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​過去の礼拝説教集2024年7-12月

2024年7月7日(日)10:30~ 

   聖書  マタイによる福音書8章23~27節

 説教 「教会を信じる

​ ​牧師 藤塚  

 

 「使徒信条」は、2世紀後半の洗礼告白文だった「ローマ信条」がもとになっています。4世紀には西方諸教会で広く用いられるようになりました。かつてはイエスの12人の弟子たちが持ち寄って出来上がったとされましたが、ルターはその伝説を破棄して3つに区分しました。その考え方は現代でも受け入れられています。

 全体としては、「父なる神」、「イエスキリスト」、「聖霊」が順番に取り上げられて、この三つを信じるという単純な形です。そしてその三つに夫々説明文がついているので、これだけの文言になっています。最後の「我は聖霊を信ず」の後に、「聖なる公同の教会」含めて5つの事柄が続いています。この5つは父、子、聖霊のような信じる対象ではなく、聖霊の働きの結果として挙げられています。だから私たちは、教会というものは聖霊の働きとして存在していると考えるべきです。しかし時として、教会そのものが信仰の対象として神性化されることもあります。パウロが教会は「キリストの体」(1コリント12:27他)といったことも影響しているかもしれません。

 嵐の中の舟の話は、教会について改めて考えるきっかけになるでしょう。というのは、教会が順調なとき、私たちは自分たちの力でそうなっていると思いがちだからです。自分たちで教会をコントロールできると。聖霊の働きの結果であることを忘れるのです。だからそのことを思い知るために、舟である教会は繰り返し嵐に遭う必要があるのです。

 それなら、教会を存在させる聖霊の働きとは、どういうものなのでしょうか。あえて言うなら、人を人たらしめるものかもしれません。二つポイントがあります。一つは、人の思いを超えて向こうから与えられるということです。考えてもいなかったことが、必然としてやるべきこととして与えられたという経験は誰でもあることです。自分で考えたというより、必然としてそうせざるを得ない使命となるのです。私たちの伝道所では、「がんカフェ」を始めて一年になります。提案者のMさんはご自身の病の体験がきっかけで、樋野興夫先生に出会い、その働きに参画したいと思われました。これも必然として与えられた使命ではないでしょうか。

 もう一つのポイントは、人を解放するのが聖霊の働きだということです。人が本当の自分を取り戻すのです。国際人権法研究者の藤田早苗さんの講演会で、親に虐待された参加者が、「自分には人権がある、人としての尊厳があると初めて知りました」と言ったそうです。人がありのままの自分を受け入れるのは簡単ではありませんが、聖霊はそれを可能にするのでしょう。

 教会の衰退が問題になっていますが、究極的には人がどうにかできるものではありません。私たちに出来ることは、抽象的ですが、教会を聖霊が働く場所とすることだけです。3世紀に、カルタゴの主教キプリアヌスは「教会の外に救いはない」と言いました。教会外の者は救われないという排他的な意味ではなく、自分にとって救いは教会の中にあったという宣言です。私たちの人生と教会との関りを考えた時も、教会と関わっていなければ、今の私は存在しなかったと言えるでしょう。教会の外ではなく内にそれがあったのだから、これからも与えられた教会を大切にしていきましょう。

(牧師 藤塚聖)

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2024年7月14日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書5章11~20節

 説教 「現代における悪霊

​ ​牧師 藤塚  

 

 イエスによる悪霊払いは、通常ならば、悪霊が追い出されて癒された病人は家に帰るという話です。しかしここではイエスに命じられた悪霊が豚の群れに入り、豚が溺れ死ぬという要素が加わっています。そこには色々な背景がありそうです。

 この癒された人は、ヨルダン川東側の地域に住んでいたゲラサ人でした(1節)。彼は暴れて鎖や足かせを壊してしまい、拘束できないので、人里離れた墓場に追いやられていました(5節)。大声で叫び、自らを石で打ち叩くなど(4節)、自傷行為を繰り返しており、精神的疾患としてかなり重症でした。

 この人を苦しめる原因は何だったのでしょうか。悪霊はレギオンと名のり(9節)、ローマの軍団を指しています。軍団は千人から6千人の歩兵と、120人ほどの騎馬兵で構成されていました。デカポリス地区の住人たちは占領軍であるレギオンから日常的に抑圧されていたので、皮肉を込めて悪霊をそう呼んだのでしょう。彼もローマ兵から酷い目に遭い、精神を病んだのかもしれません。現在のウクライナやガザの状況から分かるように、占領軍により土地や家を奪われ、肉親を殺され、心身ともにボロボロになってもおかしくないからです。

 連日ニュースになっているガザは、紛争前から地区全体が収容所状態だったようです。分離壁により移動の自由はなく、福祉、医療、教育は行き届かず貧困が深刻化していました。ハマスがかろうじてそれを支えていたのです。ガザ市民は悪霊はレギオンならぬイスラエル軍だと言うことでしょう。

 そしてそのレギオンが乗り移った豚の大群は、湖に飛び込んで溺れ死んでしまいました。豚はユダヤ人が忌避する動物の代表であり、レギオンが豚もろとも溺れ死んだのは、ローマの占領軍が全滅することを願った住民の恨み辛みの思いが反映しているのでしょう。

さて、この話から私たちは何を考えるべきでしょうか。古代人にとって悪霊は「名はレギオン、大勢だから」(9節)とあるように、人を圧倒する大きな力でした。病気や精神疾患だけでなく、自然災害や大惨事も悪霊の仕業と考えられたので、人にはなすすべがなかったのです。その点では現代の私たちも同じかもしれません。先ほどのガザやウクライナの惨状を前にして、どうにもならない大きな力に対して私たちは無力を覚えます。誰もが平和を願いながら、どうして止められないのだろうかと。また大勢が当たり前と思っている社会で、それに異を唱えることがどれほど大変なことかと。社会的少数者が生きやすい社会は、誰もが生きやすい社会であることを知っているはずなのに。朝の連続ドラマ「虎に翼」を観ると、世の中の意識はその当時とあまり変わってないように思います。しかし寅子のように「はて」と言って、諦めることなく、おかしいことにはおかしいと目覚めていなければなりません。

 ただ悪霊は憑りついたままでなく、払われるものです。このゲラサ人がイエスにより正気にされたように(15節)、私たちも聖書を通してイエスに出会い、その言動をとおして正気にされていきたいものです。

 (牧師 藤塚聖)

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2024年7月21日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書5章23~34節

 説教 「安心して行きなさい

​ ​牧師 藤塚  

 

 この話のポイントは、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)というイエスの言葉です。そこでよく問題になるのは、この女性の「信仰」とはいかなるものかということです。普通に考えると、これは教会で言うところの「信仰」ではないと思います。だからよくある説教は、この女性の不完全な信仰がキリストへの正しい信仰へと変えられた、だから救われたというものです。その間にイエスの癒し(29節)があり、それに対する彼女の信仰告白(33節)があったと見るのです。要するに、正しい信仰を持ったから救われたということです。

 しかしこれでは予定調和というか余りに教科書的です。もっとこの女性の現実に想像力を働かせるべきでしょう。彼女の病気は不正出血と思われます(25節)。本来女性の生理には社会的配慮が必要なのに、旧約の律法においてはとんでもない話になっています。レビ記5章によると、血による穢れが問題とされ、生理期間中は隔離状態になります。ましてや不正出血なら日常生活は成り立たず、社会から排斥され、人前に出ることは不可能だったでしょう。外で見つかれば厳罰です。彼女は12年間苦しみ続け、医者にかかるたびに悪くなり、財産を使い果たしました(26節)。自死を考えたかも知れません。イエスの評判を聞いて、これが最後とわらにも縋る思いでやって来たのです。それがイエスの服に触れると、治ってしまいました(29節)。

 彼女は病気の治癒だけでなく、イエスの言葉により救われたと思います。彼女のしたことは、イエスへの信仰と言うより治るならイワシの頭でも何でもいい一か八かの賭けです。それでもイエスは「あなたの信仰があなたを救った」(34節)、つまり自らの必死な行動が、自らを救ったと言ってくれました。今までやってきたことは無駄にはならず、これまで否定ばかりされてきた彼女にとって、初めて肯定される体験だったのではないでしょうか。

 そして「安心して行きなさいと」(34節)とイエスは言いました。あなたは何も悪くないし、神に呪われているのでもない、祝福された者として生きていきなさいという宣言です。その後の人生の中で、彼女は別の病気を患うかもしれません。しかしこの言葉を忘れないなら、どんなことがあってもきっと乗り越えていけるでしょう。

 昔この箇所で先輩の牧師が語った説教が印象的だったので、今でも覚えています。この女性に信仰があったのではない、治れば魔術でも何でもよかったのだから。しかし触れた相手がたまたま良かったという内容です。つまり私たちがどうであろうと、絶対的な恵みが先行しているということです。信仰が無ければ救われないという話ではないのです。

 私たち自身のことを振り返っても、道を究めた結果キリスト教に辿り着いたのではないと思います。親の影響とか、近くに教会があったとか、不思議なご縁としか言いようがありません。この教会とのつながりもそうです。私たちもたまたま手を伸ばしたら、「イエスの服に触れた」のです。このようにしてイエスに出会えたのですから、「安心して行きなさい」という言葉を繰り返し受け取っていきましょう。

 (牧師 藤塚聖)

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2024年7月28日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書5章35~43節

 説教 「死は終わりではない

​ ​牧師 藤塚  

 

