礼拝説教集
2026年3月15日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書16章13~20節
説教 「岩の上の教会」
牧師 藤塚 聖
イエスとペテロの対話から、幾つかのことを考えました。この場面は、イエスが世間の評判を弟子に訊ねた上で、彼ら自身の見解を求めたものです。世間はイエスを洗礼者ヨハネ、あるいは預言者のエリヤ、エレミヤの再来と見ていたようです(14節)。いずれにしても、イエスは特別な人物と見られていました。
それを受けて、ペテロはイエスのことを「メシア、生ける神の子」と告白しました(16節)。この告白の正否は一旦横に置いて、それに対するイエスの態度が、マタイとマルコでは真逆であることに注目したいと思います。マルコでは、それを誰にも言うなと叱責しており(8:30)、マタイでは、ペテロの告白を絶賛して、彼を土台としてその上に「教会」を建てるとまで褒めています(18節)。更に天の国へ入るか否かの権限をペテロに与えると言いました(19節)。しかしその後の展開を見ると、ペテロはイエスの受難を全く理解していないので、「サタン、引き下がれ」と激しく叱責されます(23節)。つまりペテロがイエスのことをどう告白しようと、その使命も意図も分からず、本気で従う覚悟もないことは明らかでした。それまでの弟子たちの無理解を考えるなら、これはいかにもありそうなことです。
従って、マタイの話は、イエスの言動が弟子に権威を付与して、教会の正統性を証明するために創作されたものと考えられます。マタイ福音書が書かれた頃は、すでに弟子と教会の権威が確立されていたからです。そのためにイエスの言動がお墨付きとして利用されました。それは、イエス自身が神の権威を一切語ることなく、自らの責任で活動したのとは全く対照的です。
以上により、この話から説教をしにくいのですが、苦肉の策として「ペテロ」というあだ名について考えてみます。元はアラム語のケファ、「岩」の意味で、そのギリシャ語がペテロです。このあだ名はイエスがつけました(マルコ3:16)。頑固な性格からか、がっちりした体格からかは分かりませんが、おそらく優柔不断で的外れなのを皮肉って、あえて真逆の「岩」と命名したのでしょう。
カトリック教会の「教皇制」は、マタイにおけるペテロの信仰告白の話しがその根拠になっていて、ペテロが最初の教皇であり、現在のレオ14世が第267代目ということになっています。そこではペテロは正真正銘盤石の岩であり、その上に教会制度が構築されて大きな権威となっているわけです。
しかし私にはそれが立派過ぎるように見えます。イエスはペテロという頑強な岩の上に教会を建てたのではなく、欠点だらけのペテロと弟子たちに自らの活動を委ねたのではないでしょうか。だから弱く過ち多い私たちも、教会としてその働きを引き継いでいけるのです。岩のような頑強さを求められるなら不可能です。そのことを有難いこととして謙虚に受け止めたいと思います。そして教皇制度のみならず、何の権威にも依らずに、ただイエスとその教会の中に大切なものを感じるからこそ、私たちは信仰生活を続けているのでしょう。
(牧師 藤塚聖)

