礼拝説教集
2026年4月26日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書17章14~20節
説教 「からし種一粒ほどの信仰」
牧師 藤塚聖
イエスの活動は一種の「世直し運動」だったと思います。「律法主義」によって抑圧された人々に、神は恐ろしい裁判官ではなく愛の神であると説き(5:45)、人と社会は本来どうあるべきかを教えました。そして律法という基準で「罪人」とされた人の尊厳を回復して、あなたは何も悪くないと宣言しました(9:2)。
それともう一つの重要な活動は、病人の癒しでした。それは現代医学でいう治療というより、ストレスの緩和のようなことだったと思います。ペシャワール会を創設した中村哲医師は、パキスタンでの登山隊の同行医師の体験が原点にあったようです。病院も医者もいない村々で、噂を聞いた人たちが各地から続々と集まりました。しかし使える薬も限られ、十分な治療も出来ないままその場を後にするしかなかったようです。ましてやイエスの時代には薬さえなく、体に手を当てたり、水を飲ませるくらいだったでしょう。重い病気は無理でも、ストレス性のじんましんや湿疹程度なら、それで良くなったかもしれません。たとえ治らなくても、病人は何かを感じたでしょう。強い偏見や差別がある中で、生まれて初めて人として大切にされた経験かも知れません。それがストレスを軽減して、症状が緩和したかもしれません。当事者にとってはそれだけでも伝承になるほどの出来事だったと思います。
癲癇の子供を連れてきた人の話しはその典型といえます。「度々火の中や水の中に倒れる」(15節)とは、予測できない突発的な発作に苦しんでいるということです。激しいけいれんで体が硬直して、時には口から泡を吹く様子は、当時としては「悪霊」の仕業としか思えなかったことでしょう。それが起こると、大抵は周りが大騒ぎして症状が良くなるどころか悪化したと思われます。それに対して偏見をもたなかったイエスが、冷静に対応することで、子供はストレスから解放されて症状がおさまったのでしょうか(18節)。
そのように対応出来なかった弟子たちを、イエスは「信仰が薄いからだ」と叱りました。そして「からし種一粒ほどの信仰」さえあれば癲癇を治せるし、山を移すことさえできると語りました(20節)。そうであるならば、そのような「信仰」とはいったい何だろうと考えざるを得ません。実際に病気を癒したり山を移すことは、私たちには到底できないからです。からし種一粒ほどの小さな信仰でいいとしても、そんな信仰をもてるとは思えません。
そこでこの「信仰」を別の角度から考えてみます。イエスは神への愛は隣人への愛だと言いました(22:40)。つまり信仰が神への信頼であるなら、それは同時に人への信頼でもあるはずです。そしてそれは人が作る社会への信頼でもあります。弟子たちには、社会とこの親子への信頼が決定的に欠けていたのかもしれません。
人や社会を信頼するとは、無条件の信頼というより、本当に信頼できる人間関係を作っていく、そして信頼できる社会を築いていくということです。その中で、難しい病気でも治ったり、現実に山が動く程の大きなことが起こるのかもしれません。今の世界の混乱を見ても、相互の信頼関係こそが世界を変える唯一の道であると思います。
(牧師 藤塚聖)

