礼拝説教集
2026年8月23日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書18章15~20節
説教 「呼び出された者たち」
牧師 藤塚聖
本日の話の中に「教会」という言葉が登場します(17節)。原語の「エクレーシア」は単純に「集会」という一般用語であり、「呼び出された者」とか「招き出された者」という意味がありました。最初の信者たちは、自分たちが苦しい場所から神に呼び出してもらったと思ったことでしょう。イエスは、地域で居場所のない人、戒律に縛られている人、あえてそういう人たちを呼び出して仲間になりました。最初の教会も本来はそういう集まりだったのです。
しかし徐々に資産のある者が中心になると、教会が階級化していき、助け出されたという意識が希薄になります。そして自分たちは資格があるから呼び出されたのであり、相応しくない者は入れてはならないし、既に入っているなら排除して当然だということになりました。教会がすでに「権力」になっているのです(18節)。「教会」がこの福音書にだけあるということも、マタイがそれを権威と考えていた証拠でしょう。
18章15~18節にはそういう意識がはっきりと現れています。まず違反者を個人的に諭し(15節)、次に教会として勧告して指導する(16節)、それでもだめなら最終的に違反者を異邦人や取税人と同様に扱う(17節)、つまり除名するということです。しかしイエスは逆に彼らこそが先に神の国に入ると言っていたのではないでしょうか(21:31)。このように、マタイの教会はイエスの言動とは真逆になり、相応しくない者を見下して(5:46、6:7,32)、排除する集会になりました。それはもうエクレーシアとは言えないでしょう。
「迷い出た羊」のたとえ(10-14節)もその文脈の中で、失われた1匹を最後まで探し求めるというより、聖なる教会から悪へと迷い出てしまった会員を、回心させて復帰させるという趣旨に変わっています。違反者が悔い改めて更生するなら、もう一度仲間にしてやろうというのです。
私たちも思い違いをして、自分には信仰があるから神に招かれている、教会の外の人にはない資格が自分にあると思いがちです。それはマタイの教会と同じ考え方です。現代の教会はその意識を強く引き継いでいるように見えます。教会組織や制度、教会の教えにはそういう考え方が前提としてあります。しかし教会とは、エクレーシアと言われたように助けの無い苦しい場所から助け出された者たちの集まりであることを心に留めたいものです。
私たちと教会の関りのきっかけはどうだったでしょうか。何かを求めて教会に来たのでしょうか。積極的理由のない人もいるでしょう。それでも今でも続いているのは、それ以前の場所にはなかった何かがあるからでしょう。もし何の欠乏もなく自己充足しているなら、呼ばれることはなかったでしょう。その意味では、やはり私たちも何らかの理由があって、以前の場所から引き出されて今ここにいるのだと思います。そして以前には無かったものを頂いているのです。
教会に求めるもの、期待するものは人それぞれ違うでしょう。呼び出される状況も同じではありません。それでも誰もが安心して無条件に集まることができて、そこで力を貰える場所、そういう教会でありたいと思います。
(牧師 藤塚聖)

