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​過去の礼拝説教集2022年7-12月

2022年7月3日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書10章7~18節

 説教 「命より大切なもの」

​ ​牧師 藤塚 聖 

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)という言葉を読むと、詩編の23篇を思い出します。その冒頭で「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とあるように、古来イスラエルでは、神と人のつながりを羊飼いと羊の関係によくなぞらえてきました(エレ23:1、エゼ34:8他)。イエスが自分を良い羊飼いと言ったかどうかは横に置くとして、間違いなく利己的でなく利他的に生きたから、ヨハネは良い羊飼いの姿をイエスに投影したのだと思います。

 10章の始めには、羊と羊飼い、盗人や強盗と門番について記されています。「羊の囲い」(1節)とは、牧場の一部を囲い込んでいる柵のことではなく、農家の納屋や作業所に囲まれた中庭のことです。羊たちは門から入ってそこで休みました。建物に囲まれているので安心ですが、門番の監視がないと、盗人や強盗に好き勝手にされてしまいます。朝になると、羊飼いは自分の羊を呼び出して、牧草地に連れて行くのです。

 羊飼いにとって羊は家族であり財産なので、それが奪われそうになるなら体を張って守るでしょう(11節)。しかし「雇い人」は責任がないので、危なくなれば見捨てて逃げてしまうのです(12節)。最近の研究によると、福音書記者はイエスの直弟子たちに厳しい批判をもっていて、それがここに暗示されているということです。ペテロを中心とするエルサレム教会は、教会内の革新派(ギリシャ語を話す信者)がユダヤ教徒に弾圧されても、擁護しませんでした。最初にステパノが惨殺され、革新派が各地に亡命したのに、イエスの弟子たちがエルサレムに留まれたのは、仲間を見捨てたからでした(言行録8:1)。つまり弟子たちは、羊飼いであるイエスから羊としての信者を託されていながら、敵から守らなかったのです。まさに無責任な「雇い人」でしかなかったのです。

 羊のために命を捨てるのは決して簡単なことではありません。もしもそれができるのなら、命より大切だと思えるからでしょう。親が不治の病の我が子に自分の命をあげたいと思うのはそういうことです。だからこれは決して絵空事ではないのだと思います。 

 聖書の中で「命」は使い分けられています。羊のために捨てる「命」はギリシャ語でプシケー、永遠の「命」はゾーエーです。プシケーは生理的な「命」でいずれ終了しますが、ゾーエーは霊的な「命」として存在し続けるのです。イエスは、消える命ではなく永遠の命に目を注げと教えてくれます。

 「がん哲学外来」を開設した樋野興夫先生は、医師とがん患者の隙間を埋めるためにこの活動を始めました。著書にこうあります。「命が一番大事と考えない方がいい、命が尊いことは当たり前でも、自分の命よりも大切なものがあると思った方がいい」。プシケーとしての命が一番大事と考えるのなら、必ず行き詰ることでしょう。人は必ず命の終わりを迎えるのに、それを無視して執着するのなら、いつも死に怯えて生きることになるからです。

 誰にとっても、この命よりも大切なものはきっとあることでしょう。それが分かることが重要です。人との数々の出会いかもしれないし、自分の信仰かもしれません。そのためにこの命があったと思えるなら、それは永遠の命を生きていることになるでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年7月10日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書10章7~18節

 説教 「イエスに連なる人々」

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 先週は、福音書の著者ヨハネがイエスの弟子たちに対して厳しい批判をもっていたことを話しました。弟子たちは羊飼いであるイエスから、羊である信者を導くように任されたのに、ユダヤ教徒から弾圧されたときに、彼らを守りませんでした。イエスは体を張ったのに、弟子たちは見て見ぬふりをしたのです。そのことは使徒言行録にも簡単に記されています(8:1-3)。言行録の著者ルカは、教会や弟子たちを理想化して美化するので、差しさわりのない程度にしか書いていません。その点ヨハネは、弾圧されてエルサレムから避難していった信者たちの立場から、弟子たちを告発しているといえます。

 このことだけでなく、弾圧から逃れた信者が各地で伝道して、そこで仲間をつくったときも、その噂を聞いた弟子たちがやってきて、エルサレム教会の管理監督の下に組み入れたのでした(言行録8:14-25)。ヨハネはそのことも厳しく批判しています。まさに他人の働きの成果をかすめ取ったのでした(4:38)。

 私たちは使徒言行録に影響されて、どうしても弟子たちを理想化してしまいます。聖書学者の中にも、12弟子たちは「聖人」だという幻想を持つ人がいますが、この箇所はどう見ても弟子たちの無責任さを言っているとしか考えられません。私たちは、どんな人でも人間である以上不完全なものだということを冷静に抑えておくべきでしょう。確かに弟子たちは、復活体験を通して、生き方を改めたことでしょう。しかし最初の原点を忘れるのは簡単です。教会の指導者として権力が当たり前になると、監督指導の発想になります。さらに彼らはもともと権力志向の強い人たちでした。初心を忘れて地金が出るのも時間の問題だったのでしょう。

 ルカとヨハネに違いがあるように、聖書の中には色々な思想や意見が交錯しています。世の中には色々な人がいるのだから、キリストへの信仰が一致しないのは当たり前であって、教会というのは最初から相互批判があり、分裂がらみだったのです。それは今日までの教会の歴史が証明していることです。 

 さて、本日の個所には弟子批判だけではなく、重要な言葉が記されています。イエスは「私にはこの囲いに入っていないほかの羊もいる」(16節)と言いました。ほかの羊とは何を指すのでしょうか。囲いの中の羊を教会の信者とするなら、その外にいるのは信者ではない大勢の人のことでしょう。イエスはその人たちも導くし、彼らもイエスの声を聞き分けるというのです。つまり教会という組織の中にいなくても、イエスの声を聞き分けて従う人は大勢いるということです。

 弟子たちの教会は、仲間を切り捨て、自分たちの洗礼以外を認めず、信者の資格を制限しました。しかしイエスはそうではなく、そんな狭い囲いの中にいなくても、イエスに倣って生きる人はこの世に大勢いると語っています。私たちは、イエスの声を聞けていると思い込み、弟子たちのように偏狭になっていないでしょうか。キリスト者だけがイエスに従っているという独善を反省して、この世に大勢いるイエスに倣って生きている人たちに目を向け、共に歩んでいきたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年7月17日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書10章22~30節

 説教 「神からいただくもの」

​ ​牧師 藤塚 聖 

 神殿奉献祭で起きたイエスとユダヤ人のやりとりについて考えてみましょう。まずこの祭りは、ユダヤ人が長い外国支配から一時期独立したことを記念して行われるようになりました。BC.6世紀のバビロン捕囚以降、20世紀になるまで、ユダヤ人には自国がなかったわけなので、その間にわずかの期間でも独立したときがあったというのは特筆すべきことだったのです。

 さて、イエスに対するユダヤ人たちの怒りは、イエスが自分と神を一体化することへの反発でした。確かにイエスは幾度となくそういうことを言ってきました。本日の個所にも、「私と父は一つである」とあります(30節)。この後でも、「父から聖なるものとされて世に遣わされた」、「私は神の子である」(36節)、「父が私の内におられ、私が父の内にいる」(38節)とあります。ユダヤ人にとっては、神はその名を口にするのもはばかられる程絶対的な存在であり、その命令である律法を重んじてひたすら崇拝する畏れるべきお方でした。それなのに、イエスは神との一体感みたいなことを言い、自分を「神の子」とまで言うのは、神を冒涜する行為であって(33節)、絶対に許されることではありませんでした。ユダヤ人からすると、石で打ち殺されて当然の所業なのです。それに対してイエスは、神が信心深い人を神々と言っているではないかと、彼らの律法(詩編82:6)を利用して反論しています。

 これらの話は、キリストを神と同格にする「三位一体」やキリストの人格の「神性」の根拠になっています。「真の神であり、真の人」という教義も、聖書のこのような記述から導き出されました。福音書記者ヨハネが本当に言いたかったことは分かりませんが、きっと表現方法としては成功しなかったのでしょう。従って、私たちがヨハネから学ぶべきは、イエスという人が神をいかに身近に感じながら生きていたかということです。ユダヤ人には畏敬の神を、お父さんと呼びかけるのですから。そして、神を認識の対象というより普遍的な働きや原理のように考えるからこそ、あのような言葉が生まれるのでしょう。だから、これはイエスだけが言えることではなく、私たちにとっても同じようにそうなのだということです。神が私の中にいて、私が神の中にいると本当に思えるなら、これほど心強いことはないでしょう。

 その中でも、「永遠の命を与える、決して滅びない、だれも奪うことはできない」(28節)という言葉に注目してみましょう。イエスに倣って生きるならそれが永遠の命であり、それは神が下さって決して奪われないものです。当然生きる限り悩みや苦しみはあります。それでも神から決して引き離されていないのならば、前に進んでいけるのでしょう。このように、私たちが自分の命をどう考えるのか。考え方によりそれは永遠の命にもなるし、いつかは消える空しい命にもなります。

 先日のニュースで、医療現場の医師不足が言われていました。それ以上に患者の精神的なフォローが限界にきているということでした。死に立ち会うスタッフは、生と死について確かな考え方をもたねば、患者と家族に寄り添えないということです。私たちも、自分なりの人生観と死生観をしっかりもてるといいと思います。それが信仰をもって生きる意味でもあります。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年7月24日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書11章1~16節

