過去の礼拝説教集2023年7-12月
2023年7月2日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書11章1~4節
説教 「何を祈るのか」
牧師 藤塚 聖
いわゆる「主の祈り」は、イエスが祈りの手本として教えたものと考えられています。ルカでは弟子の求めに応じたとあり(1節)、マタイでは律法学者の祈りを批判するためでした(6:5以下)。どちらもありそうな話ですが、マタイの話のように、律法学者の偽善的で形式的な祈りについては、いつも憤慨していたようです。
某聖書学者によると、イエスが祈りの参考にしたのはユダヤ教の讃美歌であり、現代でもシナゴーグの礼拝で使われているようです。「大いなる御名が崇められ、清められんことを、その御国が汝らの生涯と時代で、一刻も早く実現されんことを」。これをイエスはもっと簡単に「父さん、お名前が崇められますように、あなたの国が実現しますように」としました。ただそこで思わず「食べるものを今日も与えてほしい」と一言加えたのです。庶民の生活はそれほど苦しかったということです。
この簡単だった祈りが、後に色々と追加されて現在の形になったと考えられます。つまり重要なことは、イエスは模範を示したのではなくて、長くて形式的な祈りの偽善性を厳しく批判したということです。祈りとはそういうものではないということでしょう。しかし教会はこれを倣うべき祈りの模範と受け取ってきました。「信仰問答」等でも文言の一つ一つに尤もらしい解説がなされているのもそういうことです。教会はイエスではなくむしろユダヤ教の精神を引き継いでいるように見えます。
祈りについてイエスの本心を知るためには、逮捕直前の祈りが参考になります(22:39以下)。それまでの振る舞いから、イエスなら最後にこう祈るだろうということで、事実でなくても真実を知ることはできると思います。それによると激しい葛藤のあとで、「私の願いではなく御心のままに行ってください」と祈りました。つまり主の祈りの、「御国が来ますように」(2節)と同じことが言われています。私は祈りの本質はこれに尽きるように思います。確かに、生きる中で色々な訴えや願いはありますが、最後には神の御心を受け入れる他ないと思うからです。
そうであるなら、私たちの長々とした祈りにはどういう意味があるのか反省させられるのです。また教会でことさら祈りが強調され、多用されることに意味があるのかも疑問です。もしかすると神の御心から離れた安易な自己満足かもしれません。マタイによると、イエスは祈りが基本的に個室の祈りであり(6:6)、神は人が祈る前から必要なものを知っていると言っているからです(6:8)。
私の個人的な意見としては、祈りは神に向き合うことであり、自分自身と向き合うことだと考えています。神との対話は突き詰めると深い内省になるからです。そして公の祈りが必要なときには、自分の決意表明と考えています。ただし祈りについては、学べば学ぶほど難しく、色々な考え方があることが予想されます。従って、私たちはイエスの言動に基づいて、自分で納得のいく答えを見つけるしかありません。
(牧師 藤塚聖)
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2023年7月9日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書11章5~13節
説教 「神と人との関係」
牧師 藤塚 聖
イエスのたとえ話は単純で分かりやすいと言えます。そのために時には極論を用いたりします。例えば、人を赦す場合は7回を70倍にしなさいと言って(マタイ18:22)。回数ではなく際限なく赦すことを、このように表現するのです。
本日の話も、現実にはあり得ないほど非常識な人を例に挙げて、神の存在を語っています。それを理解するために、当時の文化を知ることが必要です。イエスの生きた社会は、来客を手厚くもてなす文化でした。それは私たちが考える以上に重くて、責務とも言えるものだったようです。ある映画を観て、その凄さを実感しました。それは史実に基づいており、中央アジアの某国で武装組織を監視する米国工作員を、村全体でかくまったという話です。村人は客人をアラーの使いとして受け入れ、引き渡しの要求を拒んで、銃を手にして命がけで戦いました。それほど客人の存在を大事なものとして考えたということです。普通考える「もてなし」とは重さが全く違うのです。時代と地域は異なりますが、イエスの話と関連する部分はあるでしょう。
そのことを考えるならば、客のためにパンを借りに来た隣人を追い返すのはあり得ないことです(7節)。客は村全体の客と見なされ、互いに協力するのは当たり前で、拒むことは考えらません。おそらくパンだけでなく副菜や食器の調達も含めて、頼まれる方もお互いの貧しい生活は分かっているので助け合うのです。従ってこの話のポイントは、非常識極まりない最低な人に焦点を当てた上で、彼でさえ執拗に頼めば対応してくれるのだから、ましてや神は全てを備えて下さるということです(13節)。イエスは極端な話を用いて、最悪の人物と対極にある最善の存在である神を示したのでした。