 会堂長ヤイロの娘をイエスがよみがえらせた話は、私たちに何を示しているのでしょうか。まず会堂長とは、各地にある会堂の責任者のことです。そこでは礼拝だけでなく初等教育や裁判でも使われました。会堂長は内容面には関わらず維持管理や運営にあたり、礼拝では説教者や朗読者を選ぶのが仕事だったようです(ルカ4:17他)。
 その会堂長ヤイロの娘が危篤になり、イエスに助けを求めました。しかし残念なことに、家に向かう途中で死亡が伝えられました。それでもイエスはそれを全く問題にせず、娘のところに向かったのです。家では、彼女の死を悼む人々が泣き叫んでいました(38節)。そういう役目の仕事があったようです。遺族の気持ちなど関係なく大騒ぎするので、習慣とはいえ迷惑なことだったでしょう。そこでイエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人と両親だけを立ち会わせました(40節)。この三人の弟子は重要な場面に必ず居合わせるので、特別に信頼されていたのでしょうか(37節)。彼らの前で、イエスが呼びかけると、死んだはずの娘は起き上がり、歩き出したのでした。
 この話をどう考えればいいのでしょうか。イエスは神だから特別なのだというなら、同じようなことをペテロやパウロも行っています(言行録9:40、20:10)。やはり解釈が必要だと思います。聖書学者のブルトマンは、聖書の「非神話化」を提唱しました。聖書は古代の文書なので、神話的な世界観が前提にある、だからそれを除いて、今の私たちへの語りかけとしてとして聞くべきだというのです。彼によると、この話は生と死をつなぎ合わせる物語ということになります。
 「先生を煩わすには及ばないでしょう」(35節)という伝令の言葉は、死に対して無力な人間の限界を表しています。しかしイエスはこれを完全に無視して、皆の動きが止まってしまっても、さらに前に進み続けています。死が終わりではなく通過点でしかないように。
 皆が泣きわめく中で、イエスは「子供は死んだのではない、眠っているのだ」(39節)と言ました。あざ笑う者たちの常識を無視して、死は断絶ではないことを示しました。そしてまるで昼寝している人を起こすかのように、「起きなさい」(41節)と呼びかけて、歩きだした娘に普段の食べ物を与えるように指示しました。それは死が絶対ではなく、普通の日常が復活の命であるということです。だから何も「恐れることはない」(36節)のです。イエスにとっては、生と死の境界線は決定的なものではないのかもしれません。それ故に命の根源である神を「ただ信じなさい」(36節)というのでしょう。
 ナチスに抵抗した神学者のボンヘッファーは、収容所で処刑される前に、英国のベル主教に「これが最後です、私にとっては生命の始まりです」という言葉を残しました。彼も死が終わりではないと信じていたと思います。死は断絶ではなく、それによってすべてが終わるのではありません。復活の命につながるものとして、毎日の日常と自分の人生があるということ、そこに目を向けながら生きることが大切ではないでしょうか。

 (牧師 藤塚聖)

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2024年8月4日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書5章33~37節

 説教 「信仰は幻想か

​ ​牧師 藤塚  

 

 先週は、会堂長ヤイロの娘の蘇生について考えました。聖書学者ブルトマンに倣ってこの話を「非神話化」するならば、イエスが「死」を特別視することなく「眠っている」と言うことから、死が断絶ではなくて復活の命の通過点に過ぎないことを教えられました。それにしても、病気の癒しならまだしも、死者の蘇生をどう理解すればいいのか分かりません。ただある解説のように、元々は娘の癒しの話が、伝承される過程で死んだ娘の蘇生の話にまで誇張されたというのならよく分かります。
 さて編集者のマルコは、ヤイロの娘の蘇生と不正出血の女性の癒しを結合しているのですが、その意図はどこにあるのでしょうか。娘の年齢と女性の病の期間を12年に合わせたのも理由がありそうです。いずれにしても、二つの話には共通点があるように思います。イエスの言葉に、「あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい」(34節)、「恐れることはない、ただ信じなさい」(36節)とあるように、「信仰」ということについて語っているようです。
 ただし、ここでの「信仰」と「信じる」は、私たちが教会で普通に使っているそれではありません。もっと広い意味で使われていて「信頼」や「安心」に近いのではないでしょうか。特に12年間病に苦しんだ女性は、治りさえすれば何でもいいという思いだったでしょう。怪しげな呪術でも祈祷でも聖水でも治るなら何でもいいのです。鰯の頭も信心からと言われるように、それが一時的な気休めにすぎなくても、信じたもの勝ちと言えます。でもそれは根拠のないものに頼ることになり、いわゆる「幻想」ではないでしょうか。
 「信仰」とは信じる者にしか分からない領域であり、他人が簡単に正否を判断できるものではありません。信じる者にとっての真理は証明不可能だからです。だから他者から幻想と言われて仕方ない面もあります。しかしどんな宗教や信仰でも、そこに真理があると言える目安はあると思います。それは人としてまっとうに生きているかどうかです。そしてまっとうな生き方には肯定感と死生観が伴うはずです。
 私は「安心して行きなさい、恐れることはない、ただ信じなさい」というイエスの言葉から、生きることへの絶対的な肯定感と命への信頼感を示されます。つまり「幻想」ではない「信仰」とはそういうものだと思うのです。「肯定感」とは、自分を認めて他者も認めること、色々あっても人生はいいものだと思えることです。「命への信頼」は生と死についての見通しを持つことです。
現在社会問題になっている宗教カルトはそうではありません。二元論的な世界観により、人を善と悪の領域に分け、今の世を否定して歪んだ彼岸への願望を中心にして生きています。本人は幸せかもしれませんが、周りもそうであるようには思えません。私たちの信仰にも幻想の部分はあるかもしれません。しかしそれが人としての道に背かないで、まっとうな生き方を後押ししているのなら、それは信仰として間違っていないのではないでしょうか。

(牧師 藤塚聖)

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2024年8月11日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書6章1~6節

 説教 「マリアの息子イエス

​ ​牧師 藤塚  

 

 「使徒信条」の前半部分に、「主は、聖霊によりみごもられ、処女マリアより生まれ」とあります。これは、マタイとルカの「誕生物語」からも分かるように、イエスは特別な存在なので、普通の誕生ではないという信仰を表現しています。

 それに対して、マルコ福音書にはイエスの誕生物語はありません。しかしイエスの出生に関わる話は記されていて、それが今回の話です。結論としては、残念ながらイエスは故郷のナザレでは全く受け入れられなかったということです(6節)。それには幾つかの理由がありました。一つは、イエスの身元が知られ過ぎていたことです(3節)。郷里の人たちは、イエスの家庭の事情や経済状態まで知っていたことでしょう。特別な教育を受けなかったこともお見通しです。何から何まで分かっていたので、成人したイエスを尊敬できなかったのです。それは仕方のない事であり、現代でも成功者が郷里に錦を飾っても、年配者には子供扱にされるなど、どうしても予断をもって見られるものです。イエス自身が昔の預言者も同じだったと言う通りです(4節)。

 二つ目は、「マリアの息子」(3節)という呼び方です。当時は父親の名が頭に付くことで他人と見分けられていました。従って通常なら、ヨセフの子イエスと呼ばれるはずです。母親の名で呼ばれたのは、父親のヨセフが若死にして、人々の記憶から消えていたのかもしれません。しかしそれは習慣として考えにくいので、イエスの父親ははっきりしなかったというのが理由かも知れません。つまり郷里の人々は、父親が不明であったイエスを蔑む意味でこう呼んだのではないでしょうか。

 またイエスには4人の弟と複数の妹がいたようです(3節)。亡くなった父に代わって大工をして一家を養いました。イエスがおとなしく郷里で家業を続けるなら反発はなかったと思います。ある時を境に地縁と血縁を切って村から出て行き、不可解な活動を始めたことに、人々は不信感を抱いたことでしょう。律法の教師でもないのに聖書を語ることにも違和感があったのです(2節)。 

 また狭い村社会の中で、家族の中に逸脱する人がいるなら、家族全体が白い目で見られることになります。活動しているイエスを、親族や家族が連れ戻しに来たのも(3:21)、そういう事情からでしょう。血縁を切ったイエスとしては「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(3:33)と言わざるを得なかったのです。

 イエスは偏見や差別の中で、父に代わり家族を養いました。そして召命のため全てを捨てることで、さらに負い目が加わったかもしれません。こうしてみると、イエスの背負った苦労は、最後の十字架に至るまで、最初の出生の時からあったと言えます。だから差別される人、弱い立場の人の苦しみを受け止めることができたと思います。

 出生に関わる問題は、現代でも「非嫡出子」、「無戸籍の子」の問題にもつながります。イエスが「処女マリアより生まれ」たことをドグマとしてだけでなく、その背後にあったことにも心留めるべきでしょう。

(牧師 藤塚聖)

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2024年8月18日(日)10:30~ 

   聖書  ルカによる福音書4章16~30節

 説教 「肉に従って知ること

​ ​牧師 藤塚  

 

 前回は、イエスが郷里では全く信用されなかった話をしました。郷里の人たちはイエスの出生を含め、家族のことを昔からよく知っていたので、尊敬できなかったのです。

 今回の平行記事では、ルカ独自の思想が加わったために内容が大きく変わっています。ここには、キリストの福音はユダヤ人ではなく異邦人に受け入れられ広まっていくというルカの考え方が反映しています。そのために、イエスが旧約の故事を引用して(列王記上17、列王記下5)、ユダヤ人の選民意識を逆なでするような話をしたために、ユダヤ人が激怒して彼を崖から突き落とそうとした話になっています。郷里では敬われないどころか、反発されて殺されそうになったというのだから、話が全く変わっています。

 元の話に戻ると、イエスが郷里で尊敬されなかったのは、知られ過ぎていたことにあります。村の人たちは家庭の事情から何から何まで知っていました。それは予断をもって見たということです。一方で弟子たちや支持者たちは良く分かっていなくても、もっと知ろうとして従っていました。イエスを誤解していつも叱責され、最後は裏切る駄目な人たちですが、何とか離れずにつながっていました。

