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​過去の礼拝説教集2025年1-6月

2025年1月5日(日)10:30~

   聖書  詩編8編1~10節

 説教 「人間のはかなさと偉大さ

​ ​牧師 藤塚 聖

 19世紀のドイツの神学者シュライエルマッハーは、宗教の本質を「神に対する絶対依存の感情」と定義しました。これは画期的なことであって、信仰がドグマで硬直していた時代の中で、人間の感情の側面に光を当てたのです。彼は近代神学の父と呼ばれています。

 神に対する絶対依存の感情は、私たちでもよく分かることです。難しい神学書を読むよりも、満天の星空や大自然の神秘に触れる方が、神の存在や超越性を実感するかもしれません。宇宙の無限の広がりから砂粒のような小さな自分に気づき、それらを超越する絶対的なるものを感じるのです。また大自然や命の神秘に触れるなら、そこに不思議な摂理や原理を感じざるを得ません。

 詩編8篇でも同じようなことが言われていて、天を仰いでそこに輝く月や星を見て神の偉大さをたたえています(4節)。その一方で幼児や乳飲み子により人間の脆さや拙さを歌います。また戦争における人間の悲惨さも背後にあるかもしれません(3節)。この詩と同時期に哀歌4篇があります。信じがたいことに、母親が自分の子供を煮炊きした(10節)とあります。バビロン捕囚という抑圧下で、飢餓によって人間の尊厳が全否定されるような現実があったようです。それにもかかわらず、神は人に栄光と威光を冠として与えるというのです(6節)。

 4節以下を読むと、創世記1章の「創造神話」が背景にあるとすぐに分かりますます。神は天地を造り、人を神に似せて造り、全てを治める特別な地位を与えました。しかしその一方で、人は土で造られた塵に過ぎません(2:7)。いずれ死んで土に返るはかない人間を、神はどうして御心に留めて顧みるのかと、その不思議さが強調されています。

 このように、人間の拙さ、悲惨さ、はかなさの一方で、そんな人間が神に準ずるものとして栄光と威光を与えられていることから、私たちは自分の本当の価値が神との関係の中にあることを教えられます。つまり自分自身をいくら深堀りしても答えは見つかりません。神との関係の中で私たちには特別な価値があると知らされます。だから私たちは自分を卑下することも過大評価することも必要ありません。傲慢になる時には、脆くてはかないことを自覚し、自己肯定できない時には、神からの栄光と威光を思い出すべきでしょう。

 ボンヘッファーが処刑の1年程前に書いた「私は何者か」という詩があります。死刑執行に怯えて当然なのに、堂々として凄い人だと噂される自分と、籠の中の鳥のように怯えて生きる気力も萎える自分を描き、「私は一体何者なのか」と問うています。そして最後にその答えとして「私が何者であるにせよ、ああ神よ、あなたは私を知り給う、私はあなたのものである」と結んでいます。神との関係の中に答えがあるということでしょう。他人がどう見ようと、私自身がどう思おうと、神が自分のものだと言ってくださることに、私たちの希望があります。

(牧師 藤塚聖)

2025年1月12日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書10章46~52節

 説教 「見えるようになる

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 イエスがエルサレムに乗り込む前に、盲人の癒しがあったと記されています。著者のマルコはこの話の効果を狙っているようです。まず前後関係では、イエスがヤコブとヨハネの要求を退けて(38節)、バリティマイの求めを叶えることで、その違いを対比しています。またバルティマイがイエスを「ダビデの子」と呼び、それをエルサレムの民衆が更に強調することで、(11:10)、クライマックスに向かって盛り上げることを意図しているようです。

 イエスとのやり取りにおいて、バルティマイがこの機会を千載一遇のチャンスととらえ、必死にアピールしたことが伝わります。結果として彼の求め通りに目が見えるようになり、イエスはそれを「あなたの信仰があなたを救った」(52)と説明しました。この「信仰」は教会で言われるような信仰ではなく、「執念」とでもいうべきものです。絶望せずに諦めずに何とかしようとする意欲が、道を開いたのでした。「天は自ら助ける者を助ける」ということです。

 さて、この話を奇跡的な治癒物語として読むなら、身近な話とはいえません。それは現代の私たちと距離があるからです。そこで、奇跡物語としてではなく、文学作品のように読んでみたいと思います。そこで二つのことを考えました。まず第一に、イエスがあえて「何をしてほしいのか」(51節)と尋ねたことです。バルティマイは盲人なのだから、当然「見えるようになること」に決まっていると考えがちです。しかしこれは先入観かもしれません。目が見えないままでもサポートがあればいい人もいるかもしれません。必要な支援があれば、障碍があっても不自由なく社会生活ができるということです。障碍者問題とは当事者ではなく社会の側の問題であることを改めて思います。

 結果として、バルティマイは見えるようになることを求めましたが、場合によっては別のものだったかもしれません。私たちは「何をしてほしいのか」とイエスに言われたなら、どう答えるでしょうか。これだと思って求めても、ヤコブとヨハネは退けられました。逆にイエスから、あなたが

本当に求めるべきものはこれだと指摘されるかもしれません。私たちは自分に必要であり、本当に求めるべきものが分かっているのか考えさせられます。

 第二に考えたことは、見えるようになるとはどういうことかということです。普通に見えていても、見るべきものが見えていないのなら非常に残念なことです。まさに弟子たちがそうでした。彼らにはイエスの考えが分からず、その意図が全く見えていなかったのです。

 このように、本当に求めるべきものが分かっているのか、見るべきものが見えているのか問われるなら、私たちは自信がありません。これまでに沁みついた偏見や先入観により、曇った目のままで物事を見ているからです。曇りのない目になるのは難しくても、せめて歪んでいることの自覚だけは持っていたいものです。 

(牧師 藤塚聖)

2025年1月19日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書11章15~19節

 説教 「イエスのいらだち

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 イエスは何度も命を狙われましたが(3:6他)、その度に上手く逃れてきました。それで出来るだけ危険を避けて田舎で活動していたと思われます。それなのに宗教権力者が待つエルサレムに、わざわざ捕まるために上京しました。何故そのような行動をとったのでしょうか。

 教理としては、人類の罪を贖うために殉教したということになります。しかしそれはあくまでも後の教会の教理であり、イエス自身がそう考えたとは思えません。そもそもイエスは代理贖罪というものを認めないから、神殿で反対運動できたのだと思います。逆に、某聖書学者はイエスは神を誤解して挫折したと言います。イエスも古代人なので神の超越的な介入を期待していました。しかし最後の最後まで何も起こらなかったので、絶望して絶叫しながら死んでいったというのです(15:34)。人間イエスにフォーカスしたのはいいとしても、これでは残念過ぎます。私は贖罪論とは別の意味で、命を懸けた行動だったと考えます。出来るだけ大勢の前で、権力批判するためだったのではないでしょう。イエスはいつか必ず捕まって殺されると分かっていました(8:31他)。だから自ら進んで殺されに行く覚悟だったと思います。

