癒され、平安を覚えたのではないでしょうか。

 28年前の阪神淡路大震災に合わせて、先日の新聞に44才の女性の体験談が載りました。高校1年で母を亡くし、祖母に引き取られ悲しみと不安でいっぱいでした。後にPTSDと診断され、自分が幸せになってはいけないとずっと思っていたと言います。あしなが育英会の施設の某職員がずっと寄り添ってくれて、悲しいことも含め、あの時からの歩みを知ってくれている人が自分にはいるというのが支えだとありました。 

 弟子たちには、傷を負ったイエスの存在がそれだったのでしょう。イエスは体に大きな障碍をおって、私たちと同じ心の傷を痛み、私たちに寄り添ってくださいます。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年1月22日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書20章24~29節

 説教 「しるしを求めない信仰

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 ヨハネ福音書のテーマは「見ないで信じる信仰」です(29節)。証拠を見るまで信じない者の典型としてトマスが描かれています。彼は他の弟子の話を信用できずに、自分の目で見るまでは絶対に信じないと言っていました(25節)。そのトマスにとって、復活のイエスとの出会いは何をもたらしたのでしょうか。彼が理解したのは、裏切った自分に対するイエスの赦し、もっと広げるなら神の愛や自己受容だったと思います(28節)。少なくとも、神の裁きや呪いではなかったということです。

 このように、復活のイエスとの出会いは体験者によりさまざまに表現されています。福音書記者マルコにとっては、ガリラヤでのイエスの活動を追体験することへ言い換えられ、使徒パウロには律法による強い生き方から弱い生き方への転換になりました。先週16日に、M.L.キング牧師の記念碑がボストン市内で披露されたことがニュースになりました。毎年1月の第三月曜日が彼の記念日に定められているようです。彼にとっては、黒人と白人が兄弟のようになって共に生きることが、キリストの復活だというのです。このように、復活をどう理解するかは、人により多様だと言っていいのでしょう。

 ある教会の長老の話ですが、洗礼志願の時にキリストの復活だけが信じられないと正直に告白して一度は辞退したそうです。その後、信じられない自分も神の愛の中にあると思いなおし、教会もそのままで洗礼を授けたとのことでした。この方にとって、復活とは信じられない自分への神の赦しを意味することになりました。他の例としては、自分の罪意識に苦しむ人は、キリストの復活を罪の赦しの宣言と受け取るかもしれません。また死への恐怖に苦しむ人は、死からの解放と永遠の命への約束と受け取るかもしれません。私自身は、弟子たちと同じように神の赦しと愛として理解しており、あのように生きて死んだイエスに対する神の肯定と受け取っています。

 こうなると、イエスの復活とは見て信じる次元を超えていて、自分にとっての意味が大事になるのです。逆に、見ることで信じる信仰はあまり意味をなさないと言ってもいいのでしょう。例えば、聖書に書いてあることをそのまま信じなければならないとか、祈りは必ず聞かれるというのは、見て信じる信仰、つまりしるしを求める信仰に他なりません。

 私たちはほとんど意識していませんが、多分見ないで信じる信仰なのだと思います。それは伝統的な教理についてあまり共感していないからです。それでも何となく導かれて、今日まで来たという緩やかなものではないでしょうか。それは愛の神がいつも共にいて見守ってくれているという素朴なものです。

 教会の信仰教育というのは、教理問答を含めてどちらかというとしるしや証拠で固めて、見て信じる信仰に傾いているように見えます。しかしそれは正しいのでしょうか。しるしを見ないのに、神の愛を信じているというのは、心もとないのではなく大事な点だと思います。それはしるしや証拠を重視していないからです。その信仰は自分が思っている以上に柔軟で強いものなので、もっと自信を持っていいのです

 (牧師 藤塚聖)

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2023年1月29日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書21章1~14節

 説教 「日常の中で

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 日キ神学校の論文集「教会の神学」第24号に、「ヨハネ教団における諸危機とその克服をめぐって」という論文が載っています。それによると、ヨハネの名を冠する諸文書(福音書、手紙、黙示録)はヨハネ教団内で成立して、教団創設者は「イエスの愛した弟子」(21:7他)ヨハネであったということです。この教団はペテロたちの教会とは別に、独自の歴史を刻み、地理的移動や内部分裂を繰り返して、最後はローマの大教会に合併吸収されたようです。

 そこで、21章はローマの教会との合併のために、書き加えられたということです。その意図の一つは、イエスと弟子たちの湖畔の食事(13節)が、両教会が完全に一つになるための合同の聖餐式を背景にしていること、二つ目は、失墜したペテロの権威の回復(15節)、三つ目は、創設者のヨハネが終末まで死なないという噂への誤解を解くことです(23節)。

 もしこの仮説が当たっているなら、21章の内容は、福音書記者ヨハネ本来の考え方を大きく転換していると言えます。ヨハネは教会制度や聖礼典には関心がなく、独自の信仰を伝えていました。またペテロを中心としたイエスの弟子集団に非常に厳しい批判を持っていました。だから合併のためには、そこを修正する必要があったのでしょうか。もっともヨハネ教団は組織や制度が希薄だったからこそ、瓦解して合併吸収に至ったのかもしれません。

 私見としては、21章は復活のイエスとの出会いの後に、弟子たちに何があったか示すために書かれたと思います。つまり復活体験は信仰生活のスタートでしかないということです。私は若い頃、それは覚醒みたいなもので、それで真理に到達すると思っていました。しかしそうではなくて、弟子たちでさえ何度も復活のイエスに会っていながら駄目なままだったのです。従って信仰をもったとしても、長い人生の中でどのようにモチベーションを保つのかが課題としてあったのだと思います。

 先ほどの論文の内容に沿うならば、信者は組織や制度としての教会に所属して、ヒエラルキー(位階制)や聖礼典をがっちりと守りながら、信仰を維持するということになるでしょうか。私はもっと単純に、日常生活の中でイエスの生き方を追体験することと考えています。21章では、弟子たちは郷里のガリラヤに帰り元の仕事を再開しています。イエスに付き従った数年間は全く非日常であり、自分の中にないことを日々経験し、激動の毎日だったことでしょう。彼らは、日常に戻ってその時の体験の意味を考えながら過ごしていたのではないでしょか。

 ガリラヤ湖での大漁の話は、彼らが弟子になる前に経験したこと(ルカ5:6以下)を思い起こしているのかもしれません。その時から時間が経ったことにより、以前の経験がいかに貴重だったかが分かるのです。イエスが差し出したパンと魚は、大勢の人たちとの食事(マルコ6章、8章)を思い返したことでしょう。何の分け隔てもなく、罪人も異邦人も一緒に分かち合ったのでした。そこに込められたイエスの思いを、弟子たちは理解し始めたかもしれません。あの時のように、自分たちもやってみようと思えたはずです。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年2月5日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書21章15~19節

 説教 「今の私にできること

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 先週は、ヨハネ教団がローマの教会に合併するために、21章を加筆したのではないかという話をしました。復活のイエスがペテロに新しい使命を与えた話は(15節以下)、ペテロの権威を承認することになるからです。ローマの教会は、カトリック教会を見て分かるようにペテロを初代教皇とするくらい重んじていました。ヨハネ教団としてはこれまでペテロをはじめとする弟子たちをさんざん厳しく批判してきたので、その立場を変える必要があったのです。

 この復活のイエスとの対話は、ペテロが自分で積極的に広めた話だったと思われます。挫折して郷里で漁師をする中で、彼の内面的な自問自答の内容が描かれています。イエスから、もうお前には期待しないと言われたら絶望しかありませんが、私の羊を養えともう一度役目を与えられたから立ち直ることができました。

 幾つか注目点があります。一つは彼が以前の平凡な日常に戻ったことです。かつての高揚と熱狂ではなく、地に足のついた普通の生活に戻りました。しかし先回りするように、そこにもイエスは居てくれました。次に、イエスが私を愛するかと、しつこく三度も尋ねたことです。もう逃げないかということです。これは当然ペテロが三度イエスを否認したことにつながるのでしょう。ペテロは、イエスのためなら命を捨てると言っておきながら(13:37)、現実から逃げました。そのことをずっと悔いていたのだと思います。

 それと、言葉の使い分けが気になります。イエスは一度目と二度目はアガペの愛で愛するかと聞いて、三度目はフィリアの愛で尋ねました。フィリアは人間臭い友愛や友情であるのに対して、アガペは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)とあるように、無条件で無償の愛です。そう出来るかと聞かれて、さすがにペテロは口ごもったことでしょう。情けなくなり、あなたがご存知ですと返すのが精一杯でした(15節他)。そこでさすがに三度目はイエスの方からハードルを下げて、フィリアの愛でいいから、つまりあなたの持っている力でいいから、イエスの仕事を引き継いでいきなさいと言ってくれました。ペテロは凄く安心して心が軽くなったことでしょう。