 それに比べると、パウロは弟子たちと違って生前のイエスを知りませんでした。そのため手紙には「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はそのように知ろうとはしません」(2コリント5:16)と書いています。私はこれを批判的に見ていて、パウロが生前のイエスへの関心を捨てて、抽象的なキリスト論に逃げたと考えていました。確かに彼はイエスについて弟子から教えを受けていたし(ガラテヤ1:18)、弟子でなかったため常にその「使徒職」を疑われていました(1コリント9:2)。それでムキになって自己弁明しています(ガラテヤ1:1)。しかし彼はある意味では弟子たちよりイエスの福音の一面を鋭く捉えたのではないかと思います。弟子たちはイエスをよく知っていたはずなのに、彼らが中心のエルサレム教会は、残念ながらイエスの言動からズレた教会だったと思います。 

 こうしてみると、パウロより弟子たち、弟子たちより郷里の人たちの方が、生前のイエスに関する情報や知識は多かったはずです。しかしそのこととイエスを深く理解することは違うのです。

現在、教会の「学びの会」では、歴史的イエスの復元について学んでいます。教理的な覆いを取り除いたら何が見えてくるのか、なぜそこから教会が成立したのか、学ぶべき点は多くあります。しかしこれもまた一面にしかすぎません。自分の狭い経験や知識により、簡単に分かったつもりになるのが一番良くないと思います。「肉に従って知ること」の限界を分かった上で、それでもそこに真理があると信じているのだから、完全には分からなくても、これからもイエスキリストを追い求めていきたいものです。 

(牧師 藤塚聖)

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2024年8月25日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書6章7~13節

 説教 「イエスによる派遣

​ ​牧師 藤塚  

 

 弟子たちはイエスにより付近の村に派遣されましたが、そこには考えるべき問題が幾つかあるように思います。まず、「汚れた霊に対する権能」(7節)については、本当に弟子にそれが可能だったのか疑問が残ります。場合によっては出来なかったこともあるからです(8:18)。このことを私たちに置き換えるとどうなのでしょうか。

 装備の貧弱さも気になります。杖一本、金銭も持たず、ほとんど何も準備もしないで赴くわけです。現地の支援に頼るということでしょうか。このイエスの宣教命令を愚直に実践した実例があります。1950年代に日本キリスト教団は、「北海道開拓特別伝道」(北拓伝)という計画により開拓伝道を行いました。全道で20か所の拠点は都市部から離れた地方が殆どでした。そこには若い伝道者が派遣され、援助が5年に限られる中で必死に頑張りました。しかし戦後のキリスト教ブームも終息し、炭鉱の閉鎖や農村の過疎化が進み、伝道は困難を極め、多くの教会は閉鎖や休止に追い込まれました。そして伝道者は深く傷つき、その5割は教団を去ったといわれています。専従者がいなくなった教会にも大きな傷跡を残しました。その反省から、後には経済的な保証制度や教会間の連帯が模索されるようになりました。

 聖書の報告は解釈なしでは私たちに当てはまりません。「悪霊追放」は、この世に穢れた人はいないこと、つまり人間の尊厳を否定する事柄と戦うことでしょうか。あるいは悪霊が祓われて人は「正気になる」のだから、悪霊ならぬ社会通念という思い込みからの解放でしょうか。

 次に、出来るだけ一か所に留まり(10節)、受け入れてもらえないなら、足の裏の埃を払い落として出て行くことが言われています(11節)。論点がずれるかもしれませんが、教会の牧師の任地や在任期間はどうあるべきなのでしょうか。「監督制」では組織の命令により任地が変わります。「会衆制」では教会員の決定が大きな力を持ちます。私たちの日本キリスト教会は「長老制」であり、簡単に説明できない微妙なところがあります。それにしても、教会と牧師の相性というものがあり、ある教会では拒まれた牧師が別の教会では大いに受け入れられることもあります。あくまでも適材適所ということなのでしょうか。適合(?)しないときはお互いが不幸なので、無理せず分かれるのが良いのでしょうか。

 最後に、イエスが二人を組ませて派遣したことは重要です(7節)。どんなに優れていても一人では限界があるし、必ず仲間が必要です。信仰においても信頼できる友人の存在は大切です。某神学者の「真実を求める人のための宗教」というエッセイに、先進国で伝統的な宗教が振るわないのは社会的に有利にならないからとありました。一昔前の欧米では、結婚や就職に有利だったようです。しかし逆に宗教にそのような利用価値がなく、真実を求める人だけがそれに近づくのは良いことだとありました。真実を求める人が少ないのは残念ですが、それだけに教会の仲間は本当に貴重な存在なのだと思います。信仰生活において同伴者が身近にいることは、決して当たり前のことではありません。

(牧師 藤塚聖)

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2024年9月1日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書6章34~44節

 説教 「みなで分かち合う

​ ​牧師 藤塚  

 教会の「学びの会」で岩波新書「イエスとその時代」を学んでいますが、著者の荒井献氏が8月16日に94才で逝去しました。東大の西洋古典学科で教え、多くの後進に影響を与えました。その研究はドイツの新約学者ブルトマンの流れを汲んでいます。このように今の新約聖書学はブルトマンを抜きに語ることはできません。私も神学生時代に、彼の著書を読んで衝撃を受けたことを思い出します。

 その著書の多くを翻訳して、日本に紹介した人の一人が川端純四郎氏です。東北学院大学のキリスト教学科で長く教師をされました。川端氏はブルトマンから直接指導を受けた方なので、その「ブルトマン研究」(未来社)を楽しみにしていました。しかし結局は出版を断念して未完に終わったことは非常に残念でした。

 それでも後になって、雑誌に「マルクス、ブルトマン、バッハから学んだこと」というエッセイが連載されて、その人生と問題意識を知ることができて興味深かったです。ドイツ留学の渡航途中に、南アジアとアラブ諸国で圧倒的な貧困を見て、自分の25年間の信仰を問われたとありました。その経験からマルクスを読み、信仰を歴史的社会的に考えるようになったと言います。そして次の問題が、歴史的社会的に制約された人の言葉である聖書が、神の言葉であることをどう考えるかでした。そこで手掛かりの一つとして記述言語と宗教言語の違いを紹介しています。本来なら、宗教的な真理は言葉では言い尽くせない、しかし他に方法がないので記述言語を用いる、だからその矛盾を分かっておく必要があるというのです。そして最後に言いたいのは、その矛盾にも関わらず、聖書が私たちに訴えるものがあるなら、それが神の言葉だということです。だから聖書がドグマとして神の言葉で「ある」のではなく、人にとって神の言葉に「なる」ということなのでしょう。

 さて、そうであるならこの5千人の食事の話は、この私たちに何を語りかけるのでしょうか。人によりそこから何を聞き取るかということです。ある人にとっては、神の子イエスの奇跡的な力を感じるかもしれません。また別の人は、僅かの物あるいは小さな働きが大きな結果をもたらすことを感じたかもしれません。

 この話は8章にも別の話として繰り返され、他の3つの福音書にもしっかり記されています。それくらい初期の信者にとって重要な話だったということです。時代状況として、他人との食事では厳しく相手を選ぶものです。罪人との同席はあってはならないからです。しかしここではイエスは全くお構いなしに、来る人を拒まず受け入れて、誰も排除されなかったことが驚くべきことでした。そしてそこにあった食物が僅かでも、分け隔てなくみなで分け合ったことで、参加者は今までにない経験をして心が満たされたことでしょう。そういう感動がこの話の基礎にあったから、幾つものバージョンで伝承されたのではないでしょうか。

 私もこの話から、何の制限も条件もなく、受け入れ合い分かち合うというおおらかで温かいものを感じます。そこにいるだけでいいからです。だから神は私たちを無条件に受け入れて満たしてくれるという安心感があります。そして私たちは神とそういう関係なのだから、きっと隣人とも分かち合っていけるのでしょう。

(牧師 藤塚聖)

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2024年9月8日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書6章45~52節

 説教 「神と人の距離

​ ​牧師 藤塚  

 イエスが病人を癒したり悪霊を追い出す話しは、実際にそうだったのだろうと思います。しかし湖の上を歩いて、舟の弟子たちのところに行った話しには戸惑いを覚えます。イエスの奇跡物語は、「神顕現の奇跡」、「自然奇跡」、「治癒の奇跡」の三つに分けることができて、「治癒の奇跡」は事実に近いけれども、この「水上歩行」を含む「神顕現の奇跡」は信仰によって成立したと言えます。従ってこの話は人間イエスというより、神的存在としてのイエスに対する信仰告白として読めばいいのだと思います。神が嵐や海を支配するのは旧約の伝統であるし、神の力を持った人が海の上を歩く話は、ヘレニズム世界にも多くあるようです。

 昔から教会は嵐の中の小舟に例えられてきました(4:35-41参照)。教会はこの世という荒海の中でどんなに翻弄されようとも、イエスが共にいるのだから大丈夫だということを語り伝えて来たのです。

 今回は別の面から考えてみたいと思います。それはイエスがいる場所と弟子たちのいる場所の大きな違いです。イエスは弟子たちを舟で先に行かせて(45節)、自分は祈るために山へ行きました(46節)。だからこのことは、両者が全く違う場所にいることを意味しています。弟子のいる湖や海は、古代では魔物がいる恐ろしい場所です。それに海はいつも凪とは限らず不安定なので、冷静ではいられません。案の定弟子たちは完全に自分を見失うのです(49節)。それと対照的に、イエスは山の上にいます。山は古代から神が現れる神聖な場所であり、何があっても動かず安定していて、遠くまで見通せる場所です。イエスからは、弟子たちが逆風で漕ぎ悩んでいるのが手に取るように見えるのです(48節)。

 もし可能なら、弟子たちは自分たちの惨めな姿をイエスのいる場所から見てみるべきなのでしょう。イエスから見ると、舟は全く沈む心配もないから、あえて助ける必要もなく通り過ぎようとしました(48節)。一方で、弟子たちは不安から慌てふためき、近づいてきたイエスが分からずに、幽霊だと思い大騒ぎしました(49節)。そこでイエスは「安心しなさい…恐れることはないと」と声をかけたのでした(50節)。 