 そこで上京してすぐに実行したのが「神殿批判」いわゆる「宮清め」です。神殿はユダヤ教の心臓部であり、そこにお金も権力も集中していました。祭司長を頭にして、神殿貴族が政治を牛耳り、庶民から搾取した膨大な税金もそこに流れ込んで、その利権に多くが群がっていました。

 神殿祭儀も神の名を使った搾取であり、イエスはその下請けの両替人や商人を追い出しました(15節)。それらはその背後にいる宗教権力者に向けたパフォーマンスだったと思われます。神殿が本当に「神の家」であるなら、誰もが自由に祈れる場所のはずです(17節)。しかし異邦人や罪人を締め出し、貧困者から略奪し、それを神の名で正当化する最悪の場所になっていたのです。神殿批判は最大のタブーなので、イエスは捕まるために確信犯的にやったといっていいかもしれません。すぐさま祭司長や律法学者は殺害に向けて動き出しました(18節)。 

 イエスをこのような行動に駆り立てたのは、言うまでもなく宗教権力者への激しい怒りだったと思います。それがこの前後にある「枯れたいちじく」の話に反映しています(12節以下、20節以下)。いちじくの木に実がないから、イエスは八つ当たりのように呪って枯らしました。季節外れで実が無いのは当然なのに、怒りをぶつけたのです。神殿批判と実のないいちじくの二つの話は、信仰の実を結ばないことへの苛立ちを物語っていると思います。もっとも、神殿体制は信仰の実を結ばないどころか、神の名を使って差別と略奪を続けているのだから、イエスの怒りは想像するに難くないでしょう。

 私たちの社会は、自分が鈍くて麻痺しているだけで、本当は怒るべきことに満ちています。それに敏感でありたいと思います。キリスト教は愛の宗教ではありますが、イエスがそうであったように、あってはならないことへの怒りを決して忘れてはならないでしょう。

(牧師 藤塚聖)

2025年1月26日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書14章3~9節

 説教 「超越に触れるとき

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 マルコ福音書は、1章から13章までの「イエスの活動」と14章から16章までの「受難物語」で出来ています。但しこの両者の関係をどう考えるかは、学者の間でも意見が割れています。伝統的には、福音書はイエスの「受難」(死と復活)が中心であり、その「活動」は前置きに過ぎないと言われます。実際にパウロはこのタイプです。しかしそれとは逆に、マルコにとってはイエスの日常活動こそが重要であり、受難は補足に過ぎないという見方もあります。この活動と受難のバランスをどう考えるかによって、私たちの信仰のタイプも違ってくると思います。

 さて「受難物語」の冒頭がナルドの香油の話ですが、細かいことは抜きにして、最初の話として相応しいものです。実際の出来事とするなら、人の感情としてよく分かる内容になっています。おそらくこの女性はイエスに助けられ、その感謝の気持ちを表したかったのでしょう。それも残された時間があと僅かと予感して、後にも先にもないほど、今できる精一杯のことをしたのです。香油は300デナリオンなので、年収に相当します。彼女の気持ちが分からない人には、無駄な浪費にしか見えませんでした。そ弟子たちはそれを厳しくとがめました(マタイ26:8他)。しかしこの女性が信仰的で、弟子たちが不信仰だったとは簡単に言えません。それよりは、両者の立場や環境の違いがあるかもしれません。つまり日常と非日常ということです。

 まず彼女にとっては、イエスとの最後の面会も、らい病人シモンの家という特殊な環境も、完全に非日常でした。普通ならばそのような場所に近づくことさえ考えられません。しかし決死の覚悟でやって来ました。色々なことが重なり、それを可能にしたのです。一方弟子たちはイエスの運命には無自覚であり、ごく普通の日常を生きていたので、彼女の行為を理解できませんでした。

 ここに、長い信仰生活における一つのテーマがあるように思います。私たちの中には、信仰的に大きな体験をした人がいるかもしれません。入信の時の熱い思いもそれに近いと思います。その時は全てを犠牲にしてでも神に従おうと思ったかも知れません。それは尊いことですが、人はそれだけでは生きていけません。人生のほとんどを日常の雑事に追われて生きているからです。その中で果たして信仰的な情熱を持続できるのかということです。感動が大きかった人は、その後そうならない自分が不信仰になったと落ち込むかもしれません。また教会によっては、絶えず感情に訴えて信仰を燃え立たせることを是とするところもあります。

 私は、信仰生活とは普通の日常であり、必ずしも非日常である必要はないと思っています。必要なのは、平凡な日常でも成り立つような信仰に、自ら組み直すことです。そのためには、自分を突き動かした感動の意味を、見直してみるといいかもしれません。あの時の熱い思いは、今なら何を意味するのだろうかと。もしかすると、あの時に見つけたものが、今なら他の事柄に置き換えられるかもしれないのです。そのように古いものに執着しないで、自分の信仰をいつもアップデートすることが重要です。

(牧師 藤塚聖)

2025年2月2日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書14章12~21節

 説教 「イエスとの最後の食事

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 ユダヤ教の「過ぎ越し祭」は一週間行われ、その期間は羊の丸焼きや酵母の入らないパンが食されました。これは祖先のエジプト脱出を忘れないためでした。他にも、先祖が粘土でレンガ造りに勤しんだことから、ペースト状の調味料ハロセスや、奴隷であった苦労をしのぶ苦菜も食されました。大抵はどんな「祭り」もその由来が時と共に薄れて形式化するのですが、「過ぎ越し祭」は民族のアイデンティティを確立するのに不可欠なものになっていました。

 さてイエスと弟子の最後の食事では、ユダの裏切りが明らかになっています。そのために、教会の歴史ではユダが必要以上に悪とされました。それは教会指導者になった弟子たちの権威を守るためであり、ユダ一人を裏切り者にする必要があったからです。ユダに全責任が集中したので、他の弟子たちの裏切りの責任は放免されました。

 21節の「生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉はイエスではなく教会の解説です。このように教会のユダへの厳しい姿勢は、彼の自殺の報告にも如実に表れています。マタイ福音書と使徒言行録に夫々「首を吊った」(27:5)、「まっさかさまに落ちた」(1:18)とあり、多少違いはあっても無残な死であったことが記されています。どちらもユダへの同情は一切なく、これが教会の歴史の中で、ユダが「地獄に落ちる者の筆頭」とされた理由だと思います。

