top of page

​礼拝説教集

2024年4月14日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書1章40~45節

 説教 「イエスの憤り

​ ​牧師 藤塚  

 

 福音書を読むと、イエスが病人に対する偏見や差別とずっと闘ってきたことが分かります。この度も、イエスは重い皮膚病を患っている人を治しました。しかし何故か、ずっと苛立って怒っている様子が記されています。イエスは「深く憐れんで」(41節)、その人に触れたとありますが、有力な写本では「怒って」となっていて、その方がその後の「厳しく注意して」(43節)にうまくつながるようです。憐れむと怒るとでは真逆な印象になりますが、もし怒ったのなら何に対してだったのでしょうか。

 一つ考えられるのは、この病人の態度でしょうか。イエスへの懇願が回りくどいのです。「どうか治してください」ではなく、本当にできるのならみせてくださいというニュアンスです。本心からの信頼ではなく、イエスが宗教的な穢れを認めないのを疑っていることになります。だから頭にきて、穢れなど存在しないことの証明として、皮膚病に直に手を擦れたのでしょうか。

 それにしても、当時恐れられた皮膚病に直に触れるとは凄いことです。経験的にらい病ではないと判断したのでしょうか。らい病なら感染して大変なことになります。それとも自分の治癒能力を信じていたのでしょうか。キリスト教の「救らい運動」を批判的に研究した荒井英子さんは、著書「弱さを絆に」の中で、自分の体験を記しています。あるハンセン病療養所を訪問したとき、そこの喫茶店で大好物のお汁粉が喉を通らなかったこと、入所者から貰ったケーキを自宅に持ち帰れずに、途中の駅で捨てたこと、頭では分かっていても体が拒否したと、自分の中の偏見と恐怖心を正直に告白しています。その点では、イエスは全く恐れていなかったことになります。

 イエスはこの人をせっかく治してあげたのに、すぐにきつく叱りつけて追い出しました(43節)。皮膚病患者は外出を禁じられているのに、出て来たことへの苛立ちかもしれません。そしてすぐに祭司に見せて、治癒の証明をもらえと指示しました(44節)。律法では、祭司が皮膚病患者を診断して、汚れているか清くなったか判断すると決められています(レビ記13章)。また清くなったとしても、それに伴う煩雑な儀式と、多額の費用のかかる奉納物が必要でした(同14章)。治癒したか否かの診断は1週間ごとに行われ、結果が良くないとそれが延々と続きました。レビ記の規定を現代の私たちが読むと、治癒の証明は必要かもしれませんが、そのための儀式は意味不明でまったく無駄に思えます。この意味不明で無駄なことが神殿の膨大な富となっていました。

 当時の社会においては、祭司の証明と儀式は病人の社会復帰に必要だったと思います。それを経なければ周囲に受け入れられないでしょう。イエスは批判をもちながらも、それを無視できないことに大きなストレスがあったのかもしれません。怒ることがいけないのではなく、むしろ矛盾や不条理に何も感じなくなることが駄目なのだと思います。

(牧師 藤塚聖)

IMG_0020_1.jpg
bottom of page