 これを私たちと神との関係に置き換えてみるとどうなるでしょうか。私たちが生きる中で不安になり恐れるのは、全体が見通せないからです。自分の狭い視野でしか見えない、つまり解決の道がすぐそこにあり、助け手が傍にいるのに分からないのです。

 それなら山の上のイエスから私たちがどう見えているのか、俯瞰してみるとどうでしょう。自分で自分を眺めるということです。具体的にはそれが一人で祈るということではないでしょうか。イエスは不思議なほど、何かあるたびに群衆や弟子から離れて一人で静かに祈りました(1:35、45、6:46他)。

 朝日新聞(8/25)の「折々の言葉」に「山で道に迷ったときに、一番重要なことは自分の〈現在位置〉を確認するということです」とありました。地図で位置を知る場合に、自分の位置中心に考え始めないのが良いようです。まず全体を俯瞰して、その上で自分の位置を確認するということのようです。そういう上からの「平衡感覚」が大事なのでしょう。

(牧師 藤塚聖)

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2024年9月15日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書6章30~32、45~46節

 説教 「一人で祈る

​ ​牧師 藤塚

 

 今の聖書には章と節がありますが、これは後の時代に人為的に付けられたものです。簡単に言うなら、章は1200年代に大主教、節は旧約が1400年代にユダヤ教のラビ、新約は1500年代に古典学者が付けました。従って、オリジナルの文書は切れ目がなかったので、どこで区切るかは読者の判断に委ねられました。しかし章と節があることで、さらには「新共同訳聖書」のように見出しがあることで、読み方が制約されて誘導される面があります。

 例えばマルコ6章は、見出しに従うなら、次から次に色々な出来事が起こったのだとしか読めません。しかしそれを無視するなら、もっと些細なこととして、イエスも弟子たちも休息がなくて働き過ぎていることに気づかされます。弟子たちはイエスに代わって村々に派遣されました(7節)。そしてそこでの報告を持ち寄って(30節)、今後の活動に生かすと共に、休息と祈りの時が必要でした(31節)。しかしその機会が不測の事態によって、ことごとく奪われてしまうのです。イエス一行は舟で人里離れた所に向かうのですが、それを知った人々は集まってくるのでした(33節)。また、5千人の食事の後で、イエスは弟子たちに静かな環境を与えるために先に舟で送り出し、自分も群衆から離れて、祈りのために山に行っても(45節)、弟子たちが強風で舟を操れないので、自ら助けに行かざるを得ませんでした(50節)。

 つまりこの一連の話からは、人のために多くの働きをするためには、それ以上にできるだけ静かな時を持ち、一人で祈る時間が不可欠だというのが隠されたテーマなのではないかと思います。それなら静かに一人で祈るとはどういうことなのでしょうか。

 イエスによると、人に見せびらかす祈り、くどくどと長い祈りは批判されています。また祈りは基本的に密室の祈りだということです(マタイ6:5以下)。また神は私たちが願う前から、私たちに必要なものを分かっているというなら、そもそも祈りにおいて何かを願い求める必要があるのかとも言えます。何か目的があり、神にその声を届けるために、教会が何十日間も連続祈祷会を行うことなどは論外ですが、教会の祈祷会の意味そのものが問われるように思います。

 最後に、私共の教会の勉強会で不評だった二人の著者の言葉を紹介します。八木誠一氏は、基本的に祈らない、もし祈るのなら神の御心が成るようにだけ、加えるなら、間違ったときは教えて下さい、これだけだと言います。D.ボンヘッファーは、信者は一日の中で黙想の時間を必ず設けなければならないと言います。その内容は、聖書を読み思いめぐらすこと、それに基づき祈ること、誰かのとりなしをすることです。そしてそのような個々の信者の黙想の時間は、全ての教会に対する神の恵みの賜物になるとも言います。

 私自身、祈りについて未だに模索している者ですが、いずれにしても、祈りは自分に向けられた思いを、方向転換して神に向けることだということは言えます。 

(牧師 藤塚聖)

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2024年9月22日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書7章1~9節

 説教 「人が幸せになるために

​ ​牧師 藤塚

 

 イエスは、パリサイ派や律法学者と数多くの論争をしていて、今回もその一つが記されています。弟子たちが手を洗わずに食事したので、それが律法違反として厳しく責められました(5節)。しかし手洗いの決まりは衛生上の問題というより、本来は祭司による神殿祭儀における規定でした。だから一般庶民には関係ないのに、それが時代の変化と共に広く適用され、庶民も縛られることになったのです。

 ある解説書によると、泥棒に入られた時の規定では、汚れたのは荒らされた部屋だけと決まっていました。しかし泥棒の中に異邦人や女性がいたら、家全体が汚れるとされたので、それを見越して泥棒に入られたら全てが汚れるというように徐々に拡大解釈されるようになりました。最初から最悪を予想して、全部が汚れるとしておいた方が安心だからです。このように律法の規定というのは、後になるほど適用範囲がどんどん拡大されたのです。

 こういうことは庶民にとっては迷惑でも、「人間の言い伝え」(8節)が「神の掟」(9節)とされるなら、それに従うしかありません。しかし神の掟の本質とは、愛に基づいて弱者を保護することです。そもそも弱小民族であったイスラエルの成り立ちがそれを物語っています。だから庶民を幸せにしない「昔の人の言い伝え」は、その本質から外れていると言わざるを得ません。

引用されているイザヤの預言(イザヤ29:13)も、権力者が神の掟を支配の道具として利用していることを指摘しています。神の掟がその本質から外れて、人が人を支配する「人間の戒め」(7節)に変質してしまっていることを、イエスははっきりと批判したのでした。

 神の掟については、その本質を外れて上辺の文字に縛られることに対して、パウロも警鐘を鳴らしています(2コリント3:4-11)。彼は律法主義にのめり込み、一方でその矛盾に苦しんだからこそ、「文字は殺しますが、霊は生かします」(6節)と言えたのだと思います。イエスの律法批判に通じるものがあります。 

 NHKの連続テレビ小説「虎に翼」が今週で完結します。脚本家の吉田恵里香さんがドラマに込めた思いを新聞やメディアで紹介していました。ドラマでは憲法14条「法の下の平等」から始まり、見えにくい差別の存在、自分の人生を自分で決めること、しかし100年前からある社会的課題が現在と地続きであることが語られていました。ドラマの場面では、家庭裁判所の父である宇田川潤四郎をモデルにした多岐川幸四郎が、病に伏せながらも、少年法の改正に強く反対して、同僚や仲間に熱く訴えた姿が印象的でした。法律は人が幸せになるためにあるんだ、罰したり責めたりするためにあるのではない、と。

 社会の制度や法律は、人が幸せに生きるために設けられています。イエスの時代の律法、つまり神の掟も本当はそういうものであるはずでした。しかし逆に生きづらい人を多く生み出し、苦しむ人を責めて罰していました。神の掟でも法律でも、本来の意図がどこにあるのか、その本質を見誤ってはいけないと思います。

(牧師 藤塚聖)

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2024年9月29日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書7章24~30節

 説教 「境界線を破る

​ ​牧師 藤塚

 

 イエスと外国人女性のやりとりには多くの問題があるので、フェミニズム神学ではここでのイエスの言動は厳しく批判されています。それまでは、イエスが批判されるとは考えたこともなかったので、とても驚きました。確かに素朴に読めば、イエスがこの女性を「小犬」に例えており、異邦人のことを「犬」呼ばわりするユダヤ人の選民意識を感じてしまいます。それでも護教的な神学者は、キリストであるイエスが差別的であっては困るので、この話を史実ではなく後の教会の創作として説明しています。しかしながら、もし史実に基づいているのなら、この話をどう考えればいいのでしょうか。

 フェミニズム神学者の絹川久子氏の分析によると、「ティルス」(24節)という地名がほぼ異国であるということです。イエスはユダヤ人のことで頭が一杯なのに、意に反して異国でギリシャ人の女性を相手にすることになりました。ユダヤ人からすると異邦人は汚れています。さらにその娘は汚れた霊につかれて難病を患っているので「不可触民」です。女性はそれらを分かっていながら、一か八かでイエスに願い出たのでした。さらに、当時は女性が男性の足元にひれ伏すとは、相手の男性に大きな恥をかかせることになり、ましてや願い出ることなど完全にタブーのようです。つまりこの女性は幾つもの境界線を破ったことになります。

 一方でイエスの意識はどうだったでしょうか。ユダヤ教のラビは女性に教えることも外国人を相手にすることもありません。イエスがラビの自覚を持っていたなら、外国人の女性など全く眼中にないことになります。その証拠に、マタイ福音書ではそうなっています(15:23)。それにもかかわらず、イエスの方から女性の申し出に対して断る理由を一応伝えています(27節)。だからイエスも少しは境界線を破ったことになります。女性にとってはイエスが差別的であっても自分に関わったことを見逃さずに、「小犬も子供のパン屑は頂きます」と言い、対話を成立させました(28節)。イエスもこの女性の中に何かを感じて、当初の考えを改めて、彼女の願いに応えたのでした(29節)。 

 絹川氏は、この一連のやり取りを「相互行為的相互関係」と呼んでいます。元々この女性は、娘の病気や酷い扱いに対して強い怒りを感じていたのかもしれません。つまり今でいう人権感覚です。イエスも病気や穢れに全く偏見をもたず、女性に対してもこだわりがありません。ただしユダヤ人意識は強いかもしれません。女性はイエスの中にある人権感覚を見逃さずに、それをさらに引き出したと言えます。イエスも女性の人権感覚に触発されて、自らの中にあるそれが増幅されて、今まで以上に自由にされたということではないでしょうか。