ユダヤ人社会において一緒に食事するというのは、仲間である強い証しであり、私たち日本人が考える以上の意味があるようです。だから本来なら厳しく選別され、食事の席に裏切り者がいるはずがないのです。イエスはユダが裏切ると分かっているので、最初から同席させないか、やって来ても追い出せたはずです。しかし全て分った上で全員にパンも杯も分け与えました。つまりイエスはユダを仲間として受け入れて、排除していないということです。

 20節の「鉢」は手を洗う鉢と思われます。イエスはユダと一緒に鉢に手を浸しました。この後で逮捕される時も、ユダに対して「友よ、しようとしていることをするがよい」と言いました(マタイ26:50)。つまりユダのやることを全て受け入れ、赦していたということです。しかしユダはこのことでかえって自責の念を募らせて、自殺に至ったのであるならば本当に残念なことです。

 この最後の食事から分かることは、イエスがどんな人をも受け入れ赦したということです。人である以上そこに例外はありません。もし食事の席からユダが排除されるなら、他の弟子も排除されるはずであり、この世の誰も赦されないでしょう。その席にユダがいたからこそ、全ての人が赦されているのだと思います。

 教会の聖餐式はこの最後の食事の延長にあります。しかし現実は真逆になっているかもしれません。聖餐式とは、イエスが手を浸した鉢にユダの手もあること、パンと杯はユダにも手渡されたこと、そこに内実があることを思い起こすべきでしょう。 

(牧師 藤塚聖)

2025年2月9日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書14章32~42節

 説教 「神への祈り

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 逮捕と処刑を覚悟して、不安と恐れの中で祈るイエスの姿から、「神」について、「祈り」について考えたいと思います。イエスは弟子たちの内ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを伴い祈りました(33節)。しかし弟子たちはすぐに眠ってしまったので(37節)、誰もその内容を知ることはできません。そもそも祈りとは、「主の祈り」のような公的な教えは別として、きわめて個人的なものなので、その内容は誰も知らなくて当然です。にもかかわらず、明確に祈りの内容が記されているのは、ある意味で創作と言えます。

 聖書学者の荒井献氏は、著書「イエスとその時代」の中で、この祈りは伝承者の祈りではあるが、イエスを追体験しているのだから、その中にはイエスの祈りの真実があると説明しています。伝承者が自分たちの知っているイエスならこうだろうと突き詰めた結果、最後にこの祈りに行きついたということなのでしょう。

 「この杯をわたしから取りのけてください」と「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という相反する二つの言葉はどういうことでしょうか。イエスは何度も受難予告したので、自分の運命を分かっていたはずです。それでも苦しい胸の内を訴えずにはおれなかったのかもしれません。それに続く「御心に適うことが行われるように」は、諦めや達観とは違うように思います。先の荒井献氏は、「イエスにとって神とは、徹底的に自己の思いを砕き、全てを相対化する存在であると同時に、そのような自己をそのまま委ね、そこから再び立ち上がることの赦される存在だった」と言います。

 そうであるならば、私たちの祈りとは、願いが叶えられるか否かではなく、祈る中で自分が変えられることだと思います。祈りの中で無意味なものが削ぎ落とされ、本当に必要なことが示されるのではないでしょうか。結論としては、神とは願いを叶えてくれる都合のいい存在ではなく、徹底的に自己の思いを打ち砕き、全く新しい場所に立たせてくれる存在だということです。

 ニューヨーク大学のリハビリ研究所の壁に「病者の祈り」という作者不詳の詩が掲げられています。元は病室にあったものが受付に移されました。受難のイエスの祈りに通じるように思います。

「大きなことをなそうと力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった/偉大なことが出来るように健康を求めたのに、より良きことが出来るようにと病弱を与えられた/幸福になろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった/人生を楽しみたいとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと命を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが、願いは全て聞き届けられた/神の御心にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは全てかなえられた/私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」

 この逆説的な神の祝福を、使徒パウロも語っています。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(2コリント12:9)。

(牧師 藤塚聖)

2025年2月16日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書15章1~15節

 説教 「ピラトによる裁判

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 イエスの死刑は、最終的にはピラトによる裁判によって決定しました。しかしそこに至るまでに、祭司長たちによる逮捕と証拠固めがあり(14:53以下)、その上で彼らがピラトにイエスの処刑を仕向けたと言えます。ローマ帝国の支配下にあっては、ユダヤ人には死刑の権限はないからです。祭司長たちはローマの法律がイエスを裁いたということで、自分たちの責任を回避したのでしょう。

 ユダヤ総督のピラトは、そのあたりのことは見抜いていて、祭司長たちがイエスを殺害する理由はねたみであり(10節)、彼らが群衆を扇動していることも分かっていたようです(11節)。それでイエスに対する恩赦を提案したり(9節)、罪状が不明であることを指摘するのですが(14節)、騒ぎを収めることはできませんでした。ピラトにとっては、イエスの運命よりも、治めている地域の安定が第一なので、騒ぎが大きくなることだけは避けたかったのです。それで不本意ながら、処刑を決めることになりました。このようにこの話の中では、ピラトについてはきわめて同情的に描かれています。

 むしろ積極的にイエスの処刑に関わったのは祭司長たちでした。前々から殺害を計画しており、逮捕してピラトに引き渡したのは彼らでした。だから「使徒信条」にピラトではなく大祭司カヤパの名前が記されてもおかしくないのです。にもかかわらず、悪名としてピラトの名が残ったのは、彼の強権的な統治が不評だったからかもしれません。最後はサマリヤ人への弾圧が訴えられて解任されました。

 それだけでなく、「使徒信条」を作った教会は、イエスの処刑がローマ帝国という強大な国家権力の下で行われてことを重視したのかもしれません。祭司長たちもその支配下にあったのです。教会はピラトの名を記すことにより、イエスが政治犯として合法的に殺されたことを伝えているのではないでしょうか。

 そこから考えるべきことは、イエスの死は宗教や信仰の中の話に留まらずに、極めて政治的な事柄であったということです。「贖罪論」だけではそこが消し飛んでしまうのです。私たちがキリストとして信仰するイエスは、このような政治的な文脈の中で死んでいったということを決して忘れてはならないでしょう。イエスは政治活動家でも革命家でもないのですが、弱い人の立場に立ち続けたことが、体制批判となり反逆行為と見なされました。

 また現在でも、国家権力の下で合法的に殺されていく人々が絶えないことを覚えたいと思います。「死刑」問題もそうだし、国家による戦争や紛争もそうです。現在米国とロシアの間でウクライナの停戦交渉が進んでいますが、ソ連から独立してもなお混乱の中にあるチェチェン共和国のことを思い出しました。