イエスの時代も、都市と田舎のギャップにより、地域によってはすでに相互扶助の形が壊れて、この話のようなこともあり得ないことではなかったのでしょうか。それがイエスの耳にも入り、何か思うところがあったのかもしれません。これに限らず、イエスは神と人の関係を人間関係に置き
換えて語ることが多いです。神を「アバ」(おとうさん)と呼びかけるのは(11:2)その典型です。
こうしてイエスもそうだったように、神はとても捉えきれないので、経験の中でイメージが形作られます。つまり人は自分の願望を神に投影するので、「神学」は「人間学」だと言われる所以です。そうなると、人間関係が破綻している人にとって、神との信頼関係は築きにくいかもしれません。人との関係を常にシビアな契約関係で考える人にとっては、神の愛は条件付きになるのでしょう。
教会の中には色々な信仰があります。神は善人を愛して悪人を裁くと頑なに信じている人もいます。人生で悪に直面する厳しい経験があったのかもしれません。正義が一番で、それが神に反映しているように思います。逆に人間の不完全さに失望する人は、神の無条件の愛と赦しでなければ安心できないでしょう。このように、神の無条件の救いを信じるためにも、その人間関係を少しでも愛と赦しに基づく暖かいものにしていきたいものです。
(牧師 藤塚聖)
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2023年7月16日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書12章49~53節
説教 「投じられた火」
牧師 藤塚 聖
私たちは、平和の実現がイエスの使命だったように思うのですが、イエス自身は「平和をもたらすために来たと思うのか、そうではない」(51節)と言いました。確かに、イエスの教えや行いを誰もが歓迎したのではなく、それを憎んで拒んだ人たちも大勢いました。その意味では、イエスの存在が人々の中に「分裂」と「対立」をもたらしたのは確かです。実際に平和の実現やその方法を考えてみても、それは決して簡単なことではなく難しいことです。世界の現実を見ても、みなが平和を願っていながら全くそうならないことからも分かります。そこでは世界観や価値観が複雑に絡み合うので、結果として分裂と対立が生じるのです。
イエスが「受けねばならない洗礼」(50節)と言っているように、このまま活動を続けていけば、いずれ捕まって殺されるということは予想していたと思います(9:22他)。アフガニスタンで、医療施設拡充と灌漑事業に身を投じた中村哲氏の働きは世界中で賞賛されています。現地でも「地域の英雄」と言われていたのに、2019年に反政府組織により命を奪われました。誰が見ても平和のための活動なのに、憎まれて潰されることもあるということです。
イエスの家族もその活動には全く無理解だったようです(8:19以下)。まさに「一つの家」の中でも対立して分かれる(52節)と言われている通りです。世界の教会を一つの大きな家族として考えてみても、イエスをどう理解するかで幾つにも意見が分かれて、歴史上それが戦争に発展することもありました。
さて、気になるのは「火」を投ずるという点です。マタイ福音書では「剣」(10:34)になっていますが、この「火」は何を意味するのでしょうか。洗礼者ヨハネにとっては、完全に終末の裁きの「火」(3:9)だと思います。現代の教会もそのような終末論をそのまま継承しているように見えますが、どうでしょうか。最後の審判で救われる者と滅ぼされる者に分けられる、裁かれる者は永遠の火で焼かれるという考え方です。それは確かに聖書の中に散見されます(マタイ13:40他)。しかしそれらはユダヤ教の残滓として批判的に見ていくべきでしょう。一方で、ヨハネ福音書のように終末論を現代化する信仰もあります。それは将来的な「最後の審判」の話ではなく、イエスを認めるか否かで、人の今現在が救われた生き方になるか、裁かれた生き方になるかに分かれるというものです。この考え方が、「投じられた火」に近いかもしれません。
そこでこの「火」を肯定的に見るならば、火で精錬して鍛える意味にとれます。それは私たちの脆弱な人間関係を焼いて鍛え直し、不純物を溶かして大事なものをはっきりさせます。また暗闇の中に投じられた「かがり火」とも言えます。火の明かりで、お互いの姿がはっきり見えて、誤解や思い込みが明らかになり、違いが分かるからこそ、相互理解や歩みよりが可能になるのです。また足元が照らされるから、進むべき道がはっきり見えます。このように、イエスの投じた「火」は分裂と対立を超えて、真理を明らかにするのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年7月23日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書13章1~9節