 説教 「人としての弱さ」

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 ヨハネ福音書は全部で21章なので、11章がだいたい真ん中になります。全体のバランスとしても、11章はイエスの宣教活動の最後なので、まさにクライマックスということになります。それまでも「神の子」としての数々の「しるし」を見せてきましたが、最後にラザロを復活させるのだから、しるしとしては最大のものという位置づけになります。

 あらすじは、イエスがその危篤を知りながらも、出発を遅らせたため、ラザロは死んでしまい、墓に納められ、死後4日も経ってから、イエスの呼びかけにこたえて、布で巻かれたまま出てきたというものです。印象としては何やら生々しく、これが本当ならホラー映画のようです。

 読んでみて違和感や矛盾が沢山あります。まず、なぜわざわざ死ぬのを待つように二日も遅らせたのか(6節)。なぜ知らせがないのに死を知ったのか(13節)。奇跡を見せるためのおぜん立てなら、何をしてもいいのか(14節)。復活させる気満々なのに、なぜ泣くのか等々です(35節)。これらを、人としての行動と考えるなら、とても受け入れがたいことばかりです。

 このような違和感の理由について、一番納得できた説明は、著者のヨハネが神の子キリストと人間イエスを同時に描こうとしたからちくはぐになったというものです。神の力の表現としては何も問題ないのでしょう。しかし宗教教義ならそれでいいのですが、現実の人の話となると非人間的なことになるのです。その一方で、ヨハネは人間臭い一人の人としてのイエスを描いています。イエスは遺族をおもんばかり、家に入らずに村の外で待ちました(30節)。また血も涙もある人間として、姉妹たちの悲しみを見て激しく動揺しました(33節)。その涙も、ラザロを死なせた悔し涙だったかもしれません(35節)。

 ヨハネは、イエスの中で神と人が結びついていることを何とか表現しようとしました。しかし見ての通り成功しているとは言えません。その意図は分かるとしても、私たちはヨハネが本当に言いたかったことを、その表現方法の克服も含めて、もっと現代化していかねばならないのでしょう。

  さて、今回は人間としてのイエスに注目してみましょう。ラザロの危篤を知りながらすぐに行かなかったのは、神の子としては復活の奇跡を見せるためですが、人としては危険を回避したからでした(8節)。ラザロの死を前にして、イエスの動揺は姉妹たちへの同情だけでなく、すぐに行動できなかったふがいなさへの後悔の涙かもしれません。もっと勇気があれば助けられたのです。しかし時機を逸しても、ラザロを訪ねたことは意味がありました。彼は生き返るのですから。でももし何も起こらなかったとしても、イエスが危険を覚悟でやって来て、一緒に泣いたということは、姉妹たちにとって大きな慰めになったことでしょう。決して無駄にはならなかったのです。

 私たちは様々な制約の中で生きています。置かれた環境や自分の能力等から、出来ることと出来ないことがあります。理想としてこうあるべきというものがあるかもしれません。でもそこまで出来なくても、不本意であっても、自分の出来る範囲で力を尽くすなら、それでいいのではないでしょうか。あのイエスでもそうだったのですから。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年7月31日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書11章38~44節

 説教 「今を生きている命」

​ ​牧師 藤塚 聖 

 11章の結論は、イエスが「神の子」としての力を皆に示したということと(42節)、ラザロが今現在生きる者になったということです(44節)。この結論については後でふれますが、とにかくそこに向かってどんどん話が進み、そのためには色々矛盾があってもちぐはぐでも関係ないという感じです。例えば、イエスがラザロの死を待っていたり、彼が生きていてはまずいと言うのは駄目なことですが、それも含めて、マルタが遠い将来の復活について語ったり、死後4日目の遺体がにおうのも、これから起こることを際立たせる演出のように思われます。

 このように、色々と不可解なことがあったとしても、肝心なのは著者のヨハネがこのような演出で言いたかったことは何かということです。結論の一つである、神の子の奇跡の力ということでは、一般論として、死人がよみがえるのを見て、人は信仰に至るものなのか大いに疑問です。私たちならどうでしょう。世の中には不思議なことがあるものだというくらいで、それ以上ではないでしょう。ヨハネ自身もこれを見て信じるのは本当の信仰ではないと言っているように(20:29)、私にとってもどうも掴みどころがないのです。

 それに対して、もう一つの結論はとても意味があるように思います。イエスとマルタは、ラザロの死を前にして「復活」について対話しています(23節以下)。マルタは復活を「終わりの日」のこととして理解していることが分かります。これは当時の信者たちだけでなく、私たちの多くがそう考えているかもしれません。聖書にはそういう記述がいくつもあるからです(1コリ15他)。これらはユダヤ教の終末思想をそのまま引き継いでいるようです。それに対して、ヨハネは復活を遠い「終わりの日」のことではなく、今現在のことにしています。いつか分からない将来の話ではなく、今イエスに倣って生きることが復活の命だというところに、ヨハネの信仰の新しさがあると思います。確かに、命というのは今生きているこの命を抜きに考えることはできないし、はるかに遠い未来の復活に先延ばしにされても困るのです。 

 教会の歴史の中では、終わりの日の復活や永遠の命は、苦しい状況で生きる信者に勇気と希望を与えました。ローマ帝国の迫害下で殉教した人もそうだし、日本の隠れキリシタンもそうだったでしょう。しかし今をより良く生きるための方法として、そういう希望を持つのならいいのですが、悪く作用すると、今を生きることに絶望したり、今の命は捨てるということもなりかねません。そうではなくて、ヨハネは今ある命にこそ意味があると教えているのでしょう。

 同時に、ラザロの死後4日経っていると言うマルタに対して、イエスは「信じる者は死んでも生きる、生きていて死ぬことはない」と言いました(25節)。つまり過去ではなく今に目を向けよということです。こうしてみると、ラザロの復活物語というのは、将来と過去にばかり目を向け、今生きていることの大切さを見失う私たちへの警告かもしれません。イエスは、せっかく今復活の命があるのだから、ずっと先のことや済んでしまったことに縛られないで、今をしっかり生きなさいと励ましているのではないでしょうか。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年8月7日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書11章45~57節

 説教 「誰かの助けによって」

​ ​牧師 藤塚 聖 

 ラザロを復活させたことにより、イエスに対する民衆の支持はますます広がりました(45節)。しかし宗教指導者たちは、それにより自分たちの支配が不安定化するのを恐れました。そこで最高法院のトップである大祭司カヤファは、目障りなイエスを殺すことにより、国の安全は保障されると説いたのです(50節)。最高権力者のお墨付きが出たことにより、イエスの殺害は決定的になりました(53節)。

 当時のユダヤ人社会は、ローマ帝国の支配下にあっても、ある程度の自治権が与えられていました。指導者たちは、地域の混乱によりローマ軍が介入して、自分たちの自治権が剥奪されることを最も恐れたのです(48節)。そのためには、不安要素を完全につぶしておく必要がありました。

 全体の利益のために一人が犠牲になることは、古今東西どこにでもありました。「犠牲の小羊」いわゆるスケープゴートというのは、例えば日本では「人柱」や「人身御供」として存在しました。祟りや災害を恐れて、神に対して人の命が捧げられたのです。

 以前、TVのドキュメントで、イギリスのある事件が取り上げられました。ある村の池の跡地から大量の人骨が発見され、殺人事件として調査が行われたのです。その結果、昔その地域にあった風習が掘り起こされることになりました。村では自然災害を恐れ、毎年一人の命が神に捧げられたのでした。選ばれた人は自ら入水して命を絶ったのです。

 キリスト教にも、イエスが人の罪を負って死んだという「贖罪論」があります。これは律法の動物犠牲が前提としてあり、イエスが犠牲となることにより人の犯した罪が贖われたというものです。教会ではこれがキリスト教の中心であり、これなしにはキリスト教の独自性はないと考えられています。しかしこの考え方は、ユダヤ教の律法を前提にしているので、そもそもがおかしいと言えます。また犠牲を求める神とは、本当の神なのでしょうか。上述したように、歴史上犠牲となってきた多くの命を考えるとき、贖罪というのは多くの問題を孕んでいると思わざるをえません。むしろ聖書の中心はこれだけではないし、もっと多様なのです。 

 意外なことに、ヨハネ福音書には贖罪論はありません。ヨハネにおいては、イエスの死は贖いではなく「神の愛」として考えられています。神のこの世に対する愛の極みとして、イエスの死があったとされています(3:16、15:13)。イエスの側から言うなら、危険を承知の上で隣人愛を貫いた結果、死刑に至ったということでしょう。このように、私にとっては、イエスは私の罪の身代わりで死んだというより、神の愛つまり隣人愛を徹底して死んだと言う方がリアルなのです。それほど人は神に愛されているということでしょう。そしてこう考えることは、自分の犠牲により他の人が助かるのなら、それを自ら進んで引き受けるという選択肢になるのかもしれません。

 このように、神の愛とイエスの死から、人は愛なしには存在できないということを示されます。人は例外なく欠陥と過ちをもち不完全な存在です。それでもこうして今あるのは、無限に赦され、受け入れられているからです。つまり生きているということは、見えない誰かの犠牲と助けの上に成り立っているということです。それなら、私たちも自己犠牲までいかなくても、誰かの助けになりたいと思うでしょう。これら全体を神の愛というのかもしれません。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年8月14日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書12章1~11節