世界各地の問題は簡単には解決できませんが、私たちが関心を持ち続けることが重要です。何が起こっているのか、知ってそれについて話題にすることです。現地の人々にとって一番苦しいのは、世界から忘れられていることだと言います。私たちに出来る形で何らかのメッセージを送り続けたいものです。

(牧師 藤塚聖)

2025年2月23日(日)10:30~

   聖書  ヨブ記1章12~22節

 説教 「人はいかなる存在か

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 ヨブ記は旧約聖書の「知恵文学」の一つです。他には箴言、コヘレト、雅歌、幾つかの詩編があります。ユダヤ民族というよりも、人間個人が如何に生きるかがテーマになっています。従って、特定の信仰を持たない人でも共感できるものだと思います。

 この知恵文学も、時代が安定していた時には道徳がベースとなり、悪いことをすれば不幸になるが、良いことをすれば幸福になると教えていました。いわゆる「因果応報」です。しかしバビロン捕囚という深刻な経験を経てからは、伝統的な知恵への信頼が根底から覆されてしまいました。律法に忠実であった人ほど、秩序への不信が深刻だったと思います。そしてヨブ記はそのような問題意識から生まれました。人はなぜ苦しむのか、人生に意味はあるのか、不条理な世界に正義の神はいるのか等が、テーマになっています。

 全体を見てすぐに気づくことは、最初と最後が散文で、その間が全部詩文であるということです。散文の中のヨブは模範的で、何があっても神を信頼し、最後は以前にも勝る幸いを与えられます。しかし詩文の中のヨブは、身の潔白を徹底的に主張し、神に文句を言い批判し続けるのです。そのために、散文と詩文の著者は違うのではないかと言われています。両者は緊張関係にあるのか、本質的には同じなのか、その関係をどう考えるかによって、ヨブ記の読み方も変わるのだと思います。

 今回は、ヨブが財産も家族も全てを失ってから発した言葉に注目します。「わたしは裸で母の胎を出た、裸でそこへ帰ろう、主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」(21節)。私は葬儀の時によく使いました。人が何も持たずに生まれ、また何も持たずに帰っていくことは、本当にそうだと心底思うからです。どんな人であれ例外はありません。これは確かな人間理解だと思います。

その一方で、同じ旧約聖書の創世記には「人が独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう」(2:18)とあります。これも人が本来どういう存在であるかを示しています。人は一人では生きられず、相互に助け合う存在だということです。神は人を関係の中で人となるように造られました。つまり人は一人だけでは成立しないのです。これもまた確かな人間理解だと言えます。

 上述のように、人は一人でこの世に生まれ、何も持たずに一人でそこへ帰っていくことに非常に厳粛なものを感じます。但し、もともと人は補い合い、互いに助け合って生きるように造られているので、結果としては、それら全てを断ち切って帰っていくわけです。どちらの人間理解も正しいと思います。私は、人生において色々な人と関係を築きながらも、最後は一人で帰ることを前提にして、どんな人とどんな関係を作るのか、要するにどう生きるか問われていると思います。どんなに大切な人や物でも断たれることを自覚しつつ、たとえ断たれようと、思い残すことのない関係を築くことが勧められているのではないでしょうか。残された人生を十分に悔いなく生きて、神のもとへ帰っていきましょう。

(牧師 藤塚聖)

2025年3月2日(日)10:30~

   聖書  ヨブ記2章1~11節

 説教 「神への問いかけ

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 NHK「ドキュメント72時間」は、番組取材班が3日間特色ある場所に留まって来訪者に話を聞くという番組です。長距離バルターミナル、資格取得学校、過疎地のスーパー等、話をしてくれた人たちから、その人生をしみじみと感じます。

 先週は、能登半島の珠洲市にある海辺の銭湯が舞台でした。昨年の地震と大雨のために、約1万人の住人の内5千人が仮設住宅で暮らしています。

その銭湯は憩いの場として様々な人が訪れています。若い解体業者やボランティアの存在が明るさをもたらし、地元の人たちも家や仕事も失いながら、それでも前に向かっているようでした。しかしその裏には簡単には立ち直れない人たちも沢山いることと思います。

ヨブはあっという間に、強盗により財産の家畜と使用人を失い、自然災害により家と家族を失いました。最後には自分の病に苦しんで、妻からは神を呪って死ぬ方がましでしょうとまで言われました(2:9)。しかし彼は「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と反論したのです(2:10)。その前にも「私は裸で母の胎を出た、裸でそこへ帰ろう、主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」と言っていました(1:21)。

 これはある意味で悟りの境地であり、簡単なことではないでしょう。詩文の中のヨブはずっと苦しんでいて、執拗に神に問い続けた結果、最後にこの境地に辿り着いたとも読めます。結びには、ヨブは神への信仰を貫いたから財産は2倍になり、息子と娘にも恵まれ長生きしたとありますが、この部分は余りにも予定調和なので余分な気もします。

 とにかく3章以下では、ヨブは3人の友人との議論の中で神を徹底的に疑っています。神は正しいのか、なぜ理由のない苦しみがあるのか、神はどう見ているのかと。28章以下では直に神からの声があり、ヨブは被造物にすぎない人間の小ささや弱さを徹底的に思い知らされたのでした。地震と津波に襲われて、家が街ごと流されていく様を呆然と眺めるしかない被災者の姿を思い出します。

  ヨブの問いに対して、神からの直接的な答えはなく、逆に問いという形で返ってきました。そこで、私たちは問い自体が違うのではないかと気づかされます。それ故に問い方が間違っていないなら、答えは遠くないのだと思います。

 最後の最後に、神は3人の友人たちを批判してヨブをほめました(42:7以下)。友人たちは最初から「因果応報」という答えを持っていたからです。彼らにとって神への問いは必要ありません。つまり神の意志を勝手に決めつけていたのでした。納得しないで執拗に問い続けたヨブとは対照的でした。

 ここに「宗教」と「信仰」の区別があるように思います。宗教とは答えが用意されており体系として完成しています。しかし、信仰とは神への信頼があるからこそ問いかけて問われ続けることだと思います。信仰を悪しき宗教にしてはいけません。簡単に答えはないので苦しい面もありますが、それが信仰者の姿勢ではないでしょうか。

 

(牧師 藤塚聖)

2025年3月9日(日)10:30~

   聖書  ヨブ記3章20~26節

 説教 「苦難の意味

​ ​牧師 藤塚 聖

 ヨブ記の主題は、「何故この世には苦難があるのか」、「神はこの世を正しく支配しているのか」の二つにまとめることが出来ると思います。苦難の意味については、長い歴史の中で繰り返し議論されてきました。この問題は、国や時代を問わず普遍的なテーマであると思います。