説教 「悔い改めについて」
牧師 藤塚 聖
福音書を読んでいると、話のつながりが悪くて内容に矛盾を感じるところが少なくありません。以前なら自分の理解不足か、難解だからこそ深い意味があるのかと思いましたが、今は元々の話とその解説が食い違うからだと思っています。福音書は書き下ろしではなく、著者が用いた素材をつなぎ合わせ、それに自分の考え方を付け加えています。だから時にはそこに齟齬が生じるのです。
本日の個所はその典型です。二つの事件があり、一つは上京したガリラヤ人がローマ総督により処刑されたこと、もう一つはエルサレム南東部にあるシロアムの池の監視塔が崩落して、18人が犠牲となったという話です。世間では犠牲者が罪を犯したことの天罰だと噂されていました。つまり因果応報の考え方です。それに対してイエスは「決してそうではない」(3節、5節)とはっきり否定し、そういう間違った考え方を改めるように「悔い改め」を説きました。「悔い改め」とは、それまでの考え方や生き方の方向を転換することだからです。それなのに、「そうしないと滅びる」というのは、因果応報を否定したイエスの言葉とは思えません。ルカはやたら「悔い改め」を強調するので、そうしないと救われないと本気で思っていたのでしょう。従って、これはイエスの真意を理解していないルカの補足と考えられます。
さて、次のいちじくの木の例えは、因果応報と真逆ともいえるイエスの真意を伝えています。ぶどう園の主人は、三年経ってもいちじくが実をつけないので、園丁に切り倒すことを命じました(7節)。つまり悔い改めないなら滅ぼせという発想です。その命令に対して、園丁は肥料を用いてでも何とかすると、一年の猶予を申し出ました(8節)。この様子だと、一年後に実がならなくても更に延長を申し出ることでしょう。最終的に園丁が木を切ることは決してないのです。
イエスはこれらの話で、結果が伴わないと神に断罪されるという考え方をはっきり否定しています。罪深いから、実をつけないから、悔い改めないから罰するという神ではなく、イエスは無条件の愛と赦しの神を説いています。神と私たちの関係がそういうものであるならば、私たちの自分自身に対する見方も、この世界に対する見方も根本的に変わってくることでしょう。
この夏に、宮崎駿監督の長編アニメ「君たちはどう生きるか」が、興行面で記録を塗り替えているようです。10年前に引退を宣言したのに、創作意欲が衰えることはなかったのでしょう。広告やCM一切無しでもこの評判なので、その人気の凄さを感じます。引退宣言の時に、自分の映画製作の根幹を支える思いは「この世は生きるに値する」ということだと言いました。特に若い人たちに伝えたいということでした。これはホロコーストからの生還者ビクトール・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」の考え方とつながります。つまりこの世や人間に対する限りない肯定感です。イエスが語る神は、世界と私たちに対する肯定以外の何ものでもありません。私たちは、懲罰的な神や恐怖と怒りの神から卒業すべきなのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年7月30日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書13章10~17節
説教 「苦役からの解放」
牧師 藤塚 聖
イエスの時代では、律法の中でも「安息日」と「割礼」が重視されていました。特に安息日には一切の労働が禁じられていて、場合によっては違反すると死刑になると決められていました(出エジプト31:12-17)。ただし、それが実際にはどの程度徹底していたのか分かりません。そうでないと多くの人が簡単に死刑になったことでしょう。それにしても、元々は休息として有難いはずのものが、逆転してすっかり重苦しいものに変質していました。
そうなった理由としては、捕囚後のイスラエルは国がなかったため、異民族から自分たちを分離するために安息日厳守を重視したことによるようです。それくらい徹底しなければ、民族としての結束が保てなかったのでしょう。その起源として、神は7日目に休み、その日を「聖なる日」としたからとされました(出エジプト20:11)。神を礼拝する一方で、禁止事項は数限りなく、仕事や商売だけでなく食事の用意や火をともすこと、原則的に外出も禁じられました。かつてオリンピックで、ユダヤ教の選手が安息日の試合を棄権したことがあり、信仰とはいえなんて不自由なのだろうと思いました。