 人間イエスという面を考えると、イエスも人生経験の中で成長し覚醒したと考えるのが自然かもしれません。これはそのきっかけになる話だと思います。また人は相手との関係性の中で成長し変化するということも改めて考えさせられます。

(牧師 藤塚聖)

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2024年10月6日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書8章1~10節

 説教 「分かち合うべきもの

​ ​牧師 藤塚

 

 6章の5千人の食事の話では、パンが5つで魚が2匹、余りは12の籠一杯になりました。7章では4千人が7つのパンと僅かの小魚を分け合い、余りは7籠でした。おそらく同じ話が伝承される過程で、別の話として伝わったと思われます。人数の多さと少ない食料のコントラストは奇跡として誇張されているので、それよりも、イエスが僅かな食べ物を皆で分け合った点に注目したいと思います。

 最初にこの話を伝えたのは、その日の食べ物にも苦労していた人たちです。イエスは彼らに希望を与えました。満腹になるほど食べ物があったのか分かりませんが、イエスはユダヤ教の掟を破ってでも、誰一人のけ者にすることなく、分け隔てなく、皆で分かち合って食事したのでしょう。そのことが大きな驚きであり、体験者は忘れられない思い出として言い伝えたのです。誰も排除せず分け隔てしないのは簡単なことではなく、イエス後の教会でもなかなか困難なことでした(ガラテヤ2:11以下)。それをイエスは率先して実践したのだから衝撃だったのです。

 そういうことがこの話の出発点なのですが、伝承過程で旧約聖書の影響が加わりました。預言者エリシャは20個のパンで百人を養っても余りが出たと言われています(列王記下4:42)。イエスの話もこれに倣って伝えられるようになりました。こうなるとどうしても「神の人」の力による奇跡的な話ということになってしまいます。

 さて、皆で分かち合ったものが何かといえば、僅か数個のパンと少しの魚です。言い方を変えるなら、「貧しさを分かち合った」ということです。普通の考え方としては、人が共生するためには経済的な豊かさがなければなりません。弟子が言ったように、皆が満腹するには200デナリが必要なのです。しかし豊かさを分け合うだけなら、不充分かもしれません。経済的な援助は必要ですが、それ以上に貧しさを分かち合うことが人の共生する道であることを、イエスは教えているように思います。持っているものを与えるというより、貧しさと困窮を少しずつでも皆で分け合うということです。 

 世界を見て分かるように、いつもどこかが被災地になり紛争地になっています。そこにはどうしても貧しさと困窮が生まれます。だから人はそのことを我がこととして思い、それを分かち合わねばなりません。明日は我が身でありお互い様なのです。その場合、被災地でのボランティアや支援活動、支援物資や支援金の調達が考えられます。しかしそれができなくても、現地のことに目と耳を向けることはできます。

 現在のガザ地区の惨状に関して、日本文学研究者のロバート・キャンベル氏は「まず現地で何が起きているかを知り、考えること…、周りの人と話題にしていくこと…、情報を受け取るだけでなく、自分の考えを自分の言葉で示していくことが重要だ」と言っています。知って語ることは、現地の困窮を分かち合うことになるのでしょう。

(牧師 藤塚聖)

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2024年10月13日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書8章11~21節

 説教 「しるしを求める理由

​ ​牧師 藤塚

 

 マルコ福音書の書かれた理由の一つが「弟子批判」です。弟子たちにより成立したエルサレム教会は、イエスの活動を継承したとは言えません。マルコは、イエスのいた時もいなくなった今も、弟子たちは無理解だったと語っています。

 確かに、彼らはイエスのことを幽霊だと騒いだり(6:49)、誤解したりして(8:30)、何度も叱責されています。特にここでは「まだ分からないのか、悟らないのか、心が頑なになっているのか、目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのか、覚えていないのか」(17-18節)とたたみかけるようにして徹底的に批判されています。だからその点では、弟子たちも論争相手のパリサイ派とかわらずに、イエスを理解できないままなのです。

 さて、そのパリサイ派はイエスに「天からのしるし」を求めました(11節)。それまでも、彼らはイエスが病人を癒したり、罪の赦しを宣言した時に、それを神への冒涜と見なしました(2:7)。だから、もしもイエスが神から権威を与えられているのなら、そのしるしを見せてみろというのです。具体的には何か奇跡を起こすことでした。

 パリサイ派も弟子たちも彼らなりの宗教的ドグマがあり、その中でイエスを理解しようとしました。当然ながらイエスはドグマのために生きているのでないので、そこに収まるはずがありません。ドグマで凝り固まっていると、それを認めない相手には怒りや憎しみが生まれるものです。本来ならパリサイ派とヘロデ派は立場的には相いれない関係ですが、イエスへの攻撃では完全に一致して結託したのでした。両者が混じり合い化学反応を起こし、怒りと憎しみが倍増されて膨れ上がる様子を、イエスは「パン種」と表現しました(15節)。

 一方で弟子たちは持ち合わせのパンが足りないことばかり心配して、かつて彼らが経験した5千人の食事と4千人の食事から何も学んでいないことを証明してしまいました(21節)。あの経験を生かして、何も心配ないと悟るべきだったのです。ドグマに縛られているから、肝心なことが分からないのでしょう。

 さて、私たちも自分のドグマ(信仰)の中で、イエスを知ろうとしていないでしょうか。しかしその狭い信仰には収まらないので、私たちは不安になって、目に見えるしるしが欲しくなるのです。例えば、信仰に奇跡的なこと求めたり、祈りは必ず叶うと思い込むのは、そこにしるしを求めるからです。聖書を絶対化するのも、それを目に見えるしるしとしたいからです。

 イエスは弟子たちに、あの時の食事のことを思い出せ、まだ悟らないのかと言いました(21節)。すでにあのような恵みを経験しているではないかということです。私たちも不思議にもこうして教会生活を続けています。イエスキリストに出会って神と繋がっていること、信仰の仲間がいること、信仰生活を通して多くを学んできたこと自体が素晴らしいことなのです。保障となるしるしではなく、すでにある事実に目を向けることが大事なのではないでしょうか。

(牧師 藤塚聖)

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2024年10月20日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書8章27~33節

 説教 「私を何者だと言うのか

​ ​牧師 藤塚

 私たちにとって、イエスキリストはどういう存在なのでしょうか。かつて教会では歴史的イエスの探求が大きなテーマとなり、信仰のベールを取り払った人間イエスが如何なるものか議論されました。結果は宗教的天才、愛の実践者、民衆解放の闘士など、研究者の理想像が投影されたにすぎませんでした。

 イエスの時代でも、色々な評判が広まっていたようです。世の中が大転換する「終末」には預言者の登場が考えられていたので、人々はイエスを預言者と見たようです。特にエリヤ、またはその再来である洗礼者ヨハネではないかと噂されました(28節)。そこでイエスは弟子たちの考えを尋ねると、ペテロは「あなたはメシアです」と答えたのです。ギリシャ語ではキリストのことなので、私たちはこれでいいと思いがちです。実際にマタイ福音書では高く評価されています(16:17以下)。しかしマルコのイエスは激しく叱っているので、ここでもまた弟子たちの無理解が描かれていることになります。

 メシアにも色々な意味があり、ユダヤ民族を復興する政治的な王を指したり、天から降る神的な存在であったりします。ペテロを始めとする弟子たちは、政治的なメシアを考えたようです。だから権力者の傍にいれば、自分たちも高い地位につけると思ったのです(10:37)。

 イエスは世間の見立ても弟子の考えも全部否定して、自分が苦しみを受け排斥されて殺されることを話しました(31節)。受難予告はこの先9章でも10章でも繰り返されるのですが、弟子たちは全く聞く耳を持ちません。それどころかペテロは、イエスの言うことを全否定しました。彼からすれば、イエスは絶大な権力者として国を復興するのだから、苦しんで死ぬことなどありえないのです。

 私たちも、イエスは死んでも復活するとして深刻に考えませんが、ただ苦しんで死ぬだけなら、それがキリストなのかと疑問を持つことでしょう。しかしそこで思考停止したら、私たちもペテロと同様に何も分かってない者として、「サタン、引き下がれ」と強く叱責されることでしょう。

  ティリッヒいう神学者はこの聖書箇所を解説して、人は神の真理に耐えられない、真理は人の営みへの挑戦だから、人はそれを排斥して潰そうとすると言います。確かに、ペテロはイエスの言うことを認めずに潰そうとしました(32節)。つまり人は神のイメージを変えたくないのです。従って、この話では「神」とか「救済」に関して世間一般で言われるのと全く違うことが語られています。苦しんで死んでいくイエスの中に、神の真理を見ることができるかどうかです。

 私たちの常識では、神は絶対者として高い所にいて、そこから人を救済するイメージがあります。しかし神は助ける側ではなく、助けられる側にいるのではないかということです。ユダヤ人画家アイヘンバーグの木版画「炊き出しの列に並ぶキリスト」では、キリストは炊き出しする側ではなく、それを受ける側に並んでいます。そこに真実を感じるのなら、神の真理に少し近づいているかもしれません。 

(牧師 藤塚聖)

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2024年10月27日(日)10:30~ 伝道礼拝

   聖書  ヨハネによる福音書17章24~26節

 説教 「神様を知る喜び

​ ​牧師 西橋直行

 