 ヨブに降りかかった様々な苦しみは、人が経験する災難や不条理の典型です。それは予告なく誰にでも起こる事柄だということです。彼を心配してやって来た3人の友人は、それぞれ遠く離れた国からやって来ました(2:11)。これはヨブの抱える問題は、世界の全ての人に関わる事柄であることを表しています。

 病気で変わり果てたヨブを見て、友人たちは衝撃を受けました(2:12)。旧約学者の浅野順一氏はヨブの病を「象皮病」と見ています。皮膚が固まり肉体の機能を奪い、神経を刺激する難病です。ヨブは自分がこの世に生を受けたことを呪いました(3:11)。苦しみのあまり死ぬことを願っても、それが許されないのでした(3:20)。

 以前、安楽死についてのドキュメントを観ました。あるフランス人男性がオランダの病院で尊厳死するという内容です。オランダは2001年に世界で最初に尊厳死を合法化しました。施術までには厳格なルールがあり、3つの条件としては、改善の見込みがなく治療法がないこと、堪えがたい苦痛があること、本人の明確な意思があることです。彼の主治医は、自らが死を選ぶことは、生きることと同じように本人の権利だと語りました。最初反対していた父親も、息子の死後に本人の望みが叶ったことは良かったと述懐しました。その一方でどんなに願っても、死ぬことが許されないヨブのことを想像します。

 4章以下で友人との論争が始まり、エリパズとビルダトとは3回、ツォファルとは2回ぐるぐると螺旋階段のような論争をします。言い方は違っても、3人とも原因はヨブにあるとして「因果応報」を説くのです。ヨブは自分の正しさを主張して、友人はヨブの罪を指摘します。人の正しさは決して完全ではなく、本人の自覚しない大きな罪があるのだと(4:17他)。

 しかしヨブは苦難に相当する罪は犯していないと反論します。苦難については、例えば病に伴う苦痛の他に、その原因や理由が分からないことへの苦悩があります。ヨブはそれが分かれば、苦しみの半分は解消されたでしょう。分からないことが苦しみを増幅したのです。

 苦難の「原因」や「理由」について、ヨブ記にははっきりとした答えは記されていません。しかし神との論争の中で、原因や理由はないけれども、「根拠」と「意味」はあると分かります。まず神が友人たちの「因果応報」を明確に否定しているからです(42:7)。つまりそれは苦難に原因や理由はないということになります。また神がいる故に苦難があることから、神が苦難の根拠だと分かります。それは苦難に意味がある証左です。さらにそのことを補強するように、創造主が全てを支配していると語られていて(38:4以下)、それにより全てに意味があり、苦難にも意味があると言わざるをえません。最終的にヨブがどんな意味を見出したのかは記されていませんが、きっと見つけたはずです。従って、私たちも自分の答えを見つけることが出来るでしょう。 

(牧師 藤塚聖)

2025年3月16日(日)10:30~

   聖書  ヨブ記4章1~21節

 説教 「苦しむ者との対話

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 ヨブの三人の友人の中で、エリパズが最年長者と思われます。彼は我々の中にはヨブの父親より年長者がいると言っていますが(15:10)、これは自分のことを言っているのでしょう。つまり自分はヨブより余程人生経験を積んでいると言いたいのです。長い人生の中で多くを経験したことから、ヨブが如何にも青臭く見えたことでしょう。

三人がヨブと議論した順番は、年齢順でしょう。最年長のエリパズが最初に口火を切りました。次のビルダデは、エリパズほど人生経験はないのか、その代わりに社会常識や伝統を強調しています。最後のゾパルはヨブと同年代でしょうか。彼は学んだ理論やドグマで説得しようとしています。それぞれ議論の仕方は違っても、ヨブの苦難の原因は本人自身にあるということでは一致しています。

 エリパズは、かつてヨブが模範的な信仰者であり、多くの人を励まして立ち直らせたことを語りました(3節)。その時の気持ちを思い出させて、立ち直らせようとしました。同時に、今の惨めな姿との落差にがっかりして、失望と苛立ちが見て取れます(5節以下)。そしてそれが怒りになり、激しい口調に変わっています。相手に勝手に期待して、それが裏切られると怒りに変わるのはよくあることです。人間関係がこじれる一番の原因かも知れません。それは相手を自分の都合に合わせて、ありのままに受け入れていないということです。口で言う程簡単ではなくて、難しいことではありますが。

 さてエリパズは神秘的な体験によって、人は絶対に正しくないという啓示を受けました(12節以下)。しかしながら、人の不完全さは認めるとしても、それが苦難の原因であるか否かは別問題です。このように神の啓示というものが、自己正当化に利用されるなら非常に問題です。そしてエリパズは、ヨブ自身に苦難の原因があるのだから、早くそれを認めて、神に許しを請うべきだと主張しました(5:17)。わたしならそうすると言うのです(5:8)。

 しかしながらこのような叱咤激励は、ヨブの心には全く刺さりませんでした。それには幾つか理由があると思います。まず、ヨブの神理解がエリパズのそれと全く違うことです。ヨブにとって、神は人の不正を理由に罰する方ではありません。だから「因果応報」の神を認めないのです。旧約聖書には、神に従えば祝福され背けば呪われるという思想が多いですが、ヨブ記は例外と言えます。

 それと苦難とは何かという問題です。同じ事柄でも、それに苦しむ人とそうでない人がいます。だから苦難はその人固有のものであり、極めて個人的で実存的な事柄です。他人が分かったようなことは言えません。従って「わたしなら」(5:8)はあり得ないのです。

 さて、私たちの教会は「がん哲学外来カフェ」の活動に関わっています。集会の始めにはいつも6項目の「約束」を朗読しています。1番目が「自分の考えや価値観を押し付けません」、2番目が「相手の意見や考えを否定しないで聞きます」とあるように、自分の尺度ではからず、相手をありのままに受け入れることを心がけています。友人とヨブの対話に限らず、この2点はきわめて大切なことだと思います。

(牧師 藤塚聖)

2025年3月23日(日)10:30~

   聖書  ヨブ記7章9~21節

 説教 「信仰ゆえの悩み

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 ヨブ記を読んでみて、ヨブという人に対してどのような印象をもつでしょうか。6章以下のエリパズへの反論を読むと、自暴自棄になり、神に向かって嘆き、文句ばかり言っているように見えます。2章のヨブは絵に描いたような模範的信仰者であり、「神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか」(2:10)とまで言っているので、とても同一人物とは思えません。それ故に、ヨブ記においては詩文と散文は別の人が書いたと言われています。

 反論の中で、ヨブは強く死を願いました(6:9,7:15他)。現代の社会なら尊厳死を選択したでしょう。私たちは死んでしまいたいと思うことはあっても、深刻さではヨブの足元にも及びません。かといって、どんなに苦しくても生きなければならないと説得できる力もありません。それだけ中途半端に生きています。