 その後に、ペテロの殉教を示唆する話が続いています(18節以下)。伝説によると、ネロ帝の時にローマで処刑されたことになっています。最後は逃げなかったのです。これらのことがペテロの名誉回復になり、ローマ教会の権威につながったのでした。

 以上のことから、イエスの弟子としての在り方を考えるのですが、当然ながらイエスのようにはできなくても、自分の持てる力でその働きをすればいいのだと思います。皆が聖人のようになるわけではないし、家や仕事を捨て出家するイメージは違うかもしれません。特別の人が特別の働きをするわけではなく、皆が自分の背丈に合わせてイエスに倣っていくことなのでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年2月12日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書4章1~13節

 説教 「神話の克服

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 イエスが宣教活動を始めるとき、その信念が試されたことについて考えてみましょう。三つの試みとは、石をパンに変えること(3節)、権力を握ること(6節)、高所から飛び降りること(9節)です。これらは夫々何を意味するのでしょうか。色々な読み方があり、一例としては、これは人の「欲望」だという見方があります。だからイエスは否定したのだと。つまり「物欲」と「権力欲」と「生存欲」です。人の欲望は際限ないので、その危険性が言われているかもしれません。そうでないとしても、イエスが断固として否定するのだから、何となく倫理道徳に反することなのだろうと考えがちです。

 この話で重要な点は、イエスが聖書の言葉(申命記)で反論するだけでなく、悪魔も聖書の言葉(詩編)を利用していることです。それだけでなく、あなたが「神の子なら」(3節、9節)と言ってそそのかそうとしているのです。あなたは神と強いつながりがあるのだから当然できるというわけです。従って、これはもっと広げて考えるなら、「信者なのだから」という、私たち信仰者に対する試みと言えます。つまり私たちの信仰の形が問われているのです。

 イタリアのパゾリーニ監督の「奇跡の丘」という映画は、マタイ福音書を基にしながら、宗教色を排して普通の人間を描いています。キャストはみな素人が演じ、母マリアは監督の実母が演じています。その中で、悪魔はどこにでもいそうな村人として登場して、ごく普通のことを提案するのです。つまり貧困や飢餓がないこと、出世できること、身の安全が守られることです。しかしこれらは決して悪いことではなく、むしろ私たちが日々神に祈り求めていることです。つまり普通に神の祝福と思えるものが、イエスにとっては悪魔の誘惑だったことになります。

 貧困と飢餓の解消は世界的課題であるし、大きな権力は平和実現に利用できます。また災害から身の安全が保障されるならとても幸いなことです。何故そんな有難いことを、イエスは拒否したのでしょうか。細かい説明を抜きにすると、それらが悪いからではなくて、神を信仰するというのはそういうことではないということなのでしょう。神を信頼するとは神に期待することではありません。私たちはそこを混同してしまうのです。

 極論するならば、貧困と飢餓の中でも、災害で被災しても、障碍や重い病を負っても、それでも日々神に感謝して、神に信頼を置くというのが信仰の本質的な意味です。なぜならイエスは困窮する者の友となり、権力から遠く離れた低い道を歩み、最後には自らの命を失いました。私たちはそのイエスを主と告白しているわけです。

 あなたは「神の子」なのだから、信仰者なのだからとそそのかされて、祈れば聞いてもらえる、信仰があれば成功できる、信者は必ず守られるというのであるならば、それは「神がかり」になることです。従ってこの話は、神を信仰するということは神がかりを否定することだと語っているのかもしれません。その証拠に、イエスは悪魔の誘惑の後に、神がかりとは真逆の道を進んで行きました。私たちはしばしば道を見失うので、このイエスの姿をいつも頭の片隅に置いておきたいと思います。 

 (牧師 藤塚聖)

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2023年2月19日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書4章16~30節

 説教 「イエスが語る平和

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 前回は、イエスが活動を始めるにあたり、その信念が試されたことを話しました。今回は、その活動がどんな様子で始まったかを見ていきたいと思います。イエスは故郷のナザレ村があるガリラヤで活動を始めましたが、そこはどういう場所で、そこでの説教がどのような波紋を呼んだのでしょうか。

 ガリラヤ地方は地図で分かるように、中心のエルサレムからは切り離された場所でした。そのために監視の目が届きにくく、支配者であるローマ帝国への抵抗運動が盛んだったようです。少し違うかもしれませんが、現代においてはトルコやシリアにおけるクルド人の支配地域や、イスラエルにおけるパレスティナ自治区のような感じでしょうか。クルド人やパレスティナ人に対して、政府は空爆等により力づくで抑え込んでいます。抑圧される方は爆弾テロなどで抵抗し、そこに更なる報復が加えられ、支配者への憎しみと恨みは親から子へ、子から孫へと際限なく引きつがれていきます。このように憎悪は連鎖するのです。その点で言うと、ウクライナの人々のロシアに対する憎しみが消える日は来るのでしょうか。

 このように、ある種緊張した中で、イエスは会堂でイザヤ書を朗読しました(61:1-3)。そこには苦難からの解放と、抑圧者への神の復讐が書かれています。礼拝に参加した人たちは、今の自分たちの惨めな状況に重ねながら、イエスが神の復讐という箇所を朗読するのを期待しました。しかしながら、「神が報復される日を告知する、そして民は慰められる」(61:2)という部分をイエスは省略したまま、聖書を巻き戻して係の者に返したのでした。「すべての人の目がイエスに注がれていた」(20節)とは、感心したのではなく、いったいこの人はどういうつもりなのだろうと驚いているのです。そして次に何を言うだろうとかたずを飲んで注目しました。そして「この聖書の言葉は今日…実現した」(21節)と聞いて、こいつはいったい何を言っているのだと一気に失望に変わったことでしょう。ローマの支配は変わりなく、解放の気配もないからです。

 イエスの意図は、報復や復讐は決して平和をもたらさない、それを捨てることが神の意志だということです。皆の見ている前で巻物を巻き戻したように、ローマへの復讐は封印したのでした。「皆はイエスをほめ」(22節)とは、イエスを「証言した」ということであって、人々はイエスのことを、昔から知っているぞ、ヨセフの息子のくせにとか、他所ではなく地元で奇跡をやって見せろとか皮肉っているのです。

 それを受けて、イエスは彼らの歪んだナショナリズムを正す意味で、旧約聖書の故事を語りました(25節以下)。つまりユダヤ人の英雄であるエリヤとエリシャは異邦人に融和的だったということです。しかしそれが人々の怒りに油を注ぎ、イエスは神を冒涜する者として殺されかけたのでした。人が信じる宗教的な信念を相対化するのは非常に難しいことです。それでも必要な時があります。イエスはお花畑で説教したのではありません。暴力の連鎖を断ち切るために、時には命がけで発言しました。いつか命を落とすと覚悟していたかもしれません。

 私たちも正義や正しさを貫ければ良いのですが、出来ないことも多々あります。無理する必要はないのですが、後悔もしたくありません。そのはざまで悩むことで、視野が広がるのかもしれません。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年2月26日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書4章16~21節

 説教 「解放と回復と自由

​ ​牧師 藤塚 聖 

 イエスは会堂でイザヤ書を朗読してから、この預言は「今日あなたがたが耳にしたとき実現した」と言いました(21節)。この言葉について考えてみたいと思います。これはイザヤ書の一部であり、外国支配からのイスラエルの解放と、祖国の復興、神の復讐が記されています(61:1-2)。聞いていた人たちは、ローマ支配からの解放とユダヤ人国家の実現を思い描いたことでしょう。だから彼らはそれが実現しているとは全く思えなかったのです。イエスは彼らの思い違いを批判したために、最後は殺されかけたのでした。

 イエスはユダヤ人に限らず、誰にでも当てはまることとして、様々な意味で抑圧された人たちの解放と回復を語ったのだと思います。著者のルカは、この後に続く悪霊払いや病人の癒し(31節以下)でそれが実現したことにしていますが、もしそうなら現代の私たちとは無縁の昔話になってしまうでしょう。イエスとしては、全ての人にとっての現実だということです。それは、「神の国はあなたがたの中にある」(ルカ17:21)というのと同じことかもしれません。つまりここで言う「解放」「回復」「自由」(18節)とは、人として真に自由になり、解放されて、人間性を回復することなのでしょう。

