礼拝説教集
2025年6月22日(日)10:30~
聖書 詩編119編65~72節
説教 「神の真理に至る道」
牧師 藤塚 聖
ダビデは心の葛藤を詩編51篇として残しました。預言者ナタンに自らの過ちを指摘され、その後悔と苦悩がうたわれています。その過ちのために、バテシバとの間に生まれた子が死に瀕して、彼は7日間部屋にこもり断食して神に命乞いをしました(サムエル下)。その間にどれだけ祈り、自らを見つめ直し、神と真剣に向き合ったことでしょうか。結果として子は助からなかったのですが、彼の人生で一番深く色々なことを考えた日々だったと思います。
私たちは出来ることなら日々平穏に暮らしたいと思っています。苦しい思いをすることなく一生を送れたら幸せだろうと考えます。しかし意に反して大変なことは生じるし、それだけでなく世界の混乱に目を転じるなら、苦しむ人々の叫びが聞こえない日はありません。そういう中で、私たちは人としてどうあるべきか真面目に考え始めるのです。そうでなければ、きっと何も考えないで無為に過ごすことでしょう。人生観や価値観がひっくり返るのは、何もない所では起こらず、大変な経験の中で考えざるを得なくなるからでしょう。
旧約聖書中の諸文書は、その殆どがイスラエルの歴史の大転換期に記されました。古い部族社会から王政に変わった時や、王国が滅亡して異民族に支配された時など、人々が生き方の見直しを迫られた時でした。それまでの信仰が通用しないので、別の神に乗り換える人もいたし、また全く新しい仕方で神を理解しようとした人もいました。そういう民族的な試練の中で残されたのが旧約の思想だと思います。
そのような事情を反映しているのが、詩編119篇の71節の言葉です。口語訳聖書では「苦しみにあったことは、私に良いことでした。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」と訳されていました。苦しい経験を通して、神の教えの本当の意味が分かるようになったということです。
さてこの長大な119篇の主題は「律法」です。しかしそれと同時に、いたるところで詩人の試練や嘆きが散見されるのです(67,69,70節)。このことはこの119篇に限らず、詩編全体にも言えることです。神への嘆きや訴えと、神への感謝と賛美が、相互に絡み合いながら一本の糸になっているように見えます。あるいはそれぞれが縦糸と横糸となり、一枚の布を織りなすが如くです。つまり人は人生において、特に苦しい経験の中で、神のおきて(真理)を一つ一つ自分のものにして成長していくということでしょう。
緊急救命医療の最前線で、日々苦闘しているある医師が書いた本の中にこうありました。「なぜこの世にはこんなに苦しみが多いのか、苦難を通してのみ、人は真理を学びとる、もしこの世に苦痛がなければ、人は決して欠陥に目を向けようとはしない、この世に苦難や災難があるのは、神の子である人間が、これを克服する道を学びとるためである」
苦難は神の罰でも呪いでもありません。人が神の子として成長するプロセスであり、神の真理をそこで学ぶということを、あらためて心に留めたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