 ヨブと私たちの大きな違いは神への真剣さです。その真剣さゆえにヨブは苦みました。苦難の経験が信仰に導くということは、一般論としてよく聞きます。苦難を通して信仰に至り救われるパターンです。しかしヨブにおいては、その強い信仰が苦悩を倍増させています。信仰さえなければ、人のせいや不運のせいにしてごまかせたでしょう。しかし信仰があるからそれが出来ませんでした。

 ヨブを見ていると、信仰というものが人を救わないこともあると思いました。信仰があれば安泰だというのは、都合のいい考えでしかないのでしょう。特に7章では、神の近さが凄い圧力となってヨブを苦しめています(13,14,19,20節他)。普通は神の近さを感じるなら、それが生きる力になるのですが、彼にとっては強迫観念になり、常に責められて監視されているように思うのです。

 私はある意味で人間の信仰と苦悩を突き詰めた姿がヨブではないかと思います。ヨブは尋常でないほど信心深く、尋常でないほど不条理に苦しみました。私たちも彼ほどでないにしろ苦労はするし、彼ほどでないにしろ信仰はもっています。彼と同じように不条理に苦しみ、神の支配は信じ 

ながらも、分らないことが多いのも同じです。神がいて何故この世には苦しみが絶えないのかと疑問をもつことも同じです。ヨブと同様に苦難の意味を問いながら生きています。但し私たちはヨブほど信仰深くはないし、強迫観念になるほど神を身近に感じて生きているわけではないので、逆にそれで助かっているのかもしれません。

 こうしてみると、信仰とはどうあるべきなのかを考えさせられます。四六時中神を意識して生きるのは不自然だし、ヨブを見るとそれで救われるとも思えません。基本的に信頼しているのならば、必要以上に意識しない方が良いのではないかと思います。普段意識しないからこそ、苦しいときには、神を近くに感じられるのではないでしょうか。そしてそれが励ましになります。逆に神の近さが脅迫となったヨブは気の毒です。その点では、苦しみの中に共にある神を信じられるのは、当たり前のことではなくて、とても有難いことではないでしょうか。

(牧師 藤塚聖)

2025年3月30日(日)10:30~

   聖書  ヨブ記8章1~22節

 説教 「確信とゆらぎ

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 私たちの教派である日本キリスト教会は、「信仰告白」を重んじる教会と言われています。信仰告白を持たない教派もあるので、信仰の内容を言葉で明確に表現することは大事なことだと思います。しかし一方で、それが絶対的な「権威」となり批判を許さないのなら問題です。信仰告白は状況の中で生み出されたものなので、克服すべき場合もあるからです。従って、疑問があっても丸ごと受け入れるというのは、本当は違うように思います。

 何の疑問も持たずに、ひたすら固く信じることが良いこととされますが、果たしてそれでいいのでしょうか。聖書では「不信仰な信仰」も語っています。マルコ福音書9章には、癲癇の息子をもつ父親の「信じます、信仰のないわたしをお助け下さい」(24節)という言葉が記されています。彼は自分が不信仰だと自覚しながらも、助けてほしい一心でとにかくイエスにすがったのでした。私たちが「信じる」と言っても、それは曖昧で極めて不確かかもしれません。このように人間の理解には限界があり、常に不完全だということを自覚している必要があると思います。

 ヨブの二人目の友人ビルダテは自信に満ちていて、自分の考えに一切疑いを持ちません。彼は最初のエリパズのような人生経験はないので、伝統や社会常識(8-10節)に照らしてヨブを諭しています。3節以下は彼の「信仰告白」と言えます。それを要約すると、神は正しい(3,20節)、人は悔い改めよ(5,6,説)、そうすれば救われる(6,7節)という三段論法です。彼は神の考えを代弁しているつもりなので、前言を言い換えて、神は正しい、その神に背くなら(13節)、罰が与えられる(12,13-15節)と容易に断言できるのです。

 さて、信仰告白として有名なのが「二重予定説」です。ウエストミンスター信仰告白や信仰問答ではこれがベースになっています。カルヴァンが、神の無条件で一方的な恵みを言うために、人の善行ではなく神の決定(予定)だと教えたことから、後に予定説に発展しました。師匠であるカルヴァンの「神の恩寵」で留めるべきなのに、後継者たちが救済の範囲や滅びに予定された者の存在まで信仰内容(信仰告白)にしてしまったのです。ここまでくると、人が勝手に神の意志を推測して、自らが神の位置に立って断定しているように見えるのです。

 「信仰告白」や「ドグマ」は尊重するとしても、不信仰な人間による神への理解にすぎません。ビルダデにはそういう自覚はなかったのでしょう。このように自信と確信のあまりに、自分を疑うことをしないというのは非常に問題です。だから彼の言葉はヨブに響かなかったのでしょう。いくら自分が確信を持っていたとしても、相手を幸せにしないのなら、独りよがりでしかありません。

 私たちの信仰は不安定で不確かであるべきというのではありませんが、自分の確信がいつでも崩される用意がなければならないと思います。しかしその私たちが神の恵みの中にあることに何の変わりもありません。

(牧師 藤塚聖)

2025年4月6日(日)10:30~

   聖書  詩編1編1~6節

 説教 「信仰者の生き方

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 礼拝説教でヨブ記の話が続いたので、目先を変えてしばらく詩編を扱いたいと思います。詩編は150篇もあるので内容も多様であり、信仰者の喜怒哀楽がすべて含まれているといえます。もともと幾つかの歌集だったものが徐々に結合されて、紀元前150年頃に現在の形に編集されました。その時代は、律法を重んじる生き方が非常に強調されていたので、詩編も律法(モーセ5書)に倣って5巻に編集されています。神学生の時に、シイナニヤクイレロ(41,72,89,106)と語呂合わせで覚えました。

 詩編の表紙でもある1篇は、当然ながら律法に従う生き方を勧めています。それを守るか否かにより、全く違った人生が対照的に描かれています。それは、義人の豊かな人生と、悪人の悲惨な末路です。これは明快な「因果応報」といえます。

 但し、「神に逆らう者」(1節)とは、「傲慢な者」が弱い立場の者を抑圧することを指しているようです。また「神に従う人」(5節、6節)は「義人」と同義であり、神の正義を求める人であって、抑圧される人を指すこともあるようです。従って、詩編1篇をイエスの時代に当てはめるならば、義人の生き方を追求したパリサイ派は、社会的弱者を生み出して抑圧したゆえに、結果として「神に逆らう者」となり、彼らが見下した「罪人」こそ、「神に従う者」だったことになります。このように、イエスは律法が正しく機能しないで、逆転現象が起きていることを問題にしたのでした。だからあえて「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と語ったのです。