 イエスの話を聞いている人たちの中には、社会的、経済的、宗教的な抑圧の中にある人がいたかもしれません。現実の問題解決とは別に、イエスに出会いその福音を知って生きるなら、現実はどうあれ、人として自由になり解放されるということです。先週、「がん哲学メディカルカフェ」の開設準備会を行いました。紹介された樋野興夫先生の本の中に、がんとの共生が書かれています。がんであっても、たとえそれが不治であっても、人は生きがいと使命をもって生きることができるとありました。これも人として回復し解放され自由にされたということでしょう。

 さて、それならば私たちはどうなのかと考えさせられました。色々な囚われから本当に解放されているかと言えば、非常に中途半端な気がします。 

 そうであるなら、イエスの宣言は私たちには実現していないことになります。激高したユダヤ人たちが、彼らの信仰ゆえにイエスをヨセフの息子としか見られないように(22節)、私たちも狭い信仰しか持ち合わせていないことになります。それがイエスとの本当の出会いを妨げているのかもしれません。

 このように、信仰者であっても、何かに囚われ、不自由で、全く解放されていない人がいることは不思議なことではありません。それはイエスの語っている福音が、私たちの狭さを大きく超えているからだと思います。ルカが記して通り、イエスがナザレを出て行き(30節)、ユダヤ人から異邦人へと、広い世界へ進んで行ったように、私たちもイエスに置いて行かれないように、その後に続いていきたいと思います。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年3月5日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書4章31~37節

 説教 「悪霊の信仰告白

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 聖書をよく知っている青年として、イエスは若い頃からたびたび会堂で説教していました。その解説が斬新だったので、世間によく知られていたようです。但し、徐々に自分の言葉で自分の主張を交えて語るようになったので、会堂側は良く思わなかったことでしょう。ナザレの会堂では、とうとう聴衆の逆鱗に触れてしまいました(4:30)。

 カファルナウムの会堂での出来事については、二つのことについて指摘したいと思います。まず人びとはイエスの言葉に「権威」があるので驚いたこと、次に悪霊がイエスのことを「神の聖者」と言ったことです。マルコ福音書では、「律法学者のようにではなく」(1:22)とあります。律法学者の解説は、偉い先生がこう言っていたとか、伝統的にはこうだとか、それらを後ろ盾にして自分を正当化していました。聴いている人たちは、そういう保険や回りくどさにうんざりしていたのです。それとは対照的に、イエスは一切の権威をもちだすことなく、自分の責任において、事実を事実として、間違いを間違いとして語りました。聴衆はそこに本当の力を感じたのでしょう。 

 続く話では、悪霊が追い出されるとき、イエスの正体を「神の聖者」と公言しました(34節)。古代では相手の名を呼ぶことがその力を削ぐことになるようです。しかし考え方によっては、これはイエスの正体を言い表しているので、一種の「信仰告白」と言えなくもありません。私たちの教会も信仰告白というものを重視しており、そこに価値が置かれています。しかしこの話は、イエスのことを「神の聖者」と言ったとしても、あるいは「神の子」(4:41)と言ったとしても、そんなことは悪霊でもやることだと皮肉っているのです。そんなことよりも、イエスの志を継いで生きることが大事だということなのでしょう。悪霊だけでなく、結果としては弟子たちもイエスに聖なる呼び名を押し付けて祭り上げてしまいました。本当はイエスと共に闘い、その生き方に倣うべきなのに、神棚に祭り上げて拝んでしまったのです。 

 「悪霊の信仰告白」という説教題には、ややもすると神や信仰が語られるところでこそ悪霊が働くのではないかという批判をこめました。イエスを殺そうとした人たちだって信仰熱心だったからそうしたのであり、荒野の誘惑では悪魔は聖書の言葉を使ってイエスをそそのかそうとしました(4:10)。現代においても、神の名により戦争が正当化され多くの血が流されています。統一協会も神を語るのです。

 宗教や信仰に伴う危うさをどう克服すべきでしょうか。私は、イエスがそうであったように、権威に寄りかかることなく、自分の頭で考え自分の責任において発言することが大事だと思います。無批判であることは決して良いことではありません。借り物に頼るのではなく、自分で理解して本当にそうだと思えるものを信じ、自分の責任において確信を語ること、そこに権威があるのでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年3月12日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書5章1~11節

 説教 「イエスに従うとは

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 漁師のシモン・ペテロたちが「人間をとる漁師」になった話から、イエスに従うとはどういうことか考えてみます。この話の結びは、「すべてを捨ててイエスに従った」(11節)となっています。マルコ福音書ではもっと詳細に「すぐに網を捨てて従った」(1:18)、「父…を雇い人と一緒に舟に残して、イエスの後についていった」(1:20)とあるので、家も家族も仕事も捨てて、すぐにイエスに従ったことになります。

 教会ではこれを手本として、イエスに「従う」ことや神に「服従」することが教えられてきました。使徒パウロも「自分の体を打ちたたいて服従させます…失格者になってしまわないためです」(1コリ9:27)とまで言っていて、あまりのストイックさに強迫観念さえ感じてしまいます。もしすべてを捨ててついて行くことが必要なら、それは「出家」であり、極めて限られた人にしか出来ないことです。私はいつもそこに重苦しいものを感じていました。新約聖書学者のブルトマンという人は、批判的解釈学のゆえに保守的な神学校では禁書扱いになるような人です。しかしその著書に、この話は召命の「理念的場面」だとあり、私にはすごくよく分かりました。つまり教会は弟子の召命を理想化したのでした。

 さて、話の中の大漁のエピソードは「聖者伝説」だとしても、なぜこんなことで突如として弟子になる決心をしたのか疑問に思います。動機づけの話としてはうまくつながりません。従って、本当のところはヨハネ福音書の話が事実に近いのでしょう(1:35-51)。それによると、最初は洗礼者ヨハネの元にいた者たちが、今度はイエスの活動に鞍替えしたというのです。彼らは漁師をしながら、世直しや宗教的な関心をもっていたのでしょう。だからもともと素地はあったことになります。もしかすると、すでに洗礼者ヨハネの活動の中で、イエスと面識があったのかもしれません。特にシモン・ペテロは義母がイエスのお世話になったこともあり(4:38)、恩義も感じていたのでしょう。

 最後に、この弟子の召命の話から分かることは、彼らが徹底的に「受け身」であったということです。自ら申し出たのではなく、イエスの方から呼びかけられて、気が付くとその手伝いをしていたということなのでしょう。特にシモン・ペテロは舟を岸から出すことを頼まれ(3節)、網を下ろせと指示され(4節)、最後は人間をとる漁師になれ(10節)と背中を押されました。ヨハネ福音書の話も、洗礼者ヨハネが主体であって、弟子たちは彼を通してイエスに紹介されたにすぎません。

 このように、神の恵みというのは、常に「外から」、人の意志を超えて一方的に私たちに及んでいるのでしょう。私たちの信仰生活を顧みても、誰かの助けを通して、あるいは誰かの求めに促される形で、ここまで来たように思います。だから「服従」というより、神に引っ張ってもらって、結果として従わせてもらった感じではないでしょうか。だからそこにはすべてを捨てるという意識はないのです。ただし、いくら受け身であったとしても、イエスの姿だけは見失わないでいたいと思います。イエスが何を大事にして、その目指す方向性はどうだったか分かっていたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年3月19日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書3章1~14節

 説教 「神の怒りを免れる

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 洗礼者ヨハネとイエスは親類だったことが、1章36節に記されています。従って、二人は幼い頃から互いを知っていたと思います。先にヨハネが革新運動を始めたことで、若干後輩のイエスはそれに共鳴して仲間に加わったのでした。

 ヨハネは、ユダヤ教の体制が人を幸せにしていないことに異を唱えました。人々は戒律により生活を縛られ、違反に対しては神殿祭儀や動物犠牲など、精神的にも経済的にも多くの負担を強いられました。罪を数え上げて差別する監視社会が人を苦しめていたのです。現代世界でも地域により、宗教の教えに基づき女子教育が禁止されたり、ヒジャブ着用が強制されたりするのですから、古代社会ではもっと深刻だったことでしょう。

 そのように、とても救いのない状況の中で、ヨハネは驚くほど簡単なことを勧めました。それは悔い改めと洗礼です。罪の浄化に苦しんできた人々には、これほど手軽で現実的なことはないので、各地から大勢がヨハネのもとにやって来たのでした(7節)。浄土宗の始祖法然が、ただ念仏を唱えるだけで救われると説いたのと似ています。さらに念仏どころか、阿弥陀仏の救いを信じさえすればいいと説いた親鸞は、パウロに似ているでしょうか。