 説教 「キリストを指し示す

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 マルタとマリアは、弟ラザロの生還を喜んで、イエス一行を招いて宴会を催しました。一番の功労者であるイエスと弟子の他に、親族や友人もいたことでしょう。マルタはご馳走を用意して、イエスを手厚くもてなしました(2節)。妹のマリアは、イエスへの感謝を表すために、高価なナルドの香油を惜しげもなくその足に塗りました(3節)。香油は薬でもあり、死者の葬りのためにも使う貴重なものだったようです。ユダが文句を言ったように(5節)、売れば300デナリオンになるので、300日分の日当として、労働者のほぼ年収に相当する価値がありました。勿体ないと言えばそれまでですが、マリアとしてはそうでもしなければ気持ちが収まらなかったのでしょう。

 イエスがベタニア村のラザロを訪ねるということは、敵に捕まって殺される危険と隣合わせでした。すでに石打に何度もなりかけていたし、弟子たちにも強く止められました(11:8)。それでも行こうとするので、トマスは意を決して「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言ったほどだったのです。それを姉妹たちは後から知ったのかもしれません。弟ラザロを助けたい一心で前のめりだったことを詫びて、精一杯の感謝を表すには、今しかないと思ったのでしょう。イエスに何かあってからでは遅いのです。

 さてこの話の中で、すぐに気付くことはラザロの存在感のなさです。彼はイエスに助けられたのだから、誰よりも感謝を表すべきなのにそうなっていません。彼はそこにいた人々の中にいたというだけです(2節)。それは今に始まったことではなくて、イエスに呼ばれた時も、ただ墓から出てきたというだけなのです(11:44)。姉妹の活躍ぶりと比較するとあまりにも対照的なのです。これはどうしてなのか、幾つかの可能性が考えられます。一つは、ラザロはこの物語の構成上うみ出された架空の人物だというものです。だから無機質で言葉も振舞いもありません。確かに姉弟三人の名前がセットになってもいいのに、他では姉妹二人だけが伝説化しているのもその証左です(ルカ10:38以下)。 

 イエスは、「終わりの日」の復活しか信じていないマルタに、「私を信じる者は死んでも生きる、生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25)と言いました。つまり復活の命は遠い将来ではなく今の命であり、イエスに倣って生きる命は死を超えるということです。だからラザロという存在は、このメッセージをそのまま形にしたということなのでしょう。人物というよりシンボルなのです。

 別の可能性は、著者ヨハネが多くの無名の信者をラザロに代表させたというものです。マルタとマリアのように後々までも語り継がれる信者は一握りにすぎません。ヨハネは目立たない名もなき多くの信者によって、教会が支えられていることを、地味なラザロの存在で表現したのかもしれません。しかもそのラザロはただそこにいるだけで、イエスの働きを証明することになりました。彼によって、多くの人がイエスに関心を寄せ(11節)、逆に反対者は心をざわつかせることになったのです(10節)。

 私たちの殆どは、ラザロにも及ばない無名の信者として一生を終えると思います。それでも信仰者であること自体が、キリスト証言として大切なことなのだと思います。 

 (牧師 藤塚聖)

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2022年8月21日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書12章12~19節

 説教 「小さな力によって

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 ユダヤ教最大の祭りである「過越し祭」は、エルサレムで一週間行われました。イエスはその祭りの間に逮捕され裁判にかけられ、最終日には処刑されたのでした。イエスがエルサレムに来たときには、民衆により熱狂的に歓迎されましたが(12-13節)、処刑された時には、暴動も混乱も一切起こらなかったのです。つまりこの間に、イエスに対する期待はすっかり冷めてしまったということになります。

 それまでは、死んだラザロを復活させたように、人々はイエスにカリスマ的な力を感じていたのでしょう。彼らは勝手にイエスに対して政治的なメシアを期待したのでした。旧約聖書には、ダビデのような強力な王による祖国復興が沢山予言されています(イザヤ9,11章、エレミヤ23章他)。メシアは敵の軍隊を滅ぼし、強大な力により首都エルサレムを奪還して、ユダヤ人を外国支配から解放するのです。

 しかし、イエスはそういう民衆の期待を完全に裏切る姿でやってきました。小さなロバの子に乗り、風采の上がらない弟子たちを引き連れて、人々の前に現れました。イエスはゼカリア書(9:9)を知っていたかもしれませんが、イエスの死後弟子たちはこれを旧約の預言の成就として、神格化したのでした。これはまた別の意味で、イエスの意図を歪めていることになります。

 イエスの意図は、富や権力から距離をとり、小さな存在になることでした。偉くなりたい弟子たちを叱り、「偉くなりたい者は、みなに仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43)と言いました。また小さい子供を皆の前に出して、「神の国はこのような者たちのものである」(同10:14)とも言いました。たとえ話では、この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と語り、神は小さい者の中にいると明言しています。イエスは力によって人を支配するのでなく、あえて力を捨てて仕える人になれと言いました。世界を外から力で変えるのではなく内側から変わること、それがイエスの言う「神の国」なのだと思います。

 キリスト教の本質は何か、色々な考え方がありますが、私は小さくなったイエスの姿に倣うこと、つまり小さくなったイエスの生と死を通して、世界と人間について考えることだと思っています。そして小さく力のない者の視点を持ち続けることです。

 その一方で、キリスト教の中には力と富を志向する側面がたしかに存在しています。かつての欧州列強の植民地政策もそうです。教会は「侵略」を「宣教」と言い換えて、現地の宗教と文化を奪いました。また宗教改革後も、社会学者M.ウェーバーが指摘したように、プロテスタントの信仰は経済競争と結びつきました。今やそういう信仰は見直される時かもしれません。

 現に、信じられないほどの経済格差、地球規模の環境破壊を前にして、このままではだめだと皆が気付きつつあります。私たちはどのような社会を目指すべきでしょう。いまこの世界を見るときに、力による支配が何をもたらすか、人間の欲望が際限ないことを示しています。あえて小さくなり、身の丈に合った慎ましい生き方を考えたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年8月28日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書12章44~50節

 説教 「裁きと救い

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 ヨハネ福音書は他の福音書と比較すると、物語というより哲学のようで分かりづらい印象です。その原因の一つは、大量の加筆によるものだと思います。後から別の人物が、ヨハネとは全く違う思想を足しているので、全体として意味が分からなくなるのです。

 加筆した人は「教会的編集者」と言われていて、ヨハネに忠実ならまだしも、そうではなくて、ヨハネの先見性やユニークさを修正しようとしているのでたちが悪いのです。こういうことは教会の歴史に限らずに、最初あったものが、時間が経つにつれ変質するのはよくあることです。キリスト教はイエスと出会った人の衝撃から始まったのですが、歳月と共にそれが徐々に失われて、信者はイエスその人より教会の制度や教義を信じるということになりました。またイエスの弟子たちをはじめ教会は、イエスが克服したはずのユダヤ教の要素、とくに「終わりの日の裁き」を無批判に受け継いだのです。

 例えば、パウロは律法による自力救済をあきらめて、信仰義認に行きつきました。つまり自分の行いではなく、神の哀れみに救いを見出しました。それなのに、人の行いに対する神の裁きという、ユダヤ教の黙示思想を克服できなかったのです(ローマ2:6、2コリント5:10)。これはパウロに限ったことではなく、新約にたまに現れます(マタイ25:46他)。

 さて上記のように、教会的編集者は、ヨハネの革新性を修正しているから問題なのです。本日の個所の後半にも加筆があります。前半では、イエスは神の真理を示していて、それに倣って生きるなら光の中にあると言います。またそれを守らなくても裁かれないとあります(47節)。しかし後半では、イエスの命令は神の命令であり、それを守る者が救われ、そうでない者は終わりの日の審判の時に裁かれるというのです(48節)。これはヨハネの考えではありません。

 そもそもヨハネは、いつ来るか分からない「終わりの日」という考え方を捨てています。そうではなく今生きている命こそが大事だと考えます。それが良く表れているのが、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16-17)という言葉です。この「滅び」と「永遠の命」は、最後の審判の結果そうなるのではなく、今現在の人の二通りの生き方を言っています。これは「現在的終末論」と言われています。今光の中を生きる人は健全であって、それが永遠の命ということであり、闇の中にいる人は結果として自らを駄目にして裁いているということです(3:19)。そうならないために、光であるイエスに倣って生きよというのが、この言葉の趣旨です。したがって、終わりの日の神の裁きというのは、ヨハネからすると不要なのです。今問題になっている統一教会ではありませんで、人間の罪や神の裁きを強調して、人を脅して不安をあおるような思想はまず疑ってかかるべきでしょう。

 人は闇の中にいて苦しいなら道を探すでしょうし、光の中に出られたなら良かったと思うでしょう。それが救いということです。神はそこに導いてくれるでしょう。このように、裁きではなく愛の神を信頼して、自分を全肯定して生きられることが重要なのです。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年9月4日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書13章1~12節

 説教 「イエスの遺言

​ ​牧師 藤塚 聖 

  

 イエスの逮捕の前に何があったかは、どの福音書でも大体共通したことが言われています。自分の最後を察して、イエスが弟子たちと食事をしたこと、ユダの裏切りを指摘したこと、ペテロの裏切りを予告したこと、エルサレム郊外の園(ゲッセマネ)に行き、そこで逮捕されたことなどです。弟子たちとの最後の食事で、イエスがパンと杯を与えた話は、3つの福音書に共通しています。これは「聖餐式」の原型として、教会では非常に重要視されている話です。しかしヨハネはそのことを知っていながら、それを全部省いて、代わりに弟子の足を洗った話を載せています。これはなぜなのでしょうか。