それに対して、イエスはあえて安息日に病人の癒しを行いました。イエスは安息日を否定したのではなく、その意義を回復しようとしました。安息日のもう一つの起源は、祖先の奴隷からの解放です(申命記5:14-15)。祖先の救いの歴史を覚え、その時の苦役を顧みて、奴隷も家畜も皆が労働から解放される日なのです。大土地所有者や経営者にとっては、奴隷や雇い人を出来るだけ働かせたいので、丸一日の休みは迷惑な話なのです(アモス8:4)。つまりは労働者や弱者の保護が本来の目的であり、雇う側に厳しい規制を課したのでしょう。それが逆転して人の生活を縛るものになりました。宗教指導者にとっても、それは民衆の支配のために都合よかったのです。
イエスの思いは、元の趣旨である労働者や弱者の保護、苦役からの解放、人間らしい生活の回復という、律法の本来の精神を取り戻すことだったのでしょう。だからイエスは本来の精神に従っているゆえに、何の躊躇もなく、堂々とタブーに挑戦したのでした。「安息日は人のためにある、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)ということです。
さて、本日の個所では「見なさい」という言葉が省略されています。そこにいた群衆に向けて、「見なさい」この人の18年間の苦しみを、と二度繰り返されています(11節、16節)。イエスにしてみれば、安息日こそ彼女の人間性が回復されて、苦しかった病から解放される日であるべきと考えたのでしょう。
聖なるものであるはずの律法も、時代とともに本来の趣旨が変わり、弱者保護ではなく権力側に都合よく変化しました。これは古代に限らず、憲法や法律も人を守り権力を規制するはずが、ややもすると権力支配に都合よく逆転しがちです。私たちはいつもそこに厳しい目を向けていく必要があります。
(牧師 藤塚聖)
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2023年8月6日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書14章15~24節
説教 「神からの呼びかけ」
牧師 藤塚 聖
福音書には、イエスが色々な人たちと食事した場面が沢山記されています。当時は、私たちが思う以上に人との食事に重要な意味があり、非常に親しい関係を表したようです。それは仲間である証しでした。イエスは「罪人」と言われた人たちとよく食事したので、彼らこそ共に生きる仲間と思っていたのでしょう。
本日の話もそこが中心なのですが、編集者により強力に色付けされて趣旨が変わっています。マタイ福音書の同じ話(22:1-14)と比較すると、ルカの意図が分かります。マタイでは、王が家来を送って宴会に人を招き、招かれた者は家来を殺していまいました。王はその報復として町を焼き払い、誰かれ構わず宴会に招き入れました。しかし礼服を着ていない者は放り出されたという支離滅裂な話になっています。マタイは、キリスト教の宣教者を殺害したユダヤ教への憎しみがあり、神が必ず滅ぼすと考えました。またキリスト教信者でも、相応しくない者は排斥されると思っていたようです。こうなると、イエスの意図とは関係なく、マタイ独特の考え方が表現されていることになります。
さてルカの話には、マタイのような酷い断罪と排斥はありませんが、宴会への招きに応じる者とそうでない者との対比が描かれています。ルカは、神の救いがユダヤ人から異邦人に移行するという「救済史」を考えているので、招きを拒否したのはユダヤ人で、応じたのは異邦人だと言いたいのでしょう。
しかしイエスが言いたいのは、「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)ということです。招きを断った人たちは普通の人たちです。土地を買った(18節)、牛を買った(19節)、結婚したなど(20節)、困窮者ではなく普通に暮らしている人たちです。そういう中では、神の呼びかけの声は聞きとりにくいのでしょう。また聞こえたとしても自分には不要なので無視したり、迷惑でしかないのです。世間一般の価値観で生きていると当然そうなるのでしょう。それはイエスを批判する人たちと共通するものだと思います。
その反対側にいる人たちは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(21節)とあり、いわゆる社会的少数者です。そういう人たちの声は社会に届きにくく、多数派には殆ど聞こえていないというのが現実です。それでも、近年ようやくそれらが可視化されつつあります。障碍者、難民申請者、虐待児、孤育親、性的少数者等々の発信されなかった問題に焦点が当たり、報道のない日はありません。少数者が生きやすい社会は、それ以外の人にも生きやすい社会であることに、私たちはようやく気付いたのです。そのためにも、今の社会の常識やシステムのままでは対応できません。
生きづらさを抱えている人の声が聞こえるかどうかは、神の招きの声が聞こえるかどうかに重なるのでしょう。そうであるなら、神の招きの声とは、少数者の声なき声なのかもしれません。
(牧師 藤塚聖)