 さて、悔い改めて「良い実をむすぶ」にはどうすればよいのか、11節以下に記されています。それによると、それほど難しいことではありません。人としてまっとうに生きていれば、普通に出来そうなことです。しかし解決方法がすごく簡単になったとはいえ、ヨハネは人の「罪」を前提にして、あくまでもその浄化が必要と考えていました。そのための悔い改めと洗礼です。そしてそれがないならば、神の怒りは免れないと考えたのです(7節)。そして終わりの日には、良い実を結ばない木は、切り倒されて火に投げ込まれる恐怖を説いたのでした(9節)。人々は救済方法の簡単さに喜びながらも、差し迫る神の怒りに危機感を覚えたことでしょう。それで罪を洗い流してもらうために、ヨハネのところに押しかけたのでした。 

 イエスもヨハネから洗礼を受けました。その時はイエスも罪の洗いを考えていたのだと思います。しかし考え方は変わり、ヨハネの元を離れて独自の活動を始めました。イエスは洗礼活動をしないので、浄化すべき罪ということは考えていないのでしょう。ヨハネの思想からの根本的な転換があったのだと思います。

 それを考える上で、イエスの洗礼のエピソード(21節以下)は参考になります。洗礼の後に天から「神の愛する子」という声が聞こえたとあります。これは、イエスの罪が浄化されて初めて神の子になったということではありません。イエスの系図(23節)を見る限り、著者のルカはそうは考えていないことが分かります。つまりイエスは最初から神の子なのであり、洗礼はその事実の確認でしかないのです。イエスには免れるべき「神の怒り」という発想すらなかったと思われます。従って、私たちの洗礼もイエスと同様に神の子としてのしるしということなのでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年3月26日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書3章15~20節

 説教 「救いの拡大

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 前回説明した通り、イエスは若い頃に洗礼者ヨハネの活動に加わっていました。そのヨハネはユダヤ教のエッセネ派の影響を受けたと思われます。この宗派は世俗を離れて荒野で修道生活をしていました。戒律を重んじる点ではパリサイ派と同じでも、その純粋性と真剣さにおいては見習うべき点があったのでしょう。しかしヨハネはそこから離れて、信仰を一般大衆にも実践できるものとして教えたのでした。

 彼は「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野の蜂蜜を食べ物としていた」(マタイ3:4)とあるので、信仰を大衆化しながらも、自分では非常に禁欲的な生活をしていたようです。その風貌からも、グループの中では預言者エリヤの再来と見なされました(マタイ11:14)。本人もそれを意識して、近い将来の「神の審判」の告知を自分の使命にしたのでしょう。従って、「わたしより優れた方」(16節)とは審判者である神を指すのであり、それをイエスに当てはめたのは、ルカを含めてキリスト教会側の改変といっていいと思います。もしもそれをヨハネが知ったなら、イエスの前座にされたことに驚いたことでしょう。ヨハネがイエスに洗礼を授けたのだから、その主従関係は明らかです。都合が悪いので、ルカは授洗者であるヨハネの名を伏せています(21節)。

 さて、そのヨハネの元からイエスが離れたのは、神が怒りの神であり、終わりに日に消えることのない火で焼き払う(17節)とは考えられなかったからだと思います。神の国に入るためには、ヨハネは悔い改めと洗礼を説きましたが、イエスは取税人や娼婦こそがそこに入るのであり(マタイ21:31)、神の国とはいと小さき者のものだと説いたのでした(18:16)。

 つまりイエスはヨハネの活動を高く評価しながらも、神の国では一番小さいと断じて、その狭さを厳しく批判しています(7:28)。イエスからすると人間の罪を前提にして、悔い改めて罪を洗い流すことを救いの条件にするヨハネは、神の国を力づくで奪おうとしているように見えたのでした(マタイ11:12)。 

 これらのことを踏まえて、最後に私たちの課題を考えてみましよう。神の国あるいは神の救いというものを、ユダヤ教主流派は一般大衆に閉ざしていました。イエスが、人に背負いきれない重荷を負わせ(11:46)、神の国を閉ざしていると(マタイ23:13)と表現したほどです。そこで、ヨハネはその狭い扉をこじ開け、悔い改めと洗礼だけでいいと説きました。条件を大幅に緩和したのです。しかし条件は残りました。

 イエスはその条件さえ不要と考えたのでしょう。イエスの福音は、人はありのままで神の国に入るというものです。そこには宗教的な倫理はなにもありません。それに従うならば、宗教や信仰は特殊なものではなく、もっと普通のものに変容していかねばならないと思います。それからすると、教会はまだヨハネの思想から抜け出せていないように見えます。イエスが語った如く、神の国が無条件に広げられたように、私たちは信仰というものをその広がりの中で見直していきたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年4月2日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書6章6~11節

 説教 「今ここでなすべきこと

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 イエスの癒しには、大体決まったパターンがあります。まずそれが「安息日」であること、癒しの業か宣言がなされて、それに対して非難があり、イエスの反論を経て、最後に驚きや賞賛、逆にイエスに対する憎悪と殺意に至るというものです。今回の「手の萎えた人の癒し」もほぼそうなっています。

 癒された人は右手にマヒがありました。律法学者とパリサイ派は、イエスを訴えるために、その様子をうかがっていました(7節)。彼らは津法に詳しいので、どうにでも訴えられたと思います。安息日規定の違反は、場合によっては死刑にもなるので非常に重いものです。それを重視する人たちは、自分のやっていることが結果的に非人道的、非人間的になったとしても、それが神への忠誠であると考えました。このように、イエスは神の名の下に倒錯した状態を問題として、それを徹底的に批判したのでした。正しい生き方や道徳を説いたのではありません。

 イエスは監視している者たちに、善を行うことと悪を行うこと、命を救うことと滅ぼすことのどちらが、安息日には許されているかと問いました(9節)。つまり現状では、病人を見殺しにして、瀕死の者を殺すことになっているということです。律法学者たちは、イエスが例外規定を持ち出したり、言い訳することを予想しましたが、安息日だろうがなんだろうが善を行い命を救うのが正しいという言葉に驚いたことでしょう。

 イエスと律法学者の違いは、何を最優先するかの違いです。人の命か律法かということであり、律法はあくまでも人の命を守る手段にすぎません。それが命に優先することはあり得ないのです。「安息日は人のためにある、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)からです。

 皆の見ている前で「手を伸ばしなさい」と命じられて、この人はイエスの毅然とした態度と迫力に圧倒されて、仮に一時的であったとしてもマヒは本当に治ってしまったのでしょう(10節)。この緊迫した状況の中で、あえてイエスがそうしたということに大きな意味があると思います。手の

マヒの癒しは緊急を要するものではないのに、それがなぜ安息日であったかということです。一時を争うものではないのなら、その日を避けた方が無難なはずなのです。

 おそらくイエスは旧約預言者の「象徴預言」を意識したのではないでしょうか。それは「行動預言」とも言われ、神の意志を言葉ではなく突出した行動で示すものです。見ていた人には強い印象を残しました。イザヤが3年間も裸と裸足の姿でエジプトとクシュの敗戦を示したり(イザヤ20章)、エレミヤが首にくびきをつけてバビロン捕囚の長期化を示したのが(エレミヤ27章)その典型です。

 以上から分かるように、宗教や信仰の存在意義は、正しく生きるための道徳ではありません。イエスがそうであったように、当然の如く正しいとされているものを疑う姿勢だと思います。今あるものが本当に人の命を大切にしているのか、人を本当に幸せにしているのか、批判的な目を持ち続けるのが信仰の意味です。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年4月9日(日)10:30~

   聖書 コリントの信徒への手紙二4章7~15節

 説教 「復活のキリストのイメージ

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 復活のキリストは、見た人によって全く異なる姿で認識されました。それはイメージが人によっては様々であったということです。本日の説教題はそのような意味を含んでいます。イエスの直弟子たちとパウロは全く違うし、聖書記者たちも異なります。それなら私たちはどういうイメージを持っているでしょうか。

 おそらくイメージした者としては弟子たちが最初です。それ以前の心理状態は悲惨なものだったと思います。エルサレムから郷里ガリラヤに逃げ帰り、恐怖と後悔のため自暴自棄になったことでしょう。もしそこに怒りと断罪の姿でキリストが現れたなら、もう絶望しかありません。ユダのように自死する者もいたかもしれません。しかしそうではなくて、彼らはエルサレムで再結集して教会をつくったのでした。それは彼らが深い赦しを体験したとしか考えられません。きっと彼らにはキリストが慈愛と赦しに満ちた姿で見えたのでしょう。