 はっきりしているのは、ヨハネにとってパンと杯の話は必要ないということです。この時すでに教会で行われる聖餐式は、儀式化してイエスの真意から離れていたと思われます。パウロも、コリント教会で聖餐(愛餐)が成り立たなくなっていることを怒っているように(1コリ11:27以下)、かなり早い段階で空洞化していたのでしょう。パンと杯の意味というのは、イエスが自分の命、つまり仕える生き方を手渡したことだと思います。それが教会では希薄になって変質したので、あえて分かりやすく洗足の話に替えたのでしょう。

 そうなると、聖餐式の意味というのは根本的に考え直されることになります。ヨハネにとって聖餐が必要なかったのだから、少なくても絶対的なものではないことになります。また逆に、それなら私たちの教会はなぜ「洗足式」をしないのかということにもなります。

 この話の筋としては、弟子との最後の食事の席で、イエスは手ぬぐいを腰に巻き、水桶をもって、彼らの足を一人一人洗い始めました(4節以下)。帰宅後に足を洗うのは日常習慣であり、屋敷では主人の足を下僕が洗いました。だから弟子たちはイエスの行いに驚いて言葉を失いました。ペテロが「私の足など、決して洗わないでください」(8節)と言ったように、もともと弟子たちは野心家で権力志向が強かったので、恩師に下僕のようなことはされたくないし人にもしたくもないというのが本心だったのでしょう。それに対してイエスは、「主」であり「師」である自分が謙虚であるのだから、あなたたちはもっとそうでなければいけないと教えたのです(14節)。

 カトリック教会では、ローマ教皇が復活祭前の木曜日にローマ市内の大聖堂で12人の司祭の足を洗う伝統があります。現在のフランシスコ教皇は革新的な人なので、就任した年にローマの少年院で少年少女の足を洗い、それが世界的なニュースになりました。幾つもの要素で長年の伝統を覆したからです。その後も刑務所で国籍宗教性別を問わず受刑者の洗足をしました。カトリック教会の懐の深さを思わされます。

 私たちの問題として、自分の恩師にそうしてもらえるか、自分も人に出来るかと考えると、イエスの弟子たちと同様に、されたくないししたくないと思うかもしれません。上下関係や価値観がそうさせない壁としてあります。それは関係がフラットでないからです。そう簡単ではないですが、フラットになって、相手を尊重して大切に思うなら可能かもしれません。偉ぶったり卑屈になったりしないで、互いに仕え合う関係を作っていきなさいというのが、イエスの遺言ではないでしょうか。 

 (牧師 藤塚聖)

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2022年9月11日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書13章21~30節

 説教 「寛容であること

​ ​牧師 藤塚 聖 

  

 弟子たちの中に、イエスを売り渡す内通者がいたということは、ショッキングなことです。ユダが最初からそうだったのか、何かのきっかけでそうなったのかは想像するしかありませんが、研究者や作家が興味をそそられてテーマにするのは無理もないことです。

 聖書ではヨハネ福音書も含めて、ユダは悪魔の化身のように扱われています(27節)。彼の自殺ついては、マタイと使徒言行録でそれぞれ首つりと転落死として描かれていて(マタ27:5、言行録1:18)、そこには同情のかけらもありません。一方で、ユダに好意的なものとしては2世紀に書かれた「ユダの福音書」という外典があります。発見から数十年を経て、やっとその内容を知るところとなりました。それによると、ユダはイエスの良き理解者であり、その使命を果たす手助けをした人になっています。史実かどうかは別として、歴史の中でユダに対する評価は一様ではないということが分かります。

 確かにユダがイエスの逮捕に協力した責任は免れません。しかし弟子たちもイエスを助けようともしないで見殺しにしたのだから、大きな顔はできません。それなのに責めを負うべき両者が、一方は地獄で焼かれる者になり、他方はイエスの後継者として「聖人」になるというのは理不尽なことです。おそらく教会が12弟子たちを権威づけるために、彼らの負の側面を全てユダに負わせたということなのでしょう。

 ローマへの武力蜂起も含めて、ユダは政治的なメシアへの期待を、他の弟子より強く持っていたと思われます。イエスに対する思い入れが強かった分だけ、失望から行動が過激化して、最後は立ち直ることが出来ないまま自ら命を絶ったのでしょう。イエスを殺そうとする者にとっては、不満を持つユダは大いに利用価値があったと思われます。

 複雑な心情のユダの背中を押したのは、「しようとしていることをいますぐしなさい」(27節)というイエスの言葉でした。イエスはユダが自分を売り渡すのを知りながら、計画していることを実行しなさいと言ったのでした。つまりユダのやろうとすることを止めなかったのです。

 対立と分断が深まる世界的な流れの中で、18世紀フランスの哲学者ボルテールの「寛容論」が再び読み直されています。その中には「あなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命を懸けて守る」という言葉があります。つまり絶対賛成できない考えでも、それを持つ権利は認めるということです。認めるべきものが価値あるか否かではなく、権利の擁護が自由と民主的社会を守ることになると考えられました。

 それに従うなら、イエスはユダの権利を認めたのでした。彼を断罪することなくパンを手渡し、その足も洗ったことでしょう。これらを考えるとイエスは徹底的に甘いと言えます。本当の愛は甘さだけでなく厳しさも必要だと言われますが、イエスの愛は人を駄目にするほどです。しかし人はその本質として、自堕落になるほど徹底的に無条件で愛されることが不可欠かもしれません。イエスが示したように、神の愛とはそういうものなのでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年9月18日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書13章31~38節

 説教 「イエスの後に続く

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 私たちの教会の「信仰告白」は、「我らが主と崇むる神の独子イエスキリストは真の神であり真の人」という文言で始まります。この「真の神であり真の人」をどう理解すべきでしょうか。どちらかと言えば、神のイメージの方が強いのではないでしょうか。伝統的にも、キリスト教はイエスをキリストと信じる宗教と定義されています。そうなると、イエスはひたすら崇拝される対象ということになります。それに対して、ある先生はキリスト教を「イエスにおいて人間の本質と可能性を知り、イエスの生と死に学ぶ宗教」と再定義しました。私は「イエスをキリストと信じる」だけでは何も言ったことにならないと思っていたので、この定義はよく分かりました。こう考えることによって、イエスは私たちにとって初めて近い存在になると思います。

 そこで、今回は人間イエスに注目してみます。この場合、イエスと弟子たちとでは、その人間力や神への洞察力で雲泥の差があることは誰が見ても明らかです。その差は、少しは縮めることが出来るものなのでしょうか。この問いは、イエスが崇拝の対象なら愚問ですが、人として見るなら意味があります。

 イエスはペテロに対して「今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(36節)と言いました。これには幾つかの意味があります。直接的には、イエスは死んで父である神のもとへ帰るけれども、弟子たちはまだ帰れないということ。もう一つは、命を捨てる気でいるペテロの裏切りを見越して、今は無理でもいずれは殉教するだろうということ。実際60年頃に、ペテロはローマで殉教することになりました。そして三番目は、今はイエスの境地に全然達してしないけれども、いずれ弟子たちもそこに至るだろうということです。これは重要な点です。

 イエスは「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)と言いました。イエスは人として進むべき道を知っていて、それが神の真理であり、そうすることが命に値することを分かっていたのでしょう。そしてその言葉の通りに生きたと言えます。それに対して、弟子たちの駄目さ加減は枚

挙にいとまがありません。何度も教えられていながら、イエスを全く理解できずに、誰が一番偉いか言い争い、イエスを見捨てて逃亡して、その最期も見届けず、遺体を引き取ることもしませんでした。イエスが求めたことは、一緒に処刑されて死ぬことではなく、仲間を大切にして、互いに愛し合う関係を作っていくことでした(34節)。ペテロは最後までそれが分からず、復活のイエスに会っても分からず、三度も「わたしの羊を養いなさい」と念を押されたのでした(21:15,16,17)。その後のペテロは、ユダヤ主義が強まったエルサレム教会から離れ、異邦人への差別意識も徐々に克服していきました。そして最後は殉教の死を遂げたのです。前より少しはイエスに近づけたかもしれません。

 私たちはどうでしょうか。互いに足を洗い合うことさえ困難かもしれません。「僕は主人にまさらず」とあるように(13:16)、倣うべきイエスに遠く及ばないのは当たり前のことです。しかし目指すべき目標がはっきりしているのは重要なことです。今は無理でも後でついて来ることになるというイエスの言葉に励まされて、少しでも近づいていきたいと思います。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年9月25日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書14章1~14節

 説教 「私たちの帰るところ

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 キリスト教史学者ペリカンが書いた「キリスト教の伝統」という大きな本があります。その中の「真の宗教の本質」という項目で、どの宗教にも共通するものは「神の存在」と「霊魂の不滅」だとありました。神や霊魂という言葉を使わないなら、人は誰でも人知を超えたものと、生と死について知りたいということです。だから人は何かに祈りたくなるし、信心がないと生と死について不安をもつのでしょう。

 イエスがいなくなると分かった時の、弟子たちの不安もそれと関係しています。自分たちだけがとり残されて、先が見えない状態です。それに対して、イエスは「父の家には住む所がたくさんある」ことを知っていて、もしそうでないなら既に伝えているはずだから、場所がないことなどありえないと言いました(2節)。神の住まいには、スペースが無限にあるということです。本来神の住まいは、人の居場所とは違うのだけれども、そこに居場所があるということは、決して一時的なものではなく永遠にいていいということです。

