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​礼拝説教集

2025年12月28(日)10:30~ 

   聖書  マタイによる福音書6章25~30節

 説教 「空の鳥、野の花

 ​牧師 藤塚 聖

「空の鳥と野の花を見なさい」とイエスから言われた人たちは、本当にそうだと思ったことでしょう。思い煩いや悩みがバカバカしくなり、鳥や花でさえ何とかなっているのだから、自分たちだって大丈夫と思えたでしょう。

 ある本で知ったのですが、作家の津島祐子さんもこの言葉に励まされた一人です。彼女は太宰治の次女として、苦しい子供時代を過ごしたようです。シングルマザーで二人の子を育て、一人を9才の時に亡くした時に、全く書けなくなりました。しかしこの言葉で立ち直りました。エッセイ集にこうあります。「明日のことを思いわずらうな、一日の苦労は一日にて足れり、私は気持ちが不安定になりかけるとこの言葉を呟く。刹那主義に走るのではなく、(略)一日一日を過ごしていくこと、これはとても難しいことだけれども、私はキリストの言葉から美しい楽観主義というものがあることを教わり、それで一番大事な所で慰めを感じさせてもらっているのだ」。彼女はクリスチャンではありませんが、イエスの言葉は苦しんでいる人に響くのでしょう。

 空の鳥と野の花からは、牧歌的なイメージが広がります。しかしそれは一面であって、これらは人の目には邪魔で無価値なものを表しているようです。鳥はユダヤ人が不浄とする烏(ルカ12:24)であり、花もすぐ刈られて焼かれる雑草です。「蒔く、刈る、倉に納める、働く、紡ぐ」(26,28節)という言葉から分かるように、古代社会の経済にとって労働力にならないものは排斥されました。子供も病人もマイナスです。鳥と花はそれ以上に使い物になりません。しかし神には意味のあるものとして大事にされているということです。

 それが分かれば、たとえ不安や思い煩いが完全に無くならないとしても、私たちは生きる根本のところで、絶対的に肯定されている安心感を持てるでしょう。私たちはこのままで価値あるものとして生き、価値あるままでいずれ神の元へ帰っていくのです。この全ての者に注がれている神の愛と神の配慮について、イエスはこうも言っています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)。つまり神の配慮や愛には、善悪を超えて何の区別もないのです。

 基本的に私たちは不完全な存在であることは否定できません。パウロはそれを「罪」と言います。しかしながら不完全だからこそ神に赦され、不完全にもかかわらず肯定されているというのが、イエスが語る「福音」ではないでしょうか。私は全ての人が救済される「万人救済説」が正しいと考えています。もしも信者だけが救われるのなら、不信仰で不完全な私はどうなるのでしょうか。神の愛が無条件で一方的だからこそ、不信仰な私でも安心して生きていけるのです。無条件の愛を認められない人は、空の鳥と野の花の言葉を聞いても、あまり実感できないかもしれません。実感できる人は、自分への執着や人との比較から解放されて、本当の意味で自由になっていくことでしょう。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)

(牧師 藤塚聖)

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