 そして弟子たちは旧約の「苦難の僕」を参考にしながら、イエスの死を「贖罪」と考えることで立ち直ることができたのでした。そうでなければやっていけないのです。しかし問題もありました。後にエルサレム教会は異邦人教会と対立して、力を誇示する信仰に移行していきます。キリストの慈愛と赦しは力と栄光に入れ替わり、人類救済の英雄としてのスーパーマン的なキリストが信仰されたのでした。

 それと対照的なのがパウロです。青野太潮著「パウロ」によると、彼に現れたのは栄光に光り輝く姿ではなく、十字架につけられたまま惨めで無残な姿をさらしているキリストだったということです(1コリ1:22)。パウロはそこに逆説的に神の祝福を見出して、弱さの中の強さを信じたのでした(2コリ12:10)。それ以前のパウロはパリサイ派として強さを追求していました。弱さを排斥するその生き方が破綻した時、弱く惨めな姿のキリストが彼の救いになったのでした。スーパーマンのキリストなら彼は救われなかったでしょう。だから、その後の苦労多き現実の中でも、マイナ

 スとされるものの中にプラスを見出すことができたのだと思います(4:8-10)。

 パウロとは違って、キリスト教文学者の椎名麟三さんが信仰に悩んでいた時に出会ったのが、弟子たちの前であえて魚を食べる復活のキリストでした(ルカ24:43)。その必死でユーモラスな姿に救われて、そこで神の愛が分かったと言っています。

 私にとってキリストのイメージは、権力や名声から遠く離れて、徹底的に低い道を歩まれた姿です。偉くなりたい弟子たちに「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43)と教えました。

 このようにキリストのイメージは、人によってそれぞれ違うのですが、それでいいのだと思います。そしてそれが当人にとっての復活のキリストとの出会いなのでしょう。ただ大切なことは、そのキリストのイメージが、生きる上で自分に何をもたらしているのか、自分にとってどんな意味を持っているのかを、あらためて考えてみることが重要なのかもしれません。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年4月16日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書6章12~16節

 説教 「選ばれる条件

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 神に祈るとはどういうことでしょうか。イエスは、重要な局面では必ず一人になって祈りました。山で祈って夜を明かしたとあるように(12節)、祈りは基本的に神と自分に向き合う手段のように思います。瞑想して根源的なリアリティに触れる禅に近いのかもしれません。

 12人の弟子たちは、イエスに選ばれて「使徒」と名付けられました。マルコ福音書によると、宣教して悪霊を払うという特別な使命が与えられています(3:14)。しかしパウロが自らを「使徒」と主張したことを考えると、教会が権威付けのために、意図的に使徒を12人に限定しようとしたのでしょう。

 イエスの周辺には多様な人たちが出入りしていたようです。ラビとその弟子であるならその関係ははっきりしますが、イエスの集団は主義主張もバラバラで、様々な要求と目的を持った人がいて、社会の枠から外れる人も多かったと思われます。また当時としては考えられないことに女性の弟子も多くいたようです。それだけにまとまりがなく、主導権争いも絶えなかったことでしょう。弟子たちは、誰が一番偉いかたびたび言い争っていたのです(9:46)。当然裏切りも抜け駆けも起こるし、見限って出て行く人もいたでしょう。

 そして弟子たちは、恩師であるイエスを最後まで理解できませんでした。その後も、パウロ系の教会が発展したのに対して、直弟子のエルサレム教会はユダヤ教的要素を払しょくできないまま、歴史の中から姿を消していきました。こうしてみると、結果としてイエスは全くあてにならない12人を選んだということになります。

 名前のリストにはありふれた名前が記されています。4人位は元漁師でしょう。シモンとヤコブとユダは複数いて、父親の名前や肩書、あだな等で区別されています。「熱心党」は民族主義的な集団で、ローマへの抵抗運動で知られていました。また「イスカリオテ」がシカリオイという言葉に関係あるなら、今で言うテロリスト集団を指すようです。大祭司の暗殺にも手を染めました。これらのことからも、政治的な背景を持った人たちがいたことが分かります。

 なぜこういう人たちをイエスは選んだのでしょうか。どちらかと言えば厄介な顔ぶれだし、うまくいく感じはしません。しかし頭を切り替えるなら、選ばれた者たちは必ず忠実でなければいけないのかということです。イエスは人となりに関係なく、来る者は拒まず受け入れたのではないかと思われます。そこにはこの世の理屈はないのです。企業や政治の世界なら、人選の失敗は命取りになりますが、イエスの人選はそうではなかったということです。

 もしイエスの選びがあるのなら、善と悪で言うなら悪も、信仰と不信仰で言うなら不信仰も受け入れたのでしょう。そこに神の無条件の愛を考えざるを得ません。「神の選び」はキリスト教教理のテーマの一つですが、もし神の選びというものを考えるのなら、どんな人であれこの世に存在していること自体が「選び」ということではないでしょうか。選んでもらって、この世に生を受け、こうして生かされていることが特別なことなのだと思います。 

 (牧師 藤塚聖)

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2023年4月23日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書6章20~26節

 説教 「幸いと不幸

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 「幸い」についてのイエスの教えは、ルカとマタイでは異なる形で伝えられています。イエスのオリジナルの言葉を再構成すると、「貧しい人は幸いだ、飢えている人は幸いだ、泣いている人は幸いだ」という簡単なものだったようです。それが伝えられる過程で変化して、長い教えになったということです。つまりイエスの教えは、マタイでは精神化され、ルカでは平板な処世訓になってしまいました。

 マタイは、「貧しい人々」を「心の貧しい人々」(5:3)に変え、「飢えている人々」を「義に飢え渇く人々」(5:6)に変えています。現実問題として、貧困な人や飢餓に苦しむ人が幸いなはずがないと思ったのでしょう。そこで精神論として読み替えて、「心」が貧しい人は謙虚な人であり、「義」に飢え渇く人は正義を求める人なので、そういう人は幸いだと考えたのです。つまりマタイはイエスの言葉の真意をよく理解できなかったということです。

 一方で、ルカにはマタイにはない「不幸な人々」が反対命題として付加されています(6:24以下)。そこで言われている幸いと不幸の対比から分かることは、今マイナスならプラスになるし、プラスならマイナスになるという、いわば人生は幸福と不幸が半々という考え方です。止まない雨はないとか、明けない夜はないという言葉に近いでしょうか。ルカの信仰には色々問題があり、イエスが因果応報をはっきり否定していることも分かっていないのです(ルカ13:1-5)。そのように、このイエスの幸いの教えも、常識論として捉えているのでしょう。

 さて、幸せというものは人それぞれであり、極めて主観的なものだとよく言われます。新聞の投稿欄に、ある新興宗教に多額の献金をする妻を心配する夫の相談が載りました。回答は「騙されるのは楽になる道だと」というものでした。回答者曰く、人生は苦難の連続なので妻も半分は怪しいと思いつつも、献金で楽になったのではないかというのです。今は宗教二世のことも社会問題になっているので、軽率なことは言えませんが、それが良いか悪いかは別として、何を幸せと思うかは本当に人それぞれに違うのだと思います。

 それなら、その幸せはイエスの言う幸いとは異なるのでしょうか。まず抑えておくことは、イエスの教えはこうだからこうという一般論ではなく、まず困窮している者たちへの励ましだということです。彼らを前にして、本当に幸いでなければならないのはこの人たちであり、神の国があるのなら彼らが真っ先に入るべきだと言っているのです。困窮者の友であるイエスだから、聞いている人たちは勇気をもらい、本当にそうだと思ったことでしょう。

 また、イエスの言う「幸い」とは主観的な「幸せ」のことではなく、神と根源的につながっているゆえの幸いのことです。それは神から一方的に与えられていて、たとえ幸せであっても不幸せであって、誰にでも当てはまる神の祝福です。先ほどの新聞記事で人生は苦難の連続だとあるように、当然人はそこからの解放を願います。しかし場合によっては叶わないかもしれません。しかしそこにも変わらない神の祝福を信じるならば、必ず乗り越えていくことができるでしょう。神とのつながりとはそういうことだと思います。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年4月30日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書6章27~38節

 説教 「人を量るはかり

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27節)と教えています。神はあなたがたを無条件に愛しているのだから、あなたがたもそうしなさいというのです。しかし今も続いているウクライナの戦争を考えるとき、複雑な気持ちになります。

 それでもこれは実現不可能な崇高な理想ではありません。無理難題が言われているのでもなく、イエスは自らそのように生きたのだと思います。それ故に人というのは本来そういうものなのでしょう。イエスは人の本質とその可能性を身をもって示したのだと思います。そして私たちがそのようにできないのは、何らかの理由で本質からずれているだけであって、当然ながら正せる可能性はあるということです。