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2023年8月13日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書14章25~33節
説教 「イエスの弟子の条件」
牧師 藤塚 聖
イエスは、弟子になる者に対して非常に厳しいことを求めました。家族も自分の命も捨てること(26節)、自分の十字架を背負うこと(27節)、自分の持ち物を一切捨てること(33節)です。このような言葉はここだけではないので(9:23、12:53、18:22他)、イエスは常々そういうことを言っていたのでしょう。自身は死も覚悟の上で活動していても、評判を聞いて集まってくる人たちは、野次馬的な人もいて、ついて行けば何か良いことがあると甘く考える人もいたと思います。イエスは本気で弟子になるのなら、当然こうなると言いたかったのでしょう。
しかし話の流れとしては、弟子になることと関係ないことも記されています。塔を建てる時に十分に費用があるかよく考えよ(28節)、他の王と戦う時に勝算があるかよく考えよ(31節)という二つの話です。著者のルカは、あまり考えないまま手元の資料をつなげてしまったのでしょうか。関連性が全く分かりません。
イエスの置かれた状況を考えるならば、弟子になるには凄い覚悟が必要だったことは分かります。しかしそれを現代の私たちがそのまま受け入れるには無理があります。可能性としては、カトリックの修道士はそれに近いかもしれませんが、皆がなれるわけではありません。だから私たちは弟子にならないで、もっとゆるく一信者として現実的に生きようとしています。そうでなければこの要求はほとんど無意味で、私たちとは無縁の事柄になるからです。
もし私たちの問題と考えるなら解釈するしかありません。その一つとして、上智大学で聖書学を教えた雨宮慧神父の解説を紹介します。それによると、「自分で背負う十字架」(27節)とは人間関係における重荷ということです。それを阻むのは、相手への理想や思い込みであり、背負うにはそれを捨てなければなりません。弱さや欠点も含めてありのままを受け入れるというのです。それは欠け多き自分もそのまま認めることでもあります。こうすることで、無関係に思われた二つの話もつながります。色々準備する前に、まずは現状をありのまま認識することの重要性が言われているからです。あまりにもきれいにまとめられていて、本当にルカ本人がそこまで考えていたのか疑問もありますが、一つの解釈ではあります。全てを捨てて、自分の命まで捨よという命令の意味が、ありのままの自分を受け入れることであるなら、意味が全く真逆になります。解釈による違いを改めて考えさせられました。
いずれにしても、家族も持ち物も自分の命さえ捨ててイエスの弟子になることは、私たちには不可能だし意味をなしません。しかし雨宮神父のように考えるなら、私たちにも可能性が開けてきます。あるがままの相手と自分を肯定して、それを受け入れて、そこから物事を始めていくことであるなら、それは誰にとっても非常に大切なことが言われているように思います。
(牧師 藤塚聖)
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2023年8月20日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書15章11~19節
説教 「失われた息子」
牧師 藤塚 聖
「放蕩息子のたとえ」というタイトルは、「放蕩の限りを尽くして」(15節)から来ていますが、15章では「見失った羊」と「無くした銀貨」とセットになっているので、英語の聖書のように「失われた息子」(ロストサン)の方が良いと思います。いずれの話も非常に大切なものを失い、それを回復した時の大きな喜びが語られているからです。
この例え話は、色々な読み方が出来ます。父親、兄、弟の夫々に焦点を当てるだけでも最低3つの見方が成り立ちます。考えさせられる要素が多いので、何回かに分けてお話しします。話の筋は明快で、資産家の息子が相続財産を金に換え、父から遠く離れて財産を使い果たしました。運悪く飢饉が起こり、飢えて死にそうになり、ここでやっと父の許にいた時の幸せに気づきました。失意の内に戻ってきた息子を、父は喜んで迎え入れたのでした。「放蕩の限りを尽くして」とあるので、酒やギャンブルで身を持ち崩した印象ですが、直訳は「何の望みもなく生きて」ということです。つまり彼は何の喜びもなく空しく生きていたから、散財するしか他にやることが無かったわけです。空虚だったのは、単純に父から離れて生きていたのが理由です。要するに、自分のいるべき場所でないから、居心地が悪しい心が満たされなかったのでしょう。原因も分からず鬱々とする中で、飢えて死にそうになって、やっと自分のいるべき本当の場所に気付いたのでした。