 高槻教会の高井孝夫牧師は、娘さんを「知子」と名付け、「神様を知る」だけでなく「神様に知られるように」付けたと言われていました。

 私は、戦前、日本は神國で、戦争をすれば必ず勝つという教育を受けましたが、負けてしまいました。果たして本当の神はどこにおれるのかと、色々本を読み、キリスト教に関心を深めました。大学に入ったら教会に行こう、と思い、九州から大阪に来て、高槻教会に出席するようになりました。 当時、親の仕送りは十分でなく、私は、大学時代、アルバイトをしながら、日曜日には、欠かさず教会の礼拝に出席しました。教会の人は皆優しく、ある婦人は、ご自分の郵便通帳を差し出して「困った時に使ってください、余裕ができた時に返済してくれたらいい」と言われました。ある婦人は、高校生の娘に、英語を教えて欲しいと頼まれました。知子ちゃんにも高校受験の時英語を教えました。現在、幼稚園の先生をしているようです。 高槻教会での最初の牧師、渡辺信夫先生は、一年後の洗礼準備のために、ジュネーブ信仰問答が使われ、その第一問は「人生の主要な目的は何ですか。」答えは「神を知ることです。」となっていました。   

 私は戦前は誤った神を知らされましたが、教会で初めて本当の神様に出会った思いで、これまで喜んで教会生活を過ごしてまいりました。人一倍長生きをして、教会生活をし、説教を通して、そして、聖書を通して、神知り、教会の交わりを通して、神が導いてくださる充実した生活を送ってきたと思っています。

 私は、今、朝起きたら、ローズンゲン「日々の聖句」という本を読み、祈ることにしています。ドイツ語で書かれた旧約聖書のヘブライ語と新約聖書のギリシャ語の聖句を引用してできた書物です。日本語の翻訳も出ており広く世界中で読まれています。夜は、昨年から新しくされた「家庭礼拝歴」を読んで、祈って休むことにしています。今日の説教箇所は、家庭礼拝歴12月22日(日)高井先生が書かれたものを参考にしましたが、普段の説教よりずっと優しく思われます。「信仰とは神を知ることです。そして、キリストの愛の支配の中にいる、私たちを見出すことです。」とあります。

 高校教師の定年一年前に、高井先生に「神学校に行きたい」と申しましたところ「神学校は大変ですよ。語学が大変ですよ。西橋さんは英語は問題ないでしょうが、ヘブル語、ギリシャ語、ドイツ語を勉強しなければいけませんよ」と言われました。私は「いいです。推薦状を書いてください」と粘りました。実際大変でした。今、それらの語学を毎朝、勉強しても、あまり進歩しません。しかし、毎日聖書に接することは素晴らしいことす。最近、朝は3時半頃、「お腹すいた」と泣く猫に起こされます。それからは私は語学の勉強の時間です。えさを食べた猫は、また、ぐっすり寝ています。                   

 私が牧師になる決意をしたのは、娘の挫折にも原因があります。娘の代わりに牧師になろうと思ったのです。また、高槻教会で長老を長く務めている時に、大・中会に出席し、多くの魅力ある牧師に出会ったことも、自分も牧師になろうと思ったようです。私の後、何人も定年後牧師になられた方もあります。

 私は島根県の出雲今市教会、神戸桜が丘伝道所、下館伝道所にご奉仕をしました。そして、引退後、主に平塚の金目伝道所で説教応援をしました。私は教会以外の高齢者大学等、人々とも語り合うことも多くなり、一緒に歌ったり、運動をしたりしていますが、心身共に神からいただいたものを十分用いて、少しでも神が喜ばれる働きをすることができればと思っています。    

(伝道礼拝  東京中会教師 西橋直行)

2024年11月3日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書8章31~38節

 説教 「自分の十字架を背負う

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 ペテロを始め弟子たちは、イエスのことを最後まで誤解していました。彼らはイエスを政治的なメシアと見ていて、いずれ権力を握りユダヤ人の国を復興すると思っていたようです。だからイエスが繰り返し受難予告をしても(9:31、10:33)、それが全く理解できませんでした。それどころか自分たちもそれなりの権力者になり、誰が重要なポストにつくのか、内輪で小競り合いをしていたのです(9:34、10:37)。

 ペテロもそれと大差なく、イエスの力に期待していたので、力と権威があるのにただ迫害されて死ぬことなどあり得ないとして、強く反対しました。イエスが何と馬鹿なこと言い出したのか、気は確かかと思ったのでしょう。それに対して、イエスは弟子たちとペテロを厳しく叱責しました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わずに、人間のことを思っている」(33節)と。イエスは活動を始める前に40日間サタンの誘惑を受けていたので(1:13)、それと同じものを弟子たちに感じたのではないでしょうか。

 さてここからが本題です。イエスは弟子たちに相当厳しいことを語っていますが、それを私たちはどう考えるかということです。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(34,35節)。結論としては、今ある命に固執するなら、永遠の命を失うということです。実際に、イエスは死ぬ覚悟で活動していたのだから、弟子たちにもそれを求めたのでしょう。福音書記者マルコの意図も、「殉教の勧め」です。当時の教会ではローマ帝国による迫害が強くて、多くの殉教者を出していました。だから、永遠の命があるのだから死を恐れるなと信者を励ましたと思います。

 しかしながら、私たちはこれを精神化せざるをえません。例えば、イエスの死が隣人愛の究極であるとするなら、利他的に生きることで生きがいを感じるということがあります。関心が自分のことだけなら、本当の喜びは生まれてこないのでしょう。 

 それにしても、自分が背負う「十字架」とは何なのでしょうか。あるキリスト教系雑誌で、社会学者と神父の対談を読み、少し気が楽になりました。その神父は、「十字架を背負うことは誰でも1日に10回は経験する簡単なことである、人に譲るとか、相手のことを思うとか、より普遍的なものに向かって生きようとする時に、狭い自分を振り返り、自分でない他者に目を向けなければならなくなる、そういうことだ」と言うのです。

 普通に生きていても、私たちは他者と共存していることに気づかされます。そのときに、イエスの十字架を思い、少しでも利他的になれるかどうかです。他者の痛みや悲しみを知ることは、自分も苦しいことです。それでもそれを覚えることに意味があるのではないでしょうか。 

(牧師 藤塚聖)

2024年11月10日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書9章2~8節

 説教 「日常を離れて

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 先月の伝道礼拝では、講師の先生のお話から、これまで出会った先輩の先生方を通して、大きな影響を受けられたことを感じました。本日の話でも、雲の中から「これに聞け」(9節)と声があったように、人はイエスに聞くことで変わっていくのでしょう。

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちは、イエスと山に上り、そこで神秘的な体験をしました。山の上とは、神が顕現する場所であり、イエスの衣が光り輝くことも、神との交わりを表しています。かつてモーセがシナイ山で神と接したのはその典型と言えます(出エジプト34:29)。

 弟子たちが目撃したのは、イエスがエリヤとモーセと話し合っている光景です。二人は旧約の預言と律法を代表する英雄なので、ペテロはすっかり舞い上がり、テントを三つ建てると提案しました(5節)。この感動が永遠に続いてほしいと願ったのでしょう。但し、ペテロはあまりのことに混乱していました(6節)。そしてこの光景は長くは続かず、すぐに元の状態に戻ったのでした(8節)。

 さてこの不思議な話は何を伝えているのでしょうか。弟子たちにすれば、神に近づくこの世ならぬ体験でした。しかしその感動は恐れに代わり(6節)、聞きたくないことを聞かされました。イエスを含む三人が語り合っていたことは、受難についてだったからです(ルカ9:31)。山を下りてからも、イエス自身がそれをはっきりと言っています(12節)。つまり弟子たちにとって、神を感じたこの体験は、幻想が打ち砕かれて違和感を覚えるひと時だったのです。

 このことは私たちの礼拝と関連するかもしれません。私たちは日常から一旦離れてこの礼拝に集っています。そして決して日常にはないものを受け取ります。つまり私たちは自分の常識や幻想を打ち砕かれて、そうではないイエスの言葉を聞かされます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って従え」、「自分の命を救う者はそれを失い、福音のために命を失う者はそれを救う」、「偉くなりたい者はみなの奴隷になれ」、「7回を70倍するまで赦せ」、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟姉妹、母なのだ」、「この最後の者にも、1デナリオンを支払ってやりたいのだ」等々。

 私たちは嫌な気持ちになるために礼拝に集うのではありませんが、日常と同じなら意味がないかもしれません。そのためにも、礼拝で受け取るものは非日常性であるはずです。そしてそれを受け取り、山の下ならぬ自分の日常生活に戻りますが、いつしかイエスの言葉の違和感が消える日が来るかもしれません。イエスの言葉は社会では通用しないと思っていたけれども、その社会の方が違うのではないかと。

 恐ろしくて違和感でしかなかったイエスの言葉が真理であると思えるようになるなら、それは幸いなことです。私たちの礼拝は神秘的なものではありませんが、そこにある非日常性を通して、自分の日常を見直してみることに大きな意味があるのではないでしょうか。

(牧師 藤塚聖)

2024年11月17日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書9章14~29節

 説教 「不信仰な信仰

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 イエスに癒された人の病気は、「癲癇」だったと思われます。それは、所かまわず「倒れる」「転び回る」「口から泡を出す」「歯ぎしりする」「体をこわばらせる」という様子から分かります。古代ゆえに、これは悪霊の仕業と考えられました。

 現代でも治療は難しく、脳の刺激を抑える薬を用いて症状を緩和するようです。イエスは経験から抑える術を知っていたのでしょうか。きっと絶対の自信があったので、それが相手に安心感を与え、何らかの効果があったのでしょう。それは祈りの力と言われています(29節)。イエスとすれば、弟子たちにやってもらいたいのに、全く出来ないので非常に腹が立ったと思います(19節)。しかし誰もが出来ることではないので、弟子たちには気の毒なことでした。

 この時の発作は原因が明らかで、いかにもありそうなことです。大勢の中に連れ出された息子は、それだけでも不安定になり、更に自信のない弟子たちの恐れと不安が伝染しました。それに加えて奇跡を期待する人々の興奮が、神経を過剰に刺激したことでしょう。激しい脳の緊張が頂点に達したときに、発作に伴う激しい体力の消耗により「死んだようになった」(26節)のも当然と思われます。