 そこで考えるべきことは、人は秤で量れるものなのかということです。人を秤で量るなら、自分も人から量り返されるとあるように(38節)、結論としては、人を量ることは意味がないと教えられます。その一方で、私たちの社会は全て「はかる」ことで成り立っています。化学ははかることから始まり、経済も医学も様々な事象をはかってデータ化して、そこから基準や法則を導き出します。しかし人間はそれとは違うのであって、決して量られるものではないのでしょう。それにもかかわらず、量ろうとするから色々な問題が生じるのです。良い人とか悪い人とか、人と比較することなど、勝手に作り上げた秤によって、敵か味方に分けられ、利益をもたらす人とそうでない人が生まれます。そうするのではなく、相手がだれであれ、一方的に与えて赦しなさいというのがイエスの教えです。これは頭で分かったとしても心がついて行かずに、非常に難しいことかもしれませんが。

 しかしながら、私たちはこのままでは世界が変わらないことも知っています。現実には、主導権を握り絶対に損をしない取引や、力による優位を保ちつつやられたらやりかえす外交、それらでバランスは保たれているかもしれません。しかしそういう関係性はいつか行き詰まります。変えるに

 は、何も見返りを求めないで無償で与えるとか、こちら側から先に手を差し伸べるとか、それ以外にこの世界が変わる道はないように思います。敵対する関係の中でも、報復からは何も生まれないし、どこかで赦しがなければなりません。

 敵を愛しなさいというイエスの教えはキリスト教の中心であって、それが無くなるともうキリスト教ではないのです。フランス人作家ユーゴーの小説「レミゼラブル」で、主人公のジャンバルジャンは、司教館で一宿一飯の恩を受けながら、夜中に銀食器を盗んで逃亡しました。翌日警察に捕まって連れ戻されたとき、司教は盗まれたのではなく彼にあげたとかばいました。恩を仇で返した者に、仇を恩で返したのでした。

 小説や映画のように劇的でなくても、私たちの可能性としてはあるのではないでしょうか。恩を仇で返されたり、絶対に赦せないこともあるかもしれません。それでどうするのか。一度でも無償で赦せるなら、それは喜ぶべきことです。そのような小さな積み重ねが、世界を少しづつ変えていくことを信じましょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年5月7日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書6章37~42節

 説教 「目の中の丸太

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 敵を愛して、誰にでも親切にできるならば、それは人を分け隔てしないということでしょう。分け隔てしないとは、人を量らないことであり、そうなると敵も味方もないということになります。秤で量るから、敵と味方、良い人と悪い人という違いが生じるのです。

 それを別の言い方にしたのが、「自分の目の中の丸太に気づかない」(41節)ということです。他人の目にある小さなおが屑には気づくのに、自分の目にある大きな丸太は全く見えていないのです。人の過ちを赦せない私は、気づいていないだけで本当はもっと酷い人間かもしれません。つまり人というのは、それだけ自分を客観視するのが苦手ということです。だからこそ、それをいつも自覚していることが大事です。自分を俯瞰したり、第三者の立場で考えるのは難しいことですが、修行によってそれは克服できるのでしょう(40節)。

 そして自分を客観視するならば、その至らなさや思い込みの多さに気付くはずです。自分が絶対に正しいと思っていることさえ、極めて限定的なものに過ぎないと知らされるのです。そこで重要なことは、どれだけ自分を「相対化」できるかです。人は誰であれ絶対的な真理を独占することなどできないのですから、確信を持ったとしても批判される用意をしておかねばなりません。

 先日ある番組で、複数の専門家がウクライナの問題について提言を行いました。その一人は、力による現状変更は許されない、しかし相手の考え方に同意できなくても、聞く耳を待たねばならない、相手がなぜそう考えるのか理解しようとすることが重要であり、それが相互理解につながると言っていました。もしそうであったならば、現在の悲劇は避けられたのかもしれません。

 さて、キリスト教会の現状に目を転じると、国内だけでも100から200の教派が存在しています。「よくわかるキリスト教の教派」(キリスト新聞社)によると主なものだけで145あります。大事なことはどこに所属していようと、自分たちを多くの中の一つとして相対化できるかどうかです。 

そして出来るだけ、信仰している事柄の本質を突き詰めることです。

 すでに何度か話したことですが、教派の説明に枝分かれした大木の図がよく使われます。幹から東方正教会とカトリック教会という二つの大きな枝が生えています。そしてカトリック教会の枝から、幾つものプロテスタント教会が枝分かれしています。分裂する方向を見ると気が遠くなりますが、その元は一本の幹なのです。キリストという根から教会という幹が生えているので、根の方に近づくと信仰すべきことは単純になります。逆に分かれた枝の方に行くほど、信仰内容が複雑になり、独自性が強まって近視眼的になります。つまり視野が狭くなって、目の中の丸太が見えなくなってしまうのです。

 教派の違いを乗り越えるには、枝分かれする方向ではなく、元の幹や根の方向に下りて行けるかどうかだと思います。それが相対化することにもつながります。更には木が生えている地面を「真理」あるいは「神」と考えるならば、そこからはキリスト教という木だけではなくて、様々な宗教の木が生えていることに気づきたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年5月14日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書8章49~56節

 説教 「恐れることはない

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 福音書には、病人の癒しの話が多いことに気づきます。それは病気が重大な関心事であったということです。医学が発達した現代においても、病気で失職したり、日常生活に大きな支障をきたすのだから、医療が乏しい古代においては相当深刻だったと思われます。ちょっとした病気でも死に直結したことでしょう。さらにそれだけではなく、病気に対しては宗教的な偏見や差別が酷かったので、それが苦しみに追い打ちをかけました。場合によっては社会から排斥されて、人としての尊厳をすべて奪われることにもなりました。

 本日の個所は、そのようなことで苦しんだ人たちのことが記されています。ヤイロという会堂長は、12才の娘が何らかの病により危篤状態でした。父親としての必死な様子が伝わってきます。それと並行して、12年間出血の止まらない女性のことが記されています。「血」にまつわる病気なので、血をタブーとするユダヤ人社会においては絶望的なことだったでしょう。医者にかかって全財産を使い果たしたとあるように(43節)、医者は当てにならないし、当時の薬は希少価値があり信じられないくらい高価だったようです。そして最後に一縷の望みを託したのが、霊能者として評判のイエスだったのです。

 結果としてはイエスの服にふれただけで出血が止まり、奇跡的にこの女性の病は癒されました。しかし考えるべきことは、この女性は何が必要だったかということです。『イエスとその時代』(岩波新書)によると、治癒物語の伝承を担ったのは最下層の人々でした。そして彼らの願望は社会復帰であり、それにイエスは即応したようです。つまり病気治癒は手段であって、目的は彼女の社会復帰であり、人としての尊厳の回復です。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい」(48節)とは、彼女のそれまでの人生を全て肯定して、安心して生きていいという宣言です。その衝撃が伝承の核にあったのではないでしょうか。だからその後の人生で困難が生じたとしても、彼女はここでイエスから受けたものを力に変えて生きていったことでしょう。

 会堂長ヤイロの娘の話も、死者の復活は伝承の誇張化であって、中心は人として生きる力を与えられたということかもしれません。病気の治癒や蘇生は叶ったとしても一時的であり、本当に必要なのは人としての尊厳の回復なのでしょう。生きる構えというか、困難を乗り越えていく力だと思います。イエスが言った「恐れることはない、ただ信じなさい」(50節)とはそういうことかもしれません。ここに登場した人たちは、イエスから確かにそれをもらいました。そうであるなら、私たちもイエスとの出会いにより、それがあるはずなのですが、どうでしょうか。

 日本キリスト教会「小信仰問答」は第一問「あなたは何のために生きていますか」に対して、造り主である神を知り…神に仕えてみ栄を表すためです」と答えています。今回のテーマに合わせるなら、命の根拠である神を知ることで、自他を肯定して、自らの人生を生きなさいということになるでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年5月21日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書9章28~36節

 説教 「キリストの光と陰

​ ​牧師 藤塚 聖 

 「山上の変貌」といわれている不思議な話について考えてみたいと思います。これは目撃者であるペテロとヤコブとヨハネの証言がもとになっているのですが、その彼らでさえ、その意味が分からなかったようです(33節)。内容としては、弟子たちの前でイエスの姿が真っ白に光り輝き、モーセとエリヤという旧約の律法と預言を代表する英雄が栄光に包まれて現れて、イエスと語り合いました。この世のものとは思えない神々しい光景に、ペテロは我を忘れてしまい、三人のために仮小屋を三つ建てると言い出しました(33節)。ペテロとしては、この素晴らしい時がいつまでも続いてほしいと舞い上がってしまったのでしょう。さらに、栄光に輝いているイエスが間違いなく神の子であるという声が、雲の中から聞こえました(35節)。