 さて、詩編1篇は単純に「因果応報」を説いているのでしょうか。この考え方は確かに分かりやすいのですが、世の中はこれで割り切れません。善人が幸福になり、悪人が痛い目を見るとは限らないからです。つじつま合わせのために、不幸の原因が本人ではなく親や先祖のせいにされたりします。一番問題なのは、説明できない現実の不条理を無理やり正当化することです。

しかしながら、詩編はこのような「因果応報」が成り立たない時代に編集されました。ダビデやソロモンが王であった安定した時代においては、正しく生きればその報いがあると素朴に思えたでしょう。しかし国が滅亡して異教徒の支配に苦しむ時代では、義人が繁栄して悪人が裁かれるのではなく、むしろ社会の現実はその逆だったと思われます。人々は信心深く生きて来たのに、生活が破壊されて辛酸をなめ、神に逆らう異教徒が幅を利かせているのです。

 詩人はそれらを分かった上で、たとえどんなことがあったとしても、律法に示されている通り、正しく生きることが幸いなことだと言いたいのでしょう。利害や損得でもなく、応報思想でうたわれるような報いを期待するからでもなく、神の意志を心に刻んで、毅然と生きることそれ自体に価値があると信じたのです。

 旧約聖書の律法の本質というものが、正義と公正と人権であるならば、それを神の意志として追い求めて生きることは、本当に価値のあることではないでしょうか。 

(牧師 藤塚聖)

2025年4月13日(日)10:30~

   聖書  詩編5編2~13節

 説教 「神の公平と正義

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 詩編には、5篇も含めて神に嘆き訴える「嘆きの歌」というものが沢山あります。極論するならば、詩編はその殆どが「嘆きの歌」とも言えます。それはそれ程まで神に助けを求めずにはおれない人間の苦しい現実を表していると思います。苦しみは、病や災害であったり、争いや戦争等、あるいは特定の人物によりもたらされて、それらはまとめて「敵」と言われます。但し、この敵から逃れたいというのは分かるとして、その敵を滅ぼしてくれ(7節)、打ち倒してくれ(11節)、追い落としてくれ(11節)、つまり「報復」してくれと祈ることにはどうしても違和感があります。しかし詩編には「復讐の詩編」と呼ばれるものもあり(58:11他)、5篇もその一つなのです。

 キリスト教は愛の宗教と言われ、イエスは「敵を愛して、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と教えています。それと矛盾はしないのでしょうか。現在もガザ地区へのイスラエルの攻撃は続き、国際社会も止められないままです。朝日新聞に、アラブとイスラエル両方の意見が連載されましたが、共存は今のところ絶望的であり、この先長い時間が必要と感じました。その中でも、イスラエル軍に家族を殺された人が、憎しみに支配されたくないので、相手を赦すと語った言葉は印象的でした。愛せないが赦すと言うのです。確かに、敵を愛するどころか赦すことも不可能に近いほど難しいことだと思います。しかしそれが神に復讐を願うことになるとは限りません。

 先の大戦で、ナチスにより数百万人のユダヤ人が強制収容所で殺害されました。戦後15年を経て責任者の一人のアイヒマンが逮捕され、世界に驚きを与えました。イスラエルの諜報機関が、南米で潜伏していたのを、草の根分けて捜し出して裁判にかけたのでした。この執念はどこから来るのでしょうか。2012年にはドイツの司法局が、93才になったアウシュビッツ元看守ハンス・リプシスを殺人ほう助の罪で逮捕しました。この徹底さは、神の正義は絶対に貫徹されねばならない、そうしないと正義は成り立たないという旧約の思想がその背後にあるということです。これは広く欧米社会の根底にある考え方であり、白黒曖昧にして過去を水に流す日本人の無責任さからすると、本当に驚くべきことです。

 私たちは「報復」や「復讐」を「仕返し」と考えますが、旧約では「壊れた関係を正す」という意味で使われています。関係を正すには、壊した者はその責任を負わねばなりません。場合によっては処罰が必要です。そうでなければ関係は修復しないからです。キリストの十字架を代理の死とする考え方は、そういう文脈の中で成立したのでしょう。

 一方で今の世界の現実を見るなら、戦争という壊れた関係はどうすれば修復するのか、いったい誰が責任を負うのか、それらが明らかにされ、本当に神の正義が実現してほしいと強く思います。そうであるなら、この現実の中でキリストの十字架はどういう意味を持つのか、刑罰代理説ではカバーしきれない問題を考えさせられます。

(牧師 藤塚聖)

2025年4月20日(日)10:30~

   聖書  ヨハネによる福音書20章11~19節

 説教 「わたしは主を見ました

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 キリスト教の中心は、「十字架と復活」と言われます。しかしその受け止め方は人により異なります。特に復活については様々です。復活が歴史的な事実であり驚くべき奇跡であるとする信者は多いと思います。一方で、史実ではないが信仰的証言だと考える人もいます。またイエスの弟子に限らず、今の私たちの中にもイエスが生きているのだから、それが復活だとする考え方もあります。このように信者の間でも受け止め方に大きな幅があるのです。それは聖書の証言自体が多様であるから、ある意味では当然のことだと思います。

 マグダラのマリアにとっても弟子たちにとっても、イエスとは数年間寝食を共にした深い関係性があり、その存在を忘れるはずがありません。彼らには、復活者がイエスだと分かって当然です。しかし生前のイエスに会ったこともないパウロは、どうしてイエスだと判断できたのか不思議なことです(1コリント15:8)。だから復活とは、復活者に出会ったと思った人がそれをどう考えたのかということだと思います。あったか否かというより、体験者に何をもたらしたのかが重要なのです。

 弟子たちはどうだったでしょうか。裏切って見捨てたイエスに対する罪悪感は凄かったことでしょう。それに耐えきれずにユダは自死しました。弟子の中には、イエスの怨霊が復讐に来ると恐れた者もいたかもしれません。そういう彼らにとって、イエスは愛と赦しのイメージで現れたのでしょう。いわゆる「罪の赦し」です。それが「贖罪論」に展開したと思われます。

 一方で、パウロに現れたイエスは、十字架につけられたままの姿だったようです(1コリント1:23,2:2、ガラテヤ3:1)。パウロも十字架刑の情報は知っていたので、それでイエスと分かったのでしょう。律法では神の呪いでしかない十字架刑を神が肯定したことにより、パウロの中で価値観が転換したと思われます。律法主義に苦しんだパウロはそこから解放されて、立派でなくてもそのままで赦される恵みを、十字架のイエスの姿から示されたのでしょう。 

