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​礼拝説教集

2025年5月11日(日)10:30~

   聖書  詩編19編8~15節

 説教 「隠れた罪について

​ ​牧師 藤塚 聖

 キリスト教の教えの一つに「贖罪論」があります。キリストが人類の罪を贖うために死なれたという教理です。私はこの教理に批判をもっていますが、そこで言われている人間の不完全さや限界については同意できます。人はどうあっても不完全で間違いを犯すので、だからこそ誰もが赦されるべき存在なのだと思います。

 人間本来の姿があるのなら、私たちは大抵そこからずれているのでしょう。ヨハネ福音書がイエスは「ロゴス」(真理、道理)として生きたと証言しているように(1:1-5)、人のあるべき姿をイエスは身をもって示していると思います。しかしながら私たちは努力してもなかなかそこに近づけないので、いやがおうにも自分の不完全さを思い知らされます。だから驕ることなく謙虚にならざるを得ないのです。

 19篇の前半(2-5節)では、その道理(法則)が宇宙や自然界に示されているとあります。そのことは素晴らしいことなのに、人は何となく感じられても明確に聞きとる力を失っています。だから後半(8-11節)では、その法則が「律法」によって見える形で明らかにされているとうたっています。律法はことごとく正しく、人を生かし、目に光を与え、命の充実をもたらすといいます。このように、律法に示される道理に沿って生きるなら、本当に生きたと言えるのです。

 しかしその一方で、道理に沿って生きようとするなら、それから反れている自分に気づき、赦されねば存在できないことが分かります。つまり、人には「重い背きの罪」があることが分かり、「驕り」(14節)から解放されて、謙虚である他ないと気づかされるのです(15節)。

 さて、私たちも人生経験を積んで、今振り返るなら、実に多くの過ちを赦されてきたと思い起こすことでしょう。神と人に赦されて今の自分がいます。しかし問題なのは、その自覚に至らない「知らずに犯した過ち」、「隠れた罪」(13節)のことです。自覚があるなら反省も出来ますが、自分では全く分かっていないこともあるのです。分からずに気づいてもいないことが、その罪の深さを物語っています。 

 例えば、子を支配する親は、それを指摘されても分からないでしょう。自分では子のために正しいと思ってやっているからです。教会に関しては、熱心な信者ほど自分の理想を教会に押し付けて、教会の破壊者になっていることに気づけません。牧師も権威を振りかざし、信者へのパワハラ、モラハラに気付けません。世界規模で見るなら、搾取される人々の貧困の上に、私たちの便利な生活が成り立っていることを自覚すべきです。

 このように、もともと不完全な人間として不合理な社会で生きていて、知らずに犯す過ち、つまり隠れた罪が分かるのは極めて難しいことです。どうしても自分では気づけないのだから、それがあることを前提にして神に赦してもらう他ありません。願わくは、悔い改めることが出来るように、それを自覚に至らせてくださいと祈るしかありません。

(牧師 藤塚聖)

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