 これらのことから、この話は神の栄光を体現したイエスの「光」の側面を、これ以上ない形で言い表していると思います。この神々しい体験により、弟子たちは神秘に触れた気になったことでしょう。しかし見落としてはいけないのは、この話にはイエスの「陰」の側面が含まれているということです。まず語り合っていたモーセとエリヤは、イエスと同じように悲劇的な人たちでした。モーセは同胞の解放者でありながら、常に彼らに裏切られ、最後は約束の地に入ることを許されませんでした。エリヤは仲間からも権力者からも疎まれ、命を狙われ続けました。そしてこの三人が語り合っていたのは決して晴れがましいことではなく、イエスの悲惨な最期についてだったのです(31節)。

 また、一連の話の流れも重要です。この後で、イエスが癲癇の子供を癒すのですが(37節以下)、これは神の力の証明であり、イエスを通して神の偉大さが表現されています。しかしすぐそれに続けて、イエスの死が予告されるのです(44節)。こうして見るならば、神の栄光というものは人の悲劇や悲惨さと結びついていて、それらを抜きには語れないということではないでしょうか。しかし弟子たちはそれを全く理解できませんでした(45節)。もしかすると私たちも同じかもしれません。 

 さて、パウロが説いた「十字架の逆説」は、上述したイエスの光と陰の関係を言い表しているように思います。彼はイエスの十字架を「贖罪論」としてではなく文字通り「弱さ、愚かさ、躓き、呪い」としてとらえ、そこに逆説的に「強さ、賢さ、救い、祝福」があると説きました(1コリ1:18、2コリ13:4他)。そして殺害されたままのイエスの悲惨さの中に、神の栄光があると言うのです(2コリ4:6-10)。しかしこの考えは常識的ではなく分かりにくいため、教会の中であまり語られてきませんでした。パウロの後では僅かにマルコが継承しているくらいです。ルカはそれを写しているにすぎません。しかし聖書の重要な思想として心に留めたいものです。私にとっては、贖罪論よりよほどリアリティがあります。

 というのは、神の栄光がこの世の陰の中にあるのなら、世の悲劇の中で、最も無力にされたところに神がいるということであり、それこそが私たちにとって救いであり赦しではないかと思うからです。そしてそれはそのまま私たちの生き方にも関わってきます。この世の陰の部分、無力や不幸、病や死、辛く苦しい経験の中に神の祝福を見るなら、その生き方は全く違ってくると思います。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年5月28日(日)10:30~

   聖書 コリントの信徒への手紙一14章26~33節

 説教 「内からのうながし

​ ​牧師 藤塚 聖 

 五旬節に弟子たちが「聖霊」を受け「教会」が始まったとされているので、本日はこの聖霊と教会について考えてみます。聖霊に関しては、それを強調する教会もありますが、私たちはあまりそうしません。それはそうしないでも問題ないからであり、多分別の形でそれを表現しているからだと思います。その際にパウロの指摘が参考になります。

 本日の個所は、集会の持ち方について記しています。パウロは人が集まる集会では、解釈を必要とする「異言」よりは「預言」の方が相応しいと思っていたようです(19節)。預言は理性により誰にでも理解できる言葉で神を証言するからです。もし信仰を語る私たちの言葉が教会内でしか通じないならば、それは異言ということになってしまいます。

 また理性による預言でも、聖霊の賜物とされています。ただし、パウロは聖霊を受けるにせよ、啓示を与えられるにせよ(30節)、それは預言者の意に服するというのです(32節)。これは重要な点であって、聖霊の働きや啓示というと、人を超えた外からの特別な力をイメージしますが、それは預言する人自身の主観、つまり内なる願望や価値観などと密接に関係しているということです。従って特殊ではなく、私たちが経験する「気づき」や「発見」のようなことだと言えます。だからそれは他の人によって検討されねばなりません(29節)。しかも預言は誰でもできるということです(31節)。そうなると礼拝説教についても、皆で意見を言い合って検討されるべきです。説教批判はいけないとされますが、本当はそうではないのでしょう。

 さて、パウロは12章から教会メンバーの賜物を議論していて、それらが相互に関連して「キリストの体」になっていると言います(12:27)。組織を体に例えるのはよくあることなので、各部分が組み合わされて、全体として一になるという説明はよく分かります。ただパウロが教会をキリストの体とするのは、それ以上の意味がありそうです。私はそこまでは思えないのですが、パウロは本気で教会がキリストの体としてこの世に実在していると信じていたようです。彼にとっては、教会がキリストに代わってその働きを引き継いでいるというより、教会はキリストの働きそのものだと信じていたのでしょう。そうなると、私たち一人一人はキリストの体の一部なのだから、かつてマルティン・ルターが言った「小さなキリスト」として生きるということになるのでしょう。それはそれで凄いことではあります。

 このように教会というのは、そこに集う者全員がキリストの体の一部とされて役割りを与えられていることを信じましょう。そこに優劣はありません。だから皆大切であり、必要ない人は一人もいません。そして皆が対等な立場で自分の意見を出し合える場所でもあります。自分の考えは賜物である故に尊重されますが、しかし当然検討の対象でもあります。このように、互いにリスペクトしながら自由に相互批判や相互吟味がなされる教会であるなら、本当に素晴らしいことだと思います。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年6月4日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書9章57~62節

 説教 「信仰の三つの段階

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 先週のペンテコステ礼拝では、聖霊についてお話ししました。聖霊を強調する教会の一つにホーリネス教会があります。今日紹介する渡辺善太先生は、最初そのホーリネスに所属して後にメソジストに移り、青山学院などで旧約を教え、銀座教会で牧師をされました。その信仰の原点に聖霊があるために、説教でもたびたび触れています。渡辺先生の説教はウィットに富み、風刺が効いて非常に面白いので、先生が説教する日は聴衆が倍になったと言われています。

 渡辺先生の説教に「わかってわからないキリスト教」というのがあります。先生曰く、信仰の成長には三つの段階があり、「大体わかった」というのが第一段階、「わかったがわからない」が第二段階、最終的に「わかってわかった」が第三段階で、是非そこに到達しようと勧めています。私たちが大体理解していることは、神が創造主で人は被造物であること、それ故に人は不完全なので、キリストの贖罪により赦されたこと、だから赦された者としてそれに相応しく生きるということです。しかし長い信仰生活の中で、自分の信仰は不十分だとか、確信に至らないとか悩みが生じます。また信者間で温度差を感じたり、教会内で問題が生じたりすると、つまずいて教会を離れることも起こります。先週の勉強会では、贖罪論の問題点を学びましたが、いったい何を信じたらいいのかと不安になった人もいたことでしょう。

 渡辺先生は、そういう例として本日の聖書箇所を引用しています。ここではイエスに呼びかけられも、色々な理由で応じない人が描かれています。本当の覚悟もないのに出しゃばる人(57節)、積極的でない人(59節)、踏ん切りがつかず決断できない人(61節)、これらの人は、本当には信じ切れていない人とされています。しかしいつか心底わかるときがくるという訳です。

 これに同意するところもありますが、私は少し違うように考えています。渡辺先生によると、完全に分かるようになり、段階を踏んで真理に到達して、それで神とつながるかのような印象を受けますが、私は完全には分からないのだろうと思います。分かったと思っても、それは不完全だと認めることの方が重要です。私は、信仰とは教会やキリスト教が伝えてきたものを学びながら、それを疑って検討することだと思っています。だから検討の結果は、当然一人一人異なります。自分は何を信じるのか問われるわけです。この検討結果が、自分なりにわかったということなのでしょう。これが渡辺先生の言っている第三段階にあたるかもしれません。だから教会の教えをただ鵜呑みにしている限りは、いつまでもわからないままなのです。

 但し、検討して自分なりに分かったとしても、それは不完全なものです。だから本当は分かったと言えないのかもしれません。パウロも、「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(フィリピ3:16)と言っています。このように考えるならば、第三段階が終わりではなくて第四段階があるのかもしれません。それは「わからなくてもわかった」ということです。私たちは本当にはわからないとしても、神とのつながりは不変であると分かってさえいれば、それでいいと思います。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年6月11日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書10章25~29節

 説教 「隣人とはだれか

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 「善いサマリア人」の例え話は有名なので、説明は不要かもしれません。追いはぎにあったユダヤ人を、対立関係にあるサマリア人が助けて手厚く介抱したという内容です。イエスは律法学者に対して、隣人愛とはこういうことだと語りました。思わず自分はそうできるのか考えさせられます。身近なことに置き換えてみて、道で自転車に乗った子供が車にはねられたなら、きっと助けるでしょう。ただそれと違うのは、ユダヤ人とサマリア人の民族的な対立と、救助者も事件に巻き込まれる危険性です。そこで躊躇するのかもしれません。