 さて、話の中で何度か言及される「信仰」や「信じる」ことについて考えてみます。この「信仰」とは広い意味の「信頼感」のことです。ここでは、神やイエスへの信頼だけでなく、自分への信頼、治ることや治すことへの信頼等々、色々な要素があります。しかし息子の父親にもイエスの弟子たちにも、その殆どが欠けていたようです。

 父親はイエスにその中途半端さを指摘されて、思わず「信じます」と言いつつも、すぐに「信仰のない私をお助け下さい」(24節)と本心を言わざるを得ませんでした。ここに私たちの本質が現れているようです。

 神学者のカール・バルトは、「全ての宗教は不信仰だ」と言いました。キリスト教を含めて、どの宗教も神を理解することは出来ないと指摘したのです。これは凄い事が言われており、そもそも人が神を理解することは可能なのかという問題提起です。そうなると私たちの信仰自体が怪しいのです。バルトは、神を知る努力は良いが、それは常に不完全であることを自覚せよと言っているのかもしれません。私たちもこの父親のように、本当は不信仰だと自覚すべきなのでしょう。

 但し、この話では父親が不信仰でも、それとは関係なしにイエスは息子を癒してくれました。相手の信仰を見てイエスの判断が変わったのではないのです。私たちの信仰が正しいか否かに関わらず、それどころか、そもそも信仰があるかないかに関わらず、神は変わらずに私たちを導いて下さいます。私がどんなに不信仰でも、私は神に信頼されているのだから、そういう単純な信頼感さえあれば、私たちはいつも前に向かって進んで行けるのです。

(牧師 藤塚聖)

2024年11月24日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書9章38~41節

 説教 「反対しない者

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 イエス当時から、弟子たち以外でイエスの活動を真似している者たちがいたようです。病人の癒しや悪霊払いの実績により、イエスの名には効力があると思われたので、それで利用されたのでしょう。弟子たちからすれば、弟子でもないのに勝手に名を使うのは許せないので、それを止めさせました(38節)。それに対してイエスは、「私たちに逆らわない者は、私たちの味方だ」と言いました(40節)。自分たちの活動に敢えて反対しないのなら仲間だというわけです。寛容と言うか、凄く懐が深いと思います。確かに実践する者が誰であれ、悪霊払いをして人助けをしているのだから、それは喜ぶべきことなのでしょう。

 それに続けて、イエスの弟子と知って一杯の水を飲ませてくれる者は、イエスを信じる者だと言われています(41節)。つまりイエスに協力的な人、理解を示す人に対する信頼が表されていて、絶対に彼らを躓かせてはならないとまで命じられています(42節)。私たちに置き換えるならば、教会に送り出してくれる家族、教会の活動に理解を示し、時には協力してくれる友人や知人、こういう人たちは教会員でなくてもイエスを信じる者たちだということです。何事も狭く限定してしまう私たちには、眼の覚める思いがします。

 その一方で、反対しない者は仲間だとするのは無原則すぎる気がしないでもありません。別の場面でイエスは「私に味方しない者は、私の敵対者だ」(ルカ11:23)と言っているからです。イエスキリストの名さえあれば、みな仲間と言えるのでしょうか。例えば統一協会のようなキリスト教系カルトは、他にも数多く存在します。また現在のイスラエル共和国を、神の約束の実現として手放しで支持するキリスト教系団体もあります。現在のガザの状況、そもそもパレスティナ問題を考えるならば、答えは簡単ではありません。

 この話によると、イエスに賛成するか否かのポイントは「悪霊払い」にあるかもしれません。かつての時代とは形を変えて、現代社会にも悪霊の力が張り巡らされています。人を抑圧する社会の仕組み、それを是とする人間の意識、それらは悪霊の仕業と言っていいかもしれません。それに気づくなら追い出す努力が必要です。また自分には出来なくても、それを実践している人を支援するかどうかです。世の中には、戦争のような力による支配の悪霊、環境破壊のような利益至上主義の悪霊、社会的少数者を差別する悪霊、その他諸々があり、それらは全て人を非人間化する力です。だからそれらから人間的な生き方を取り戻すのが、現代の悪霊払いということでしょう。

 従って、イエスを信じるということは、抽象論ではなくて生き方に関わってきます。悪霊払いに対してどういう姿勢で生きるかということです。それが出来る人は自ら実践すればいいし、自分が出来なくても実践している人を応援する、そうしている人はイエスを信じている者として仲間になれるのでしょう。

(牧師 藤塚聖)

2024年12月1日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書10章17~22節

 説教 「あなたに欠けているもの

​ ​牧師 藤塚 聖

 

 説教を準備する時に、他の先生の説教を読むことがあります。今回は、臨床心理士の資格を持ち、複数の神学校で牧会心理学を教えている先生の説教を読みました。題が「ライフワークの発見」とあり、若くして成功した人が往々にしてぶつかる人生の転機を解説したものです。富と名声と地位を手に入れた人が、この先の人生を考えた時に、このままで良いのか疑問をもちました。おそらく今の地位を手にするためには、様々なものを犠牲にして、大切にすべき人間関係も置き去りにしたと考えられます。そこで必要なのは、人生をリセットして、後悔しないために本当にやりたいことを見つけることです。そのために一度全てを捨てて、一緒に活動してみないかとイエスは勧めたのでした。この時は決断には至らなくても、無駄ではありません。人生における別の道があると示されたことに、大きな意味があるのです。

 その後彼はライフワークを見つけられたのでしょうか。ところで、上記の説教では触れられていない宗教用語があります。「永遠の命」(17節)と「神の国」(10:23他)です。この人にとって「永遠の命」とは、来世まで続く自分の幸福なのでしょう。充分恵まれていても不安があるのです。イエスは、甘えたことを言う前に、無一文になって苦労しろと言いたのかもしれません。そこでモーセ律法に照らして、人として当たり前に、まともに生きていればそれで良いと勧めました(19節)。それでも彼は納得しないので、おそらく無理を承知の上で、「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)と教えました。努力目標というより、生き方の転換を求めたのでしょう。自分個人の幸福や自己充足として永遠の命を求めるのは違うということです。

 代わりにイエスは「神の国」を語りました。私たちは素朴に死後に神の国で永遠の命を生きると考えますが、それぞれ別の事柄です。特に「神の国」は死後の天国ではなく、神の意志に沿って人が互いに愛し合う関係性のことです。確かにそれはなかなか困難なので、その完成は希望でもあるのですが、今現在でもその一部を生きていると言えるのです。 

 従って、隣人を大切にすることなく、その存在を無視するようなところには、永遠の命は存在しません。金持ちの質問に直接答えなかったように、イエスは永遠の命よりも、人が互いに愛し合いながら生きること、つまり神の国こそが重要だと言いたいのかもしれません。そうすれば永遠の命も後からついてくるのでしょう。

 自分個人の幸福や自己充足よりも、隣人とのかかわりに目を向けることが重要です。つまり永遠の命から神の国への方向転換が勧められています。そのためには、この人の財産への執着が妨げとなりました。だからイエスは、彼に欠けていることとして、持っているものを売り払って施すことを勧めたのです。

 私たちも自分だけに目が向いているかもしれません。「あなたに欠けているものが一つある」というイエスの言葉を、自分事として受け止めたいと思います。

(牧師 藤塚聖)

2024年12月8日(日)10:30~

   聖書  マルコによる福音書10章35~45節

 説教 「仕える者になる

​ ​牧師 藤塚 聖

 権力者にとって、イエスのような活動は社会秩序を壊すことになるので、必ず潰す必要がありました。これは現代社会においても、構造改革や規制改革をするときには、猛烈な抵抗があり、場合によっては推進者の命が危ないということからも分かることです。イエスは常に身の危険を感じていたので、自分の死を予想して、弟子たちにそれを何度も伝えていました(8:31、9:31)。

 「過ぎ越し祭」で上京する際にも、イエスは決死の覚悟を語りましたが(10:33)、弟子たちは全く理解せず、逆にヤコブとヨハネは権力を握った時には自分たちをナンバー2とナンバー3にしてくれと頼むのでした(37節)。弟子たちはイエスのことを、ユダヤ人の国を復興する政治的なメシアとして考えていたようです。だから自分たちもその権力にあやかれると期待しました。9章にも、イエスの受難予告を無視して、仲間内での序列を争う彼らの醜態が記されています(34節)。

 そもそも弟子たちはイエスに何を求めていたのでしょうか。彼らは一様に権力志向であり、一旗揚げる意識が強いように見えます。そのためには、手段として仕事や家族に見切りをつけて成り上がろうとしたのでしょう。だからイエスが逮捕されると、見込み違いに気づき、さっさと逃亡することができたのです。

 イエスはヤコブとヨハネの申し出に対して、その無理解を叱りつけて、自分と一緒に死ぬ覚悟があるのか尋ねました(38節)。彼らはその意味を勘違いしたのか、「できます」と答えています。皮肉なことに、ヤコブもヨハネもペテロも、主要な弟子は後に殉教しています(39節)。しかしそれはあくまでも結果であって、この時点でその覚悟があったとは考えられません。

 但しこれを私たちに置き換えると、弟子たちの駄目さを批判出来ないことに気づきます。私たちも心の平安や安心感や精神的な充実がほしくて信者になったのです。それなのに、一緒に死ぬ覚悟があるかと言われるなら、私には無理です、そういうつもりではないと言わざるを得ません。 

 有難いことに、この殉教の勧めはこれ以上は展開されずに、代わりに、「仕える者になること」、「全ての人の僕になること」が命じられています(43,44節)。イエスは殉教を求めるのではなく、弟子がこの先も生き残って、どのような生き方をすべきかを示したのでした。その際に、支配者や権力者のようであってはならないとあります(43節)。まさに弟子たちがそうであったように、人より優位に立ち、相手を自分の下に置いて支配し、利用することを否定しました。弟子たちの上昇志向は、それ自体悪いことではありません。ただその方向を変えて、他者の為に用いるべきなのです。またイエスは人の序列を無意味にします。人はすぐに相手と自分を比較して価値づけをしますが、一番になりたいならむしろ最後になれと戒めています(44節)。