 「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)という有名な言葉もこの関連で読むべきでしょう。こう語った後で、イエスは十字架刑により死んで父の元へ帰りました。つまりイエスは死んでこの世を離れることで、父の家に至る道となったというわけです。ヨハネ福音書には「贖罪論」はないと言われているように、イエスの死はまるで神の家への凱旋のようです。従ってそれは悲劇でも不条理でもないということです。そして私たちも神の真理を知って、自分の力でその道をたどっていけるということなのでしょう。そしてその道が通じている神の家には、無限の住まいがあるのだから、何の心配もないということなのです。

 現実的な意味でも、最終的な落ち着き場所があるというのは、人が生きる上で非常に重要なことです。たとえば学校のいじめ問題も、学校が安全な場所になっていないということです。また不登校の子供にとって、家庭がシェルターでないなら本当に生きていけません。大人になってからでも、会社にも家庭にも居場所がないということがあります。高齢者の孤独というものも、住んでいる家で沢山の家族に囲まれながらも、そこに安らぎがないということです。

 ニュースでは、中学生や高校生の家出がよく報道されます。何日も家には帰らず、夜の街を徘徊して犯罪に巻き込まれるケースが後を絶ちません。彼らにとっては、家庭は居られない場所になっているということです。人格形成にも大いに影響します。親の不仲や虐待、複雑な家庭環境などを考えるなら、本当に安らげる場所があるというのは、当たり前のことではないのです。

 私たちには、心の問題として最終的に帰ることのできる場所というものが必要だと思います。それがあるからやっていけるという、精神的な支えというか原点です。それがある人なら、厳しい現実社会の中においても、きっと自分の居場所を見つけ出すことが出来るでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年10月2日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書14章25~31節

 説教 「同伴者のキリスト

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 ヨハネ福音書には別人による大量の加筆があることは、既に何度もお話ししました。万が一でも加筆前の写本が発見されるなら非常に興味深いです。加筆部分に意味がないわけではありませんが、注意が必要です。14章も半分くらいが加筆です。そこには何度もキリストの「再臨」が示唆されています(3節、18節、28節)。しかしヨハネ本人は、「再臨」を含めて「終末論」には全く関心がありません。ヨハネにとっては、将来のことより今をどう生きるかが重要なのです。

 不安がる弟子たちに、イエスは神の家には確実に居場所があることを教えました(2節)。自分は先にそこにいるというわけです。さらにもう一つ弟子たちに教えたのは、イエスに代わって別の「弁護者」が神から遣わされるから安心だということです(16節)。弁護者は裁判用語に限られるようなので、ここでは「助けを求めて呼ばれた者」、「助け手」くらいがいいかもしれません。その助け手が何をするかというと、イエスが教えたことや話したことを全て思い出させてくれるというのです(26節)。その助け手は「真理の霊」(17節)とも言われるので、イエスの教えは「真理」そのものなのでしょう。そしてそれに沿って生きるとき、真の「平和」が与えられるのです(27節)。

 これらは非常にヨハネらしいと思うのですが、それほど特別なことは言われていません。霊が与えられるとは、奇跡的なことになり、神がかりになるようなイメージですが、全然そうではないのです。弟子たちはきっと期待外れだったのではないでしょうか。彼らはもともと野心家だったので、イエスのような奇跡を起こしたり、海の上を歩いたり、カリスマ的な力を付与されると考えたかもしれません。それなのに、示されたのは実にささいなことでした。生前のイエスの言葉や教えを、ただ思い出すことだったのです。

 心を病む人が言っていたことですが、些細なことが助けになるということでした。時々話を聞いてくれたり、外出に付き合ってくれたり、ちょっとしたことで助かる、でもそれがあるかないかで大違いだと。イエスの言う助け手というのも、何かが激変するのではなく、イエスの存在が思い起こされて、それを考えながら歩んでいくということです。そこに生きる力や平安がもたらされるのでしょう。

 TVの特殊番組でシールズ(安保関連法案に反対する学生の会)の奥田愛基さんのことを知りました。中学生の時に壮絶ないじめを受けたそうです。自殺まで考えた時「死なないで逃げて」という新聞記事を読んで、沖縄の離島に逃げ、民宿の主人の世話になりながら、毎日海を見て過ごしました。そうするうちに「世界は広い、人は人、自分は自分」と思うようになったと言います。番組を観ながら、人は必ず自らの足で歩きだすと思いました。ただそこにはほんの少しの助けが要ります。民宿の主人が黙って見守ったこと。また「逃げろ」という新聞記事もそうでしょう。

 「真理の霊」の働きとはそういうものかもしれません。あまりにもささいなことなので特別感はありません。しかし無理解な弟子たちには、イエスの言葉を思い出すこと以上に重要なことはないのでしょう。そしてそれは私たちも同じだと思います。イエスの生と死を思いながら生きることには、大きな意味があるからです。 

 (牧師 藤塚聖)

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2022年10月9日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書17章6~19節

 説教 「依存と信仰

​ ​牧師 藤塚 聖 

 ヨハネ福音書の17章には、イエスが弟子たちのために祈った内容が記されています。その前の15章と16章は、両者の長い対話があり、それを踏まえたうえで、あらためてイエスが神に向き合うという順序になっています。

 イエスが弟子に求めたことは、自分が父のもとへ帰ってしまうので、いなくなった後は自分たちの力でやっていけということです(15:15-16)。いつまでもイエスに頼れるわけではないし、そのためにこそ「真理の霊」が真理を悟らせてくれるというのです(16:13)。

 さて、本日はイエスと弟子の関係、それに関連して神と私たちの関係について考えてみます。神への信仰とは依存関係になることなのかということです。一例として「共依存」があります。共依存とは、過剰に頼る人がいて、頼られる人もその相手を支配する関係のことです。何となく依存する側が悪いと思いがちですが、実は支える側の問題も大きいようです。それは、頼る人が自分の力で問題解決するのを妨げるからです。その場合、両者の関係は歪んだ負のスパイラルに陥ってしまいます。

 それは人間関係の様々に場面にみられます。親子関係や夫婦関係にもあり、それは愛情や思いやりと勘違いされます。師弟関係においても、師が弟子をいつまでも支配して、その成長と自立を妨げることも珍しくありません。弟子が成長して離れるのは師にとって寂しいですが、それを喜ぶのが本当だと思います。

 イエスは神に「栄光」を求めており(5節)、それは弟子たちからもたらされるとあります(10節)。その内容は、弟子たちがイエスを通して神が分かることです(8節)。イエスは弟子を囲い込むのではなく、弟子がイエスを超えて神に至るのだから、師からの自立と言ってもいいでしょう。イエスはそれが自分の栄光だと言っています。

 さらに、「私がお願いすることは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(15節)とあります。世から引き上げるとは、この世の現実を回避することなので、言われていることは現実逃避ではなく、悪の中にあっても乗り越えられるようにという祈りなのでしょう。過保護の親は子のぶつかる壁を最初から回避させ、安全なレールを敷きます。子供のためを思い、辛い経験をさせないのです。しかし本当の親なら、わが子を信じて送り出し、困難があったとしても遠くから見守るでしょう。

 私たちの信仰とは神への依存なのでしょうか。私たちの信じる神は祈りをそのまま叶えてくれる「機械仕掛けの神」なのでしょうか。私がヨハネ福音書から感じるのは、人は神の真理を知れば、後は自分で歩いて行けるから大丈夫だというメッセージです。そしてそれは決して特別なことではないと思います。ボンヘッファーという若き神学者は、次のような印象的な言葉を残しました。「神という作業仮設なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、我々が絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、我々は神なしに生きる」。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年10月16日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書15章1~10節

 説教 「隣人愛について

​ ​牧師 藤塚 聖 

 新約聖書には、ヨハネ福音書の他にヨハネの手紙があります。著者は別々の人ですが、福音書に加筆した人(教会的編集者)と第一と第二の手紙の著者は近い関係にあるようです。手紙の目的は、教会内の危険思想への注意喚起です。危険視されたのは「仮現論」というもので、イエスは体を伴う人間ではなく神の子の仮の姿だとする考え方です(第二7)。しかしこれは批判する側の一方的な見方であり、批判される人たちが本当は何を言っていたのかは区別する必要があります。このような状況を見ると、イエスを神の子キリストとする信仰には、始めから幅があったことが分かります。そういう中で教会ではドグマが出来上がりつつあり、それに反対する者たちは教会から締め出されていたようです(第二10)。

 「イエスは神の子キリストだ」とどのように言い表すのかは、私たちにとっても難しい問題です。人であり神であるとはそもそもが矛盾します。神が死ぬことはあり得ないので、苦肉の策として、人間イエスの肉体は死んだけれども、神の子としての本質は神の元へ帰ったとしか言えません。それが仮現論と言われたのかと思います。しかしある意味でその方が信仰について真面目に考えているようにも思えます。しかし彼らはキリストを信じない者として、教会から排斥されたのでした。それに対して、排斥された側の信者が相互理解のために第三の手紙を書いて、寛容と融和を説きました(第三11)。

 さて、ぶどうの木とその枝の例えは有名です。キリストという木につながることで、豊かに実を結ぼうと呼びかけられています。その実とは、キリストの愛に留まって(11節)、互いに愛し合うということです(12節、17節)。それならば、どのようなキリストにつながるかが重要です。幸いなことに、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)とあるので、愛のために命を捨てたキリストが考えられているのでしょう。そのキリストにつながるなら、少しは近づけるかもしれません。逆に真面目に信仰を考えた仲間を異端視して、教会から追い出した人たちは、ドグマ的なキリストにつながっていたのでしょうか。現代においても、隣人愛に基いて聖餐を開いた牧師を、規則を盾に免職にした人たちは、どのようなキリストにつながっているのでしょうか。