 以前皆で勉強した八木誠一氏の本では、このサマリア人の話が何度も引用されていました。困った人がいたら思わず助けるのが人間本来の姿であり、それが「統合」状態だとあります。そこに人の都合や打算、自己保身等が入り込んで崩れたのが「統一」の状態です。しかし余計なことを考えず無心であるなら人は必ずそうするというのです。だからイエスは当然のように、「行って、あなたがたも同じようにしなさい」(37節)と言うのでしょう。

 さてさらに重要なことは、イエスがこの話を宗教批判として用いていることです。律法では「神を愛して、隣人を愛する」(27節)場合でも、「隣人」は誰もが対象ではなく、自分たちの信仰仲間に限定されていました(レビ19:18)。生まれがユダヤ人でも、律法に忠実でなければ罪人であり仲間ではないのです。それがサマリア人差別を生み出して、敵を作り出すことになりました。だからその律法に問題があります。イエスは、誰が被害者の隣人になったかと問い(36節)、隣人とは自分の方から隣人になることだとして、その概念をひっくり返しました。

 この話は隣人の定義のみならず、ユダヤ教律法の硬直性と独善性を厳しく批判しています。話の中で祭司とレビ人が登場して、けが人を助けることなく通り過ぎました。彼らは決して不親切なのではなく、律法に従って穢れを避けることで(レビ21:1)、宗教的には全く正しいことをしているのです。つまり彼らの正しい信仰が、気づかないままで独善性と差別を生み出していることになります。

 このように、宗教や信仰というのは常に独善に陥る危険を孕んでいます。私たちが抱えている、信者だけ救われるという思い上がりや未信者を排除する宗教儀式をイエスは厳しく批判することでしょう。そこに敏感でありたいと思います。

 宗教学者の釈徹宗氏は、「宗教や信仰は社会と異なる価値観を持ち、それで救われる人がいる、しかし信仰は他者を攻撃し傷つける可能性がある、それに自覚的であるべきだ、宗教は社会からの疑問や要求に真摯に向き合わねばならない」と言っています。私は信仰的に確信に満ちているより、つまり凝り固まっているより、揺れていてゆるい信仰の方が健全に感じます。何故なら私たちは本質的に不完全だからです。しかしその私たちを神の方からしっかりつかまえていてくださいます。だからゆるくても大丈夫なのです。

 (牧師 藤塚聖)

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2023年6月18日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書10章30~37節

 説教 「傷ついた旅人

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 イエスはユダヤ教の仲間内での「隣人愛」を批判しました。隣人を仲間に限定しないで、自らが隣人になりなさいと教えました。

 さて、この話は誰の立場になるかによって、読み方が変わってくるかもしれません。殆どの人は救助者のサマリア人の立場で考えると思います。イエスが「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)と言っているからです。しかし強盗に襲われた人に、自分を重ねる人がいてもいいと思います。また場合によっては、祭司やレビ人のことを考えて、その特殊な事情により何もできなかったことに同情する人もいるかもしれません。このように、話の内容を漠然と考えるのではなく、特定の人に感情移入することで、当たり前と思っていたことに疑問が生じたり、新しい見方ができることもあります。

 教会の歴史の中でも、多様な見方があります。善きサマリア人とはまさにキリストそのものだというのがその一つです。苦しむ者を危険を冒してまで助けるからです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)というのはそういうことです。またそれとは逆に、瀕死の怪我人こそキリストだという見方もあります。彼こそが不条理の中で無惨にも殺されたからです。困窮して助けを求める者はキリスト自身だったという逸話(マタイ25:31以下)はその典型でしょう。かつてD.ボンヘッファーが言ったように、私たちは助けを求めて神のところに行くけれども、困窮の中にある神を見出して、苦しみ神のもとに立つというのも、そういうことかもしれません。

 ミッチ・アルボムというジャーナリストが、大学の恩師との対話を「モリ―先生との火曜日」という本にしました。ニュースで難病のため残り僅かの命と知り、毎週火曜日に訪ねて話を聞きました。14回にわたる話の中で印象的なのが、人生の奥義ということです。「人は赤子の時も老いた時も他者の助けを必要とする、そもそも人生の始めと終わりのみならず、人は助けを必要とする、ここに人生の奥義がある、他者の愛に抱きかかえられて生きることがもっとも積極的な生き方であり、かけがえのない幸せだ」と。普通なら、他者のために何かすることが積極的ない生き方で意義ある人生ではないかと思いますが、その逆を言うのです。だから人生の奥義なのでしょう。これに倣うなら、私たちは怪我した人を助ける前に、十分に介抱されなければならないと思います。

 「自尊感情」という言葉があります。自己肯定感と同じで、自分を好きで大切に思えることです。日本社会では低い人が多いようです。社会的自尊感情と基本的自尊感情があり、前者は人との比較で増減しますが、後者は長所も短所も含めて自分を認めることであり、一度確立すると無くならないようです。そして前者が磨滅しても、それを乗り越える力になると言われます。

 真面目な人ほど、善きサマリア人であろうと頑張ると思います。しかしその前に、善きサマリア人であるキリストから十分に介抱され、神への絶対的信頼感、言い換えると基本的自尊感情を養うべきです。誰もが神と人から愛されていて、必要とされているのですから。そしてそれが人を助ける力の元になるのかもしれません。 

 (牧師 藤塚聖)

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2023年6月25日(日)10:30~

   聖書 ルカによる福音書10章38~42節

 説教 「必要なことは一つだけ

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 マルタとマリアの姉妹は、ヨハネ福音書でも弟ラザロのことで登場しています。その時も「動」の姉と「静」の妹が対照的に描かれていて、村の外までイエスを出迎えに行ったマルタに対して、マリアは家の中に座っていたとあります(11:20)。

 本日の話でも、マルタがイエス一行の接待で忙しくしているのに、マリアはやっぱりただ座ってイエスの話を聞いていました(39節)。マルタはさすがに頭にきて、イエスに妹を叱ってくれと言い、それに対してイエスはマリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならないと諭しました(42節)。これは一生懸命なマルタを気遣いながらも、責められるマリアをかばったという程度の話かもしれません。しかしもっと深い意味があるのでしょうか。

 かつて教会女性の修養会で、ベテランの女性牧師が、この箇所を基にしてマルタを再評価する話をしました。彼女の働きに対して、イエスの同情と評価が表されている。だから教会内の裏方の仕事を担う婦人会はこれからも頑張ってほしいというわけです。この箇所の結論は、どう見てもマリアが良い方を選んだということなので、この牧師の言うことが通るなら、本当に何でもありということになってしまいます。

 一般的な解説は、教会では奉仕活動より聖書を教えたり学ぶことの方が優先するというものです。これはルカの価値観にも合致します。ルカは教会においては食事の世話係より、神の言葉に携わる仕事の方が重要だと考えていたようです。12弟子は食事の世話などしないで、助手に任せておけばいいという訳です(言行録6:2)。

 それに対して、女性解放の神学(フェミニズム神学)は、ジェンダーの問題に踏み込んでいます。イエスはマリアの在り方を認めて、接待は女性の役目という常識を覆したということです。さらにそれをはっきりさせるためにも、イエス自らが説教するだけでなく食事の支度を手伝うべきだったとも言われます。これはなかなか厳しい意見です。また「主の足元に座る」というのは、レビ(聖書教師)の弟子になるという意味合いがあり、男性弟子しか認めない時代のなかで、マリアは性別の壁を破り、イエスの弟子になったことを表すようです。一方でマルタは世間の常識に沿って、それをマリアから取り上げようとするのですが、イエスは壁を破るマリアを認めて、それこそが必要なことだと言ったのでした。

 マリアだけでなく、イエスの集団には女性の弟子が多くいたようです。しかしイエスの死後は男性弟子が中心となり、教会は世間並みの組織に戻ってしまいました。聖書からもその痕跡が消されました。圧倒的な男性中心社会の中においては当然そうなってしまうのでしょう。イエスとパウロの違いを考えただけでも分かることです。その点では、この姉妹の話は貴重な記録と言えます。

 以上の問題は教会や聖書の話に限らず、私たちも日々男性中心社会の中で、それを前提にしたシステムや常識の中で生きています。その壁を破るのは簡単なことではありません。しかしそれが難しくても、その問題性には気付いていたいと思います。

 (牧師 藤塚聖)

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