 先週の話と同様に、ここでも他者に目を向けること、他者と共に生きる大切さが言われているように思います。イエスは「隣人愛」を説きますが、それは神の愛ゆえに、人が自分を心配しないでいいことが前提としてあります。自分を案ずる必要がないからこそ、人に目を向けることができるのでしょう。ここにイエスの教えの本質があると思います。

(牧師 藤塚聖)

2024年12月15日(日)10:30~

   聖書  イザヤ書10章1~4節

 説教 「神がもたらす平和

​ ​牧師 藤塚 聖

 イザヤ書は7章前後から、自国の運命や周囲の世界情勢を語っています。解説書を読まなくても、イザヤが非常に不安定な中にいることが伝わってきます(1-4節)。先週は中東シリアで半世紀も続いたアサド政権が倒れ、今後どうなっていくのか世界中が注視していますが、イザヤの時代も同じような混乱状態だったのかと想像します。

 平和と戦争については、旧約聖書が一つの答えで一致するわけではありません。記された時代の違いもあるし、筆者もバラバラだから当たり前のことです。それでも一つの傾向は見られます。それは自分の国であっても絶対視しないことです。それは古代においては異例なことです。普通ならば、「守護神」として敵から自国を守るのが神であって、自国を罰したり滅ぼすのは神とは言えないはずなのですが、イスラエルはそのような神を信仰していました。

 特にイザヤをはじめ預言者は、大体が自国の崩壊を予言しています。国の統治がでたらめだから潰れても仕方ないという考え方です。つまり国家や民族の存続よりも大切なことがあるということなのでしょう。それは社会的弱者が大事にされること、つまり正義と公正の回復です。預言者は為政者が弱者をないがしろにすることを最大の問題として、それ故に外国の侵略も自国の崩壊も避けられないことを預言したのです。

 生活困窮者の支援活動をしている本田哲郎神父によると、預言者とは国際関係や社会情勢を分析して、今後の予測と進路を見極める、現代で言う「アナリスト」のような存在と説明しています。そしてその分析の判断基準は、社会の底辺にいる人の目線から考えることだというのです。

このように、預言者を含めて、旧約の思想の中心は「絶対非戦論」というよりは、正義と公正の回復が優先すると言えます。つまり弱者の保護なしには平和はあり得ないのですが、戦争そのものへの拒否感は薄いように思います。

 その点では、1983年と1993年に公にされた米国のカトリック司教団の声明は示唆的です。それは当時の国際情勢(ホークランド紛争、湾岸戦争)の影響が大きいと思います。非常に厳格な条件を付けた上ではありますが、軍事力の行使を認めるのです。つまり、より大きな暴力を抑えるために、暴力の果たす役割を認めるというものです。平和と隣人愛を説く教会としてはあり得ないのですが、人間社会の矛盾と限界がそこにあります。平和目的の戦争の自己矛盾を知りつつも、いまだにこの世界から戦争をなくせないのが人間の現実です。

 だから最終的には、イザヤは究極の平和の実現を神に委ねているのでしょう。その点では、人間の業には絶望したのかもしれません。最後は神に委ねるしかないというのは消極的に見えますが、逆に見れば、人の如何なる行いも正当化しないという自覚のように思えます。私たちも平和実現のために、人間の矛盾と限界をしっかりと認めた上で、それでも少しは理想に近づいていきたいものです。

(牧師 藤塚聖)

2024年12月22日(日)10:30~

   聖書  マタイによる福音書2章13~18節

 説教 「生きづらさの中の誕生

​ ​牧師 藤塚 聖

 「富阪キリスト教センター」が年数回発行している「富阪だより」12月号の巻頭言は、「もし今日イエスが生まれたら」という説教でした。一年以上もガザ地区へのイスラエルの攻撃が続いていることへの心の痛みが記されており、ベツレヘムの福音ルーテル・エルサレム教会のムンター・イサク牧師が「もしイエスが今日生まれたとしたら、瓦礫の下のガザで生まれるだろう」と語ったことが紹介されていました。爆撃の中イエスが生まれても、そんな危険な場所には東方の博士も羊飼いも行けないでしょう。またインフラが完全に破壊されていては、母子共に死んでしまうかもしれません。まさに今日生まれるガザの子供たちの中にイエスがいるのだと思いました。

 ガザ地区ほどでないにしろ、生まれたイエスの命も危機にありました。時の王ヘロデに狙われ、イエスの両親はエジプトへ避難したとあります(14節)。現代でも、危機のために祖国から逃れ、避難民になっている人たちが沢山います。先々週アサド政権が崩壊した中東シリアでは、これまでに国民の半数が避難していたようです。

 避難したイエス親子に限らず、登場人物はみな大変な中にあったように思います。東方の博士たちは、ヘロデ王に歓待されたというより、怪しい情報提供者という扱いだったでしょう。ユダヤ社会における異邦人差別と職業差別は酷いからです。利用価値がなくなれば、拘束されて厳しい取り調べを受けたかもしれません。さっさと出国して正解でした(12節)。

 ルカ福音書では、羊飼いがイエスを訪ねたとあります(2:16)。これはメルヘンな話ではなく、誕生を知ったのが底辺労働者だったということです。彼らは地主や牧場主に酷使される極めて不安定な立場でした。何故ごく普通の人ではなく、そういう人のところにイエスが誕生したのか考えるべきなのでしょう。

 また、そもそもイエスの両親が生きづらさの中にいたということです。ヨセフが離縁を考えたように(1:19)、イエスは父親の分からない子として生まれました。ヨセフの機転により大事に至らなかったとはいえ、最悪の場合マリアは律法により処刑されるのです。そうでなくても、イエスの出自は人々のうわさになり、一家はずっと白眼視されていたと考えられます(13:55)。現代風に言えば、彼らは最初から法律による保護を受けられない家族だったということです。それでも聖書は、このような問題を抱えた人たちの中にイエスが誕生したと告げています。

 小説家パール・バックは宣教師の娘として中国にいた時、あるクリスマスの夜に、洪水避難者の女性が寒空の下で出産し、母子共に亡くなる場に立ち会いました。12才の彼女には衝撃でした。その時から、世界にはこうして亡くなる人が沢山いることを決して忘れないと心に刻みました。

 クリスマスとはお祝いする一方で、現代ならイエスはどこに誕生するか想像力を働かす日だと思います。パール・バックがそうだったように、困窮の中にある人たちを忘れないでいたいと思います。また私たちが困窮の中にある時、そこにイエスがいることを思い起こしましょう。

(牧師 藤塚聖)

2024年12月29日(日)10:30~

   聖書  詩編96編1~13節

 説教 「歴史の始まりと終わり

​ ​牧師 藤塚 聖

 今年も残りあと僅かとなり、今週の水曜日からは新しい年が始まります。そこで今回は「時」が経過することから、時間と歴史について考えてみたいと思います。

 詩編96編は、歴史の本質と人生の意味を教えてくれます。最初に「新しい歌」(1節)を歌えとありますが、新しい歌とは何でしょうか。その前に、まず全体を読んで気づくことは、とにかく神を賛美することが繰り返し強調されていることです。「歌え」「たたえよ」「告げよ」「伝えよ」「帰せよ」「ひれ伏せ」「おののけ」とあります。どうしてなのか理由が記されていて、神が天を造り(5節)、世界は固く据えられ決して揺らぐことなく(10節)、神がやって来て世界を正しく裁く(13節)からだと言われています。神は天地を造り、今もそれを完全にコントロールして、最後は完成させるのです。つまりこの歴史に対して、神は始めから終わりまで関わり続けて、最後まで責任を持ってくれるということです。だから詩人は賛美しないではいられないのです。

 このように、詩人は神の歴史の「始め」と「今」と「未来」のつながりを信じているのですが、それは何をもたらすでしょう。もし時が一本につながらないなら、生きる意味も見出し辛くなります。時がばらばらに分散し、なるようにしかならないからです。そうではなくて、歴史が意図と目的をもって完成に向けて進んでいるのなら、人はそこに信頼を置くことができるでしょう。この認識が、生きることへの安心と落ち着きを与えると思います。

 さらに11節と12節には感動的なことが記されています。神を賛美するのが人だけでなく、生きとし生けるもの全て、全宇宙がそうしているとあります。私たちの教会は小さいので、少人数の礼拝を寂しく感じることもあります。しかし全宇宙、存在するもの全てが、神の手により有らしめられていることをほめたたえていて、私たちの礼拝もその一部だということです。そう考えるなら、とても励まされます。

 さて、このような神の歴史は「救済史」と言われますが、それは私たちの人生が救済史とつながることになります。それはまさに全てのことに意味があるということです。そして歴史に終わりがあるように、私たちの人生も終わりがあると素直に受け入れられるでしょう。

 歴史の終わりは、神が来て完成される時であり、詩人はそのことを「新しい歌」と表現しています。つまり最後の最後に最も新しいものが用意されていることになります。それを人生に置き換えるなら、人の一生は古くなって崩れて消滅するという考えを一蹴します。人生とは完成に向かって一歩一歩成熟して、最後に一番良いものを頂くということです。

 シンガーソングライターの竹内まりやさんは、昨年デビュー45周年を迎え、10年ぶりの新作アルバムも発表しました。4年前に亡くなった父親が、彼女の曲で一番好きだったのが「人生の扉」だそうです。歌詞のサビの部分で、20才から順に90才まで重ねる年齢の夫々が、デニムのように味わい深いと歌い、最後に、生きることには価値があると結んでいます。まるで人生の応援歌のようです。ネットで簡単に聴けますので試聴してみてください。

(牧師 藤塚聖)

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