 隣人愛が分かったとしても、友のために自分の命を捨てることは、普通ではありません。私も若い時はそれを重く感じたものでした。しかし歳を重ねた今では、それは特別なことではなく、時と場合によってはあることだと思います。川でおぼれた子供を助けようとして命を落とした人、危険を覚悟で自分の臓器を我が子に提供した人など。農村伝道神学校を創設したストーン宣教師は、洞爺丸遭難事故で若者に救命胴衣を手渡しました。神学校内にある浮輪寮はそこから命名されました。

 相手を大切に思う気持ちの先に、「これ以上ない大きな愛」があるのでしょう。相手のために自分の時間や労力を捧げることも、本質的には変わらないと思います。キリストの愛につながって、そのように生きられるならとても幸いなことです。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年10月30日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書15章11~17節

 説教 「選ばれた者たち

​ ​牧師 藤塚 聖 

 ヨハネ福音書の著者は、イエスの弟子たちに非常に批判的です。それは、弟子たちがイエスを全く理解していなかったからです(13:16他)。だからヨハネは、イエスにあって彼らに絶対的に欠けていた仕える姿勢を強調しました(13:14)。しかし本日の話では、加筆者がむしろ弟子たちの名誉回復に努めています。弟子たちがイエスの「僕」ではなく「友」であるとは(15節)、ある意味で彼らはイエスと対等であり、その権威をそのまま受け継ぐ者ということになります。「わたしがあなたがたを選んだ」(16節)ということも、権威付けになったことでしょう。このように、ここでも加筆者はヨハネの考え方を覆しているのです。

 イエスに選ばれた弟子たちが、師とは違う方向に進んだことは残念なことです。しかし結果は良くなかったけれど、イエス自身が選んだということは重要な点です。本日はそれについて考えてみましょう。

 古河市には私たちの教会の他に、他教派の4つの教会があります。隣の小山市にはこの倍くらいあるでしょうか。前任地の神戸の教会では、半径1キロ以内に主な教派の教会がほぼ揃っていました。それぞれに信者がいて、そこを所属教会としているわけです。特に何のこだわりもなく教会を選んでいる人は、その教会の雰囲気が決め手だったのでしょうか。私たち自身のことを考えると、自分で選んだというより、親がその教派だったとか、近くにあったとか、たまたまではないでしょうか。

 さらにもっと広げて考えてみると、この世界には沢山の宗教があります。それなのになぜキリスト教信者なのか。これも偶然と言えるかもしれません。必死に救済の道を求めて、そこに辿り着いたという人は少ないはずです。そう考えるなら、「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ」(16節)というイエスの言葉は、本当にそうだと思えるのです。

 「神の選び」は神学的テーマの一つです。その本質は神の「絶対的な恵み」であり、人は只感謝して受け取るだけです。それをクローズアップしたのがカルヴァンの「予定説」であり、人の事情と関係なしに、最初から神が救済を決めていたというものです。しかし徐々にそれが独り歩きして、救済されない者も決まっていると考えられました。それが「二重予定説」というものです。これは人の関心が中心になっていて、元の趣旨を完全に歪めてしまいました。「選び」はあくまでも神が主体なのであって、それは神を信頼することでしかありません。

 その点では、人はなかなか切り替えられないので、選びを自分の特権や保険のように勘違いします。そうしないと安心できないのでしょう。一例として、M.ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で指摘しているように、人は勤勉に働いていることを自分の選びのしるしと見なすというのも、この期に及んで自力救済から抜けられない人間の自我を思わされます。

神の選びなのだから、考え方の中心を人から神に転換すべきなのです。私たちは自分を見るのでなく、選んで下さっている神に信頼しましょう。そしてその感謝の思いが、互いに愛し合う力に変わっていくのでしょう(12節)。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年11月6日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書16章5~15節

 説教 「切れてつながる

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 今月の23日と24日に、第72回大会がオンラインで行われます。第1回大会は1951年10月に柏木教会で行われました。その時は46教会と3伝道所が参加しており、教団を離脱して再結集する熱気と情熱はさぞかし凄かったろうと想像します。それから70年以上が経ち、今では教会と社会の状況は大きく変わっていると思います。

 ヨハネ福音書が書かれた時も、イエスの活動からすでに60年くらい経っていたので、直接知る者はもういない状況でした。イエスと出会った衝撃や熱気は過去のこととなり、人はそれを間接的に言い伝えや伝承で知るしかなかったのです。そういう時代だから、ヨハネは第二世代のための新しい信仰の在り方を考えたのだと思います。イエスと直接的につながるならば、その内容が大きな意味を持ったことでしょう。しかしそれはある意味でイエスの思い出にすがる信仰です。そういうのは時間と共に形骸化してしまいます。その点で、復活のイエスが自分にすがりつこうとしたマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」(20:17)と言った話は非常に象徴的です。

 ヨハネはイエスの伝承が教義に固定化しつつある中で、自分にとっての意味を引き出そうとしました。その結果として、ヨハネにとってイエスは贖罪者ではなく真理をもたらす者となり、その死も悲劇ではなく神への帰還となり、イエスの再臨も終末も必要なくなりました。ヨハネはイエスが去った後は、聖霊が助けてくれるといいます。それは各自がイエスの伝承から自分にとっての真理を見出して、それを羅針盤として生きるということなのでしょう。

 それが16章全体のテーマです。要点をピックアップするなら、イエスが父の元へ帰ってしまうと(5節)、弟子たちは不安の中で取り残されてしまいます(6節)。それを補うために、代わりに弁護者が来て(7節)、真理を明らかにするので(8節)、弟子たちはそれを悟って、自力で生きていく力を与えられます(13節)。それが彼らの成長と自立のために必要なことだというのです。つまりイエスとの新しい関係に入るためには、まずそのイエスと離れることが不可欠になるのです。

 イエスが去った後の時代を生きているということでは、ヨハネと私たちは全く同じです。今ここにイエスがいてくれるなら自分で考えないし、自ら真理を求めることもしないでしょう。いないからこそ、私たちはイエスを巡る多くの教えの中から、また教義の中から、自分にとって意味あるもの、自分を本当に生かすもの、つまり真理を選び取らねばなりません。もし見つかるなら、それがイエスと主体的につながるということです。これが聖霊の助けといえるでしょう。

 最近つくづく思うことは、キリスト教は実に様々な顔をもっているということです。低い道を歩むキリストからは隣人愛や社会奉仕が導かれるし、権威的なキリストからは異端裁判、唯一絶対主義などが導きだされます。とても同じキリスト教とは思えません。だから、その教えの中で何を真理と見るのか、どのようなイエスとつながるのかが、私たちの生き方を方向付けることになります。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年11月13日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書16章25~33節

 説教 「この世に勝つとは

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 先週の説教題を、教会ホームページでは「切れてつながる」に訂正しました。要約をまとめる中で、あいまいな点が明確になったからです。それは弟子たちがイエス不在になって(切れて)、はじめて信仰について主体的になった(つながる)ということです。頼る者がそこにいる時は、どうしても依存してしまい自立できません。それを自分に重ねるなら、私たちの信仰はきっと教え込まれたものでしょう。本当に納得して受容しているかと言えば疑問です。だからそれらから一度切れて、その中から本当にそうだと思えるものを自分でつかみ取らねばなりません。そうすることで、私たちは主体的に神の真理につながるのでしょう。

 さて、このように自立をうながす「ヨハネ福音書」について、私たちの印象はどうでしょうか。物語の要素が少ないので、とっつきにくさはあります。また同じことの繰り返しが多くて展開がありません。ある研究者が「金太郎あめ」と表現するように、どこを切っても最終的には同じことが言われています。それが神とイエスの一体性です(1:18他)

 本日の個所でも、そのことが繰り返されていて(27,28,30,32節)、父と一体であるイエスが「わたしはすでに世に勝っている」(33節)というのです。「今、世を去って、父のもとへ行く」(28節)とあるので、苦難多きこの世を去って父のもとへ帰ることが勝利だと考えることもできます。しかしながらもしそうであるなら、今は苦しくても忍耐して死後に希望を託すことになってしまいます。

 がん患者や家族に寄り添う活動として、「がん哲学外来カフェ」が全国180か所で展開されています。それを提唱された樋野興夫先生は、「問題は解決しなくても解消はできる」と言っています。つまり問題を抱える本人がそれをどう考えるかということです。苦難についても、考え方次第でそれが苦難でなくということでしょう。その前提として、私たちが神の愛の内にあるという信仰が重要になってきます。「父ご自身が、あなた方を愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」(27節)とは、イエスが神の愛を体現しており、その通りに生き抜いたということです。それが私たちの可能性でもあり希望でもあるのです。

 ある障碍者支援法人の「機関誌」に西村隆氏の講演が掲載されました。甲東教会の信徒である西村氏は、37才の時に難病を発症して、徐々に体の機能を失いました。信仰にすがったけれど恵みも喜びもなかったとあります。その中である時不思議にも、信仰の新しい意味、確かな平安にたどりつきました。それは、何がどうあっても只命が与えられていることが感謝だというものです。そう思えるなら苦難はもう苦難ではありません。

 これは凄い境地だと思います。果たして私もそう思えるのか自信はありませんが、自分が生きているということは、存在の全肯定であることは分かります。突き詰めると、神の愛を信じるとはそういうことであり、生きていること自体が神の祝福だと思える人が、この世に勝利したといえるのでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年11月20日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書17章20~26節