 本日の個所では、マリアはイエスにすがりつこうとして拒否されています(17節)。彼女にとっては、過去のイエスとの関係が全てであって(13,15節)、それを絶対に手放せないのです。いわば過去に縛られた生き方です。しかしそこから解放されて、自立して生きることを示されたのかもしません。マリアはそのことを「わたしは主を見ました」と言い表したのでしょう(18節)。

 さて、それなら私たちはどのような復活のイエスに出会っているのでしょうか。そしてそのイエスは、私たちに何をもたらしているのでしょうか。それは一人一人違うものだし、その人なりの受け取り方があっていいと思います。私ならば、イエスを通して神の無条件で絶対的な愛を示されていると言えます。それが私にとっての復活のイエスとの出会いであり、自己肯定の根拠でもあります。 

(牧師 藤塚聖)

2025年4月27日(日)10:30~

   聖書  詩編6編1~11節

 説教 「祈りを聞きたもう神

​ ​牧師 藤塚 聖

 以前説明したように、詩編は幾つかの種類に分けられます。その主なものは、神に向けての「賛美」、「感謝」、「嘆き」です。その内でも「嘆き」が圧倒的に多く、150篇の半分を占めます。人が抱える苦しみはそれだけ大きいということでしょう。

 6篇の詩人は、死を予想する病を患っていたようです(3,6節)。現代なら簡単に治るものでも、古代では不治の病になることもあります。それほど医療は粗末なものでした。治療方法としては「薬」、「呪術」、神への「祈祷」がありました。薬は庶民には手が届かないほど高価であっても、殆ど効果は無かったでしょう。呪術は、病気を引き起こす元凶である悪霊を封じ込めるものと考えられました。また病気は神による罰とも考えられたので、祭儀と祈祷で神をなだめる方法もありました。しかしこれが社会常識になると、病人は犯した罪のせいで病気になったとして社会から疎外され、病はさらに悪化することになりました。

 そのために、詩人は病気の癒しを求めるだけでなく、周囲から受ける無理解や差別からの救済を求めています(8,9節)。特に、そのような抑圧や疎外を「敵」(11節)という強い言葉で表現していることからも、それが本当に酷いものだったと想像できます。

 さて、この詩の注目点は、神が嘆きを聞いて、祈りを受け入れている(10節)という部分です。たとえ聞かれたとしても、それが叶うというわけではないし、病気が癒されたという宣言ではありません。聞いてもらったということで一応終わっているのです。その点では神は沈黙しており(4節)、詩編では珍しいことではありません(6:4、28:1他)。

 古代オリエントにおいて神は基本的に「戦争神」であり、人々は戦いに勝利する神を自国の神にしました。このように、祈願して効果が無ければ、別の神に鞍替えしたのです。しかしイスラエルの場合は唯一神信仰であり、神の存在は疑いようもなかったようです。訴えや願いが叶うか否かに関わらず、神とは祈りの対象であり続けたのでしょう。そう考えるならば、詩人にとってこの祈りは叶えられなくても、神への信頼は変わらないのだと思います。

 神学者の八木誠一氏は、伝統的な意味での祈りはしないと語っています。

 自分は何も祈らないし、何も求めないと。それは神が人の祈り以前から全てを知っているからだということです。それでももし祈りというものがあるのなら、自分が間違った道を行くときは正してほしいということだけだと言うのです。

 6篇の詩人とは対照的に見えますが、私はご都合主義の神ではないということで共通するものを感じます。この詩人も、結果がどうあれ、自らの祈りが聞かれていることを信じて、この先も祈り続けるのでしょう。確かに祈りを聞いてくれる神への信頼があるならば、それで十分なのではないでしょうか。それ自体が生きる大きな支えだと思います。

(牧師 藤塚聖)

2025年5月4日(日)10:30~

   聖書  詩編15編1~5節

 説教 「礼拝者の資格

​ ​牧師 藤塚 聖

 教会の聖餐式では大抵式文が用いられます。その「制定語」としては、第1コリント書11:23以下が朗読され、そこには「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」(27節)とあります。背景としては、コリント教会内で富める者が貧しい者を無視して共同の食事が出来なくなり、パウロはそれを教会にとって「ふさわしくない」と厳しく批判しました。元々はそういう意味ですが、聖餐式で読まれると、パンと杯を受けていいのか否か自分を吟味せよという意味に聞こえます。私はそんなに厳しいものなら、最初から遠慮した方が無難なのではと思ったものです。

 聖餐式とは違いますが、古代イスラエルではエルサレム神殿に入る時には、それに「ふさわしい」者かどうか入り口で審査されたようです。まず祭司が参拝者の資格を問い(1節)、続けてその具体的内容が示されました。それらは全て正しい生き方をしているかどうかという問いかけであり、肯定文の条件が3つ(2節)、否定文の条件が3つ(3節)、さらに肯定文の条件が3つ(4節)、否定文の条件が2つ(5節)、これらを祭司が参拝者に質問しました。そして最後に、条件を満たした者に祝福の言葉が告げられました(5節)。

 条件の中で、「正しいことを行う」(2節)、「主を畏れる人を尊ぶ」(4節)等は抽象的です。片や「利息や賄賂を受けない」(5節)というのは非常に明快です。全体をまとめるならば、その本質は「隣人愛」と言えます。

 しかしながら読んですぐに分かるように、これらはあくまでも「自己申告」であり、祭司にはそれが本当かどうかは判断できません。それ故にこの審査は形だけだったと推測されます。それよりも、神殿に入るには神に「ふさわしい」者にならねばならないとして、この詩篇は教育用として後世に伝えられたと思われます。つまり神の前に出るには、隣人愛を実践していなければならない、神が聖なる存在であるように、自分もそれにふさわしくあらねばならない、という強い自覚がその根底にあったのではないでしょうか。 

 さてこのことを私たちに当てはめるなら、どんな思いをもってこの礼拝に参加しているでしょうか。自分はここにいてふさわしい者かどうか考えたことがあるでしょうか。それだけ隣人愛を実践しているという自信はあるでしょうか。

 教会の礼拝の形式は、大きく分けると「罪の告白」、「赦し」、「感謝」、「祝福と派遣」となっています。ここから分かるように、まず礼拝の最初で私たちは「愛する」ことを決定的に欠いた者として反省することでしょう。それでも神の無条件の赦しを受けて、愛の実践を自覚しながらこの世に派遣されます。この繰り返しが信仰者の歩みだと思います。そのためにも、毎週の礼拝において神の愛と赦しを充分に受けとめて、自分への思いわずらいから解放されたいものです。そしてその思いわずらいを他者に目を向ける力に転換したいと思います。自分のことが大丈夫になったら、その力を別のことに使えばいいのです。

(牧師 藤塚聖)

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