 説教 「一つになるために

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 今月はアメリカで中間選挙が行われ、下院は共和党が僅差で過半数を獲得しました。しかしトランプ前大統領の支援した候補者が激戦州で多くが落選したことにより、その影響力に陰りが見えてきたと言われています。トランプ氏を熱狂的に支持する人は依然として大勢いますが、問題は国内外で対立と分断が修復不可能なほど大きくなったことにあります。新聞の解説によると、彼はパンドラの箱を開けたとありました。つまり自分さえ良ければいいという人間のエゴを、公然と解き放ってしまったのです。今まで世界はそれを理性や分別により何とか抑えてきたのですが、そのタガが外れてしまいました。他者(他国)のことはどうでもいい、自分(自国)さえ良ければいいというのなら、この先の世界はどうなっていくのでしょう。今私たちは分岐点にあると思います。人はどのようにして共生できるのでしょうか。

 著者のヨハネが属する教会グループは、パウロ系教会よりセクト的傾向が強くて内向きだったと思われます。それだけに内部の結束が重んじられて、こじれた時には対立や分裂の危険性と隣り合わせでした。だからそれを反映して、仲間内に「留まること」、仲間同士で「互いに愛し合うこと」、「一つになること」が繰り返し強調されているのだと思います。

 17章では、上記三つの中でも特に「一つになること」が言われています(11節、21-23節)。イエスが居なくなるので、弟子たちがその働きを継いで、イエスのように真理の道を歩むことを目指しているのですが、その時に必要なのが、みなが一つになることだというのです。しかしそのためにどうすればいいかは、はっきりとは言われていません。

 初めに触れた新聞の解説には続きがあり、大人(たいじん)と小人(しょうじん)の対比が言われています。大人とは社会的な責任を負い、他人を思いやる余裕のある人で、小人とは自分のことだけで完結している人です。大人であるかどうかは経済的余裕で決まりません。巨万の富があるのに他人にも社会にも関心ない小人もいるからです。しかし小人でも内なる良心が呼び覚まされるとき、だれもが大人になる努力をするというのです。だから社会の再生は、小人が大人になることだとありました。

 イエスの祈りで、一つになるとは皆が同じになることではないと思います。人はそれぞれ生活の仕方も考え方も様々です。それでも他者への想像力をもつ大人になるなら、一見バラバラなようでも広い目で見ると一つになっていると言えるかもしれません。

21節以下では、弟子はキリストの内にいて、キリストは弟子の内にいる、神がキリストの内にいて、神の愛が弟子の中にある等々、錯綜していて頭の中がこんがらがります。簡単にまとめるなら、弟子の中にキリストと神が宿るということです。これは内なる良心が呼び覚まされるということであり、それによって人は大人になる努力を始めるのでしょう。エゴに翻弄される私たちでも、時として良心がうずき、共感したり心痛めたりしながら、一つになっていくのです。

 11月15日に世界の人口が80億人を突破しました。ここ50年ほどで倍増したことになります。しかし飢餓に苦しむ人が8億人、栄養不足が20億人、トイレのない人が5億人います。世界は本当に一つになれるのか、皆が安心して暮らせる日が訪れるのか、この居心地の悪さを忘れないで、いつも心の片隅に持っていたいと思います。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年11月27日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書18章33~40節

 説教 「イエスを裁いた人

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 ポンテオ・ピラトという人の名前は、教会の信者ならだれもが知っています。「使徒信条」にその名が記されているので、教会が存在する限り忘れられることはありません。イエスの処刑の本当の責任者は、大祭司などのユダヤ人権力者たちなのですが、不運なことに職務上ピラトにその役が回って来たのでした。因みに、パウロをローマの裁判に送り出した総督はフェストゥスという人ですが(言行録25:1)、信者でも知っている人は少ないでしょう。そういう点でピラトは気の毒とも言えます。2011年に福島第一原発事故が起こった時、その対応に追われたのは民主党政権でした。対応のまずさで世間から袋叩きになった一方で、それまで原発政策を推進した自民党がその責任を免れたのは皮肉なことでした。

 さて、巡り合わせとはいえ、イエスの処刑を許可したピラトはどういう人物だったのでしょう。彼はもともと底辺の身分だったようです。解放奴隷の出身とも言われ、当時のティベリウス帝を後ろ盾にして、役人のトップまで上り詰めました。統治の難しいユダヤ地区を10年間も治めたので、飴と鞭を使い分ける策士だったのでしょう。次のカリギュラ帝に解任されてからは凋落して、最後は自死したと言われています。

 ヨハネ福音書によると、ピラトはイエスの罪状が見つからないので、対応に相当苦慮しています。それは正義感というより、法律から外れて自分のキャリアに傷がつくのを恐れたのでしょう。本来なら無罪放免ですが、ユダヤ人たちの圧力も抑えられません。イエスはその動揺を見抜いて、彼の良心に訴えました。「わたしの国は、この世には属していない」(36節)、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(37)。つまりイエスはピラトがこの世の縛りから一度離れて、一人の人間として判断するならどうなのか、自らの良心の声に聴くことを勧めています。

 しかしピラトは「真理とは何か」と吐き捨てました(38節)。裏切りや騙し合いの修羅場を潜り抜けて来たピラトにとって、「真理」など何の意味もなかったのでしょう。それでも多少は心が痛んだのか、最後の手段として、ユダヤ人たちにイエスの「恩赦」を提案しました(39節)。しかしユダヤ人たちはピラトの弱みを知っていて、皇帝の名前を持ち出して彼の意図をくじきました。(19:12)。こうしてピラトは、最後は真理よりも自己保身を優先させたのでした。

 イエスの不思議な言葉(36節以下)は、ピラトの良心への呼びかけなのでしょう。人生において本当は何が重要なのか、高い地位や権力なのか、人としての真理なのか。もしもこの時の違和感を、後になってから踏み込んで考えたなら、彼のその後の人生はもう少し違ったものになったかもしれません。

 私たちはピラトのような権力欲や特別な地位とは無縁なことでしょう。しかし社会人として様々なしがらみや制約にしばられて、良心の声に耳を塞ぐことも少なくありません。人は理想通りには生きられないのです。それでもそこで開き直るのか、そうではなく「真理」に向かって一足でも歩を進めるのか、その違いは大きいと思います。 

 (牧師 藤塚聖)

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2022年12月4日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書19章28~37節

 説教 「イエスと兵士たち

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 イエスを処刑場まで連行して、十字架にくぎ付けにしたのはローマの兵士でした。処刑のような汚れ仕事は嫌がられたので、このような役目は下級兵士の仕事でした。彼らはローマからの派遣ではなく、現地で雇われた「傭兵」と思われます。このように、兵士と言っても使命感を持った者ばかりでなく、金のために仕方なくやっていた者も多いのです。いつの時代も、兵士は複雑な事情を抱えていると言えます。

 軍隊においてはどんなに理不尽な命令でも絶対に服従し、組織の駒に徹するので、人間性や感性は邪魔になります。その虚しさに耐えられなければ務まりません。そのような組織は、必ず見えない所で暴力や虐待が日常化します。監視下になければ何でもありの無法状態になるのです。兵士たちがイエスをさらし者にして、リンチを加え(マルコ15:16)、その着衣を分けたのも(23節)、貧困と鬱屈した精神の現れでしょう。

 その一方で、その組織の中でも例外的な者もいたようです。ヨハネ福音書では省かれていますが、イエスの死を見届けて、「本当にこの人は神の子だった」と証言した百人隊長の話があります(マルコ15:39他)。彼は裁判からその死の様子まで見て、イエスの中に神聖なものを感じたのでしょう。百人隊長とは百人から数百人の歩兵の頭ですが、将校にはなれない下級士官です。ローマまでの護送途中でパウロを助けたのも百人隊長だったとあり(言行録27)、兵士と上層部とのつなぎ役として苦労人が多かったかも知れません。とにかく、過酷な組織の中で人間性を失わなかった人がいたことに希望があります。

 「ヒットラーの忘れ物」という映画をご存知でしょうか。敗戦後のドイツの少年兵とデンマークの軍曹の交流を描いたものです。第二次大戦で、ヨーロッパ各地に埋められたドイツの地雷の数は膨大ものでした。デンマークだけでも海岸を中心に150万個ありました。責任を取らせるために、デンマークは十代前半のドイツ兵に地雷処理させました。彼らは毎日粗末な道具と手作業で地雷と向き合い、精神を病んでいきました。爆死する者が後を絶たない中、監視するデンマークの冷徹な軍曹は、少年たちの爆死も餓死も構わないというスタンスをとります。しかしいつしか彼らに同情し、食料を上層部に隠して届けるなど、心を寄せるようになりました。十数人いた仲間が最後は4人になり、軍曹は業務完了後の帰国を約束しました。しかし上層部は約束を反故にして、さらなる危険区域での続行を命じます。軍曹はそれに逆らって、自分が軍法会議で死刑になることを覚悟で、少年たちを国境近くまで逃がしました。彼は上の命令より人としての道を選んだのでした。

 イエスが最後に言った「成し遂げられた」(30節)は、彼が神の意志を人に伝え、それを自ら実践して最後まで貫徹したということです。百人隊長をはじめ、イエスと真実に出会った人は皆それを感じたことでしょう。そのこと自体に意味があるのに、加筆者が旧約でこじつけて(分けた服と渇くは詩22、折った足は出エ12、詩33、脇腹を刺すはゼカ12)、聖餐と洗礼というドグマ(34節)で権威づけたのは残念なことです。著者のヨハネにとっては、百人隊長の証言すら必要ないのかもしれん。ヨハネが言いたいのは、旧約もドグマも余計であり、イエスの生きた姿に説得力があるということです。それを見るなら、誰であれその中に神性(神の真理)を感じることでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年12月11日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書19章38~42節

 説教 「イエスを弔った

​ ​牧師 藤塚 聖 

 弟子たちはイエスを処刑から守れなかっただけでなく、その遺体を引き取って弔うこともできませんでした。それは十字架を見届けた女性たちも同じでした。一介の庶民には手続き的に難しかったのかも知れません。彼らに代わってそれをしたのは、ニコデモとアリマタヤ出身のヨセフという人でした。

 このヨセフのことは、全ての福音書に記されているので、広く知られていた人だと思います。彼は最高議会(サンヘドリン)の議員で、貴族的なサドカイ派に属していたと考えられます(15:43)。イエスの弟子であることは隠していて、弟子というよりも支援者だったのでしょう。

もう一人のニコデモのことは、ヨハネ福音書にだけ記されています。ヨハネは細かい史実にこだわるので、この話が事実に近いかもしれません。ニコデモはこれ以前に二度登場しています。一度目は、イエスの教えを聞きに夜密かに訪ねました(3:2)。この時はほとんど理解できなかったようです。二度目は、議会がイエスの逮捕のために下役を派遣した時です。ニコデモは、イエスを擁護するために、取り調べをしないまま逮捕するのは律法違反になると、極めてまっとうな発言をしています(7:51)。彼はイエスを理解しようとして、ずっと考え続けていたのではないでしょうか。後にパリサイ派から教会の信者になった者も多くいたようなので(言行録15:5、21:20)、ニコデモもそのひとりだったかもしれません。

 ヨセフとニコデモに共通することは、二人とも議員であったことです。ニコデモはパリサイ派の律法の教師でもあり、議員の中でも指導的な立場にありました(3:10)。最高議会のメンバーは70人位なので、派閥は違ってもお互いを良く知っていたのではないでしょうか。また彼らはイエスに傾倒しながらも、ユダヤ教の保守派を恐れて、自らの立場を公にできないという負い目があったと思います。だからせめて最後に遺体を引き取って埋葬したのでしょう。彼らは大きな制約がありながら、出来る範囲の中で精一杯のことをしたのでした。

 全くダメだった弟子たちと彼らを比較すると、色々と考えさせられることがあります。弟子たちはイエスと常に行動を共にして、いつも傍近くにいました。自分たちが一番分かっているという自負があったでしょう。しかしいつも的外れで、イエスに叱責されていました。差別意識を克服できず、権力志向から自由になれませんでした。結局のところ、彼らはイエスの傍にいながら遠かったのです。ヨセフとニコデモは信仰的な確信がもてず、イエスの直近の弟子でないからこそ、謙虚になって理解に努めたのでしょう。だからここという大事な場面で、適切な行動に出られたのだと思います。

 私たちは長い教会生活を通して、自分なりの信仰を持っていると思います。しかしそこに安住して、信者という保険によって、弟子たちのように的外れになっているかも知れません。かえって未信者の家族や友人の方が、教会や信仰を客観的に見ているかも知れません。その点で、私は信仰的な確信に満ちている人に違和感があります。むしろ揺れていて考え続けている人にほっとします。確信というのは悪くすると思考停止になり、硬直して現実と乖離するからです。とにかく立ち止まらないで、信仰について謙虚に考え続ける人なら、本当に大切なことを見分けることができるでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年12月18日(日)10:30~

   聖書 ヨハネによる福音書20章11~18節

 説教 「だれを捜しているのか

​ ​牧師 藤塚 聖 

 次週はクリスマスですが、本日はイースターのお話をします。ヨハネ福音書を続けてきたために偶然こうなりました。とはいえこの復活のイエスとマリアの対話は、教会暦に関わらず、いつで心に留めておくことだと思うので、間違いではないでしょう。

 内容的には、凄く広がりがあって普遍的なテーマが扱われていると思います。つまりどのようにして神を信じるのか、そもそも信仰とはどういうことかという重要なことが示されています。そこでカギになっているのが「見る」という言葉です。マリアが墓から石が取りのけてあるのを「見た」(1節)に始まり、主を「見ました」(18節)と告げるまで、話の中で何度も繰り返されています(5,6,8,11,14節)。しかしそれに反して、この福音書の結論は「見ないのに信じる人は幸いである」(29節)ということになっています。

 墓を訪れたマリアが、目の前でイエスを見ていながら気づかないということは、普通ならあり得ません。この話が言いたいことは、アリアには復活の命が見えていない、つまりそれまでの古い生き方しか見えていないということです。以前のようにそれを保持したまましがみつこうとしたので、「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)と強く拒否されました。

 ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」で、次男のイワンは神も復活もないと言いました。復活させてもらうために、神の顔色を窺いながら必死に善行を積むことは本当に正しいのか、そんな神や復活ならない方が人は幸せではないかと言うのです。すがりつく信仰が人を幸せにするとは限りません。

その点で、福音書記者ヨハネは古代人でありながら、信仰をきわめて現代的に考えているように思います。古代においては病気や自然災害は全て神や霊魂で説明されました。神というものが全ての事象の理由や証拠とされていて、要するに見て信じる信仰なのです。「見る」とは、神について理由や証拠を捜していることであって、それにしがみつくことが信仰というわけです。ヨハネはそれを否定しています。  

 ただしヨハネにおいては信仰に段階があるようです。最初は奇跡を見ることでも何でもいいから、とにかく信じる者になれと勧められます(14:11他)。でもそこにいつまでも留まるのではなく、最終的には見ないで信じる者になれと勧められています。

 ただ、そのためにどうすればいいかは、聖霊が助けてくれるとはいえ、はっきりとは示されていません。私は神を人間の「存在の根拠」と考えています。そうであるなら、祈りに応える神を期待しなくていいし、信じるに値する証拠も必要ありません。それらにすがりつかなくていいのです。イワンのように、現代人はもう古代人のような考え方はできないので、なお一層見ないで信じる信仰が求められます。常に見える証拠やしるしを求めながら、いつも不安な私たちに、イエスは「何を捜しているのか」と呼びかけることでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2022年12月25日(日)10:30~

   聖書 マタイによる福音書2章7~15節

 説教 「誕生物語を読みとく

​ ​牧師 藤塚 聖 

 

 エスの誕生の話はマルコとヨハネにはありません。マタイとルカにはあっても内容は全く異なります。オリジナルのマルコでは扱われないので、これらは史実というより著者による創作文学として読んだ方がいいと思います。それならマタイはこの話にどういうメッセージを込めたのでしょうか。

 マタイでは、東方の博士の訪問と、ヘロデ王の幼児虐殺とエジプトへの避難が描かれています。ルカとは全く違います。結論から言うと、マタイはイエスを第二のモーセとして描こうとしているようです。モーセも、生まれた時に王により殺されかけました。ヘブライ人はエジプトで奴隷として酷使されていたので、王は彼らの数が増えるのを恐れて、生まれた男の子を殺すように命令を出しました(出エジプト1:16)。モーセは葦の茂みで王女に発見され、その子供とされたことで助かりました(2:10)。成人後のモーセの活躍については、皆さんがご存知の通りです。苦労の末にエジプトから同胞を助け出して、神が示した約束の地へ導いたのでした。その放浪期間の途中で、シナイ山で神から守るべき「十戒」を示され、それを同胞へ与えました(20章以下)。

 マタイのイエスは、エジプトを脱出したわけではありませんが、ヘロデ王の死の知らせを受けて、結果としては両親と共にエジプトから出てきました(2:21)。そしてその活動のはじめに、山の上で新しい十戒ともいうべき10の教えを民衆に伝えたのでした(5~7章)。このように、マタイはモーセをすごく意識しています。それはユダヤ人にとって、民族史上最大の人物だからです。しかしマタイはそれに対抗して、そのモーセを超える存在として、新しい律法の完成者としてのイエスキリストを描いていると言えます。

 両者を比較した時、モーセはエジプトの圧政から民族を解放して、約束の地に導いた英雄です。それならイエスキリストは、誰をどこから解放して、どこへ導いたのでしょうか。そのヒントを、東方の博士の物語から推察できるかもしれません。文学作品なので自由な解釈がゆるされるのです。  

 博士たちが遠い外国にまでやって来たのは、イエスの誕生を見届けるためでした。そのイエスは、「神は我々と共におられる」(1:23)と言い換えられています。危険を冒してまでそれを確かめに来たというのは、彼らの中に核となる確かなものがなかったということです。核が分かったから、彼らは今まで大切にしてきた宝を捧げました(2:11)。大切なものの中には、否定的なものもあったことでしょう。ずっと伏せていたもの、痛みを伴うもの、苦しかったもの、それら全てを開示しました。「インマヌエル」がそれを可能にしました。そうすることで彼らはやっと安心して、来た道を戻って行ったのでしょう。

 「神が共にいる」とは、一般的な言い方にするなら、「私は全肯定されている」ということです。確かなものがない人にとっては救いの言葉です。そしてこれこそが、人の根源的な本質なのだと思います。

 虐待、いじめ、パワハラ、性暴力等々、これらを報道で見ない日はありません。被害者は二次被害により更に苦しみます。そこで一番必要なことは「あなたは何も悪くない」という言葉です。それが本当に分かった時、人は前を向いて歩き出せるのです。イエスの誕生は、私たちをそこへと解放するでしょう。

 (牧師 藤塚聖)

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