聖書で言う「罪」とは「的を外す」ということです。神との関係で的を外すなら歪んだ関係になります。だから罪とは何か悪い行いのことではなく、あるべき状態にないという根源的なことが言われているようです。息子が言った「罪を犯しました」(18節)は、父から離れて本来の居場所を無駄にして、機能不全になったことを指しています。だから周囲とも良い人間関係を築けませんでした。養豚の仕事をくれた人も無関心だし、食べ物をくれる人もいなかったのです(16節)。
父は帰ってきた息子に「死んでいたのに生き返った」(24節)と言いました。彼はたとえ生きてはいても死んだような状態だったのでしょう。とんでもなく身勝手で自堕落な生き方が悪いのではなく、本当の居場所を見失って、本来の自分でない生き方に問題があったのです。父は息子を失っていましたが、息子も自分を失っていたのでした。それは両者にとってとても不幸なことでした。
それなら私たちの本来の居場所はどこなのでしょうか。それは「私は何者なのか」という問いでもあります。その問いは、自分をいくら掘り下げても答えは見つかりません。自分以外の他者との関係の中で、特に神との関係で考えるべきです。神との関係の中で自分は何者なのかというのが、この例えの意味であるように思います。それはどこでどうなろうと、自分の愛する息子として無条件に受け入れる神の姿です。神をそのような存在として信頼できないなら、的外れとなり自分を見失うことでしょう。しかし本来の居場所が分かっているなら、それは私たちの生きる上での原点となり、いつも戻ってこられる場所になります。それがあるのは本当に幸いなことだと思います。
(牧師 藤塚聖)
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2023年8月27日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書15章20~24節
説教 「不完全なままで」
牧師 藤塚 聖
放蕩息子の例え話について、ある牧師が説教で違和感を述べていました。この方は、横浜市の寿地区で外国人同労者の支援活動をしており、話の中の父親にも息子にも全く共感できないし、ばかばかしいとしか思えないとありました。まず、沢山の使用人がいてすぐ祝宴を開く大金持ちの話は、イエスの周辺の貧しい人たちには別世界の話になること。次に、散財して身を持ち崩したあげく、豚飼いをした息子も自業自得であって同情できないということです。息子は現状が嫌になって裕福な実家に逃げ帰っただけで、苦労して自らの道を切り開くでもなく、人間的に成長するのでもなく、ただ元の贅沢な生活に戻っただけだからです。
確かに、豚飼いをせざるを得ない人はいるし、金持ちの下で酷使されている使用人もいます。それらは全く問題にもならず、ただ甘い話ではあります。これが神への信仰を考える上で、果たして参考になるのかというと、先ほどの牧師の疑問も分かる気がします。
この話の中で問題なのが甘い父親の存在です。言いなりに莫大な財産を譲って、戻ってきたらまた甘やかす、子供を駄目にする親の典型です。それをモチーフにした米国映画があります。米国中流家庭が舞台となり、兄は堅実ですが、弟は家を飛び出し勝手気ままに生きてきて、旅先で出会った女性との間に出来た幼児を連れて、実家に帰って来ました。一山当てるために幼児が邪魔で父に預けるためでした。父は喜んで孫を引き取り、息子の30万円の無心にも応じるのでした。後日賭博の借金300万円のため、父の車を無断で持ち出そうとする息子に、父は真面目に働くなら数年後に自分の会社を譲り、賭博の借金も肩代わりすると提案しました。これ以上有難い話はなく、さすがに息子も了解しました。しかし数日後に、南米チリの友人から良い話があり、数か月だけ行かせてほしいと父に頼みました。そうすれば以後は父に従うというのです。彼はいつまでも一獲千金を追い続けて大人になり切れないのです。そして父に旅費を無心して、子供を置いて家を出て行きました。結果は見えている気がしますが、この話をどう思うでしょうか。
映画では、息子は父に散々迷惑をかけて利用しています。父の甘さが息子を益々駄目にしています。しかし聖書の話もこれと殆ど変わりはありません。息子の反省は形だけかもしれないし、父はそんなことはお構いなく無条件に迎え入れるのです(20節)。
古代ユダヤ人社会は厳格な家父長制であり、このような父親はあり得ません。息子は不完全ですが、父もまた不完全なのです。イエスはあえてこのようなばかばかしい話で神の無限の愛を語ったと思われます。息子が反省したから受け入れたのではありません。最初から赦しているのです。また家を出ても愛し続けることでしょう。人を駄目にするほどの無償の愛であって、倫理道徳が説かれているのではないのです。
不完全な私たちはこの愛で救われます。一切間違うことなく完全な正義を貫く神なら赦されません。信仰とは、悔い改めて立派な人間になって神に認めてもらうことではありません。不完全なままで、すでに神の愛と赦しの中にあることに気付くことです。
(牧師 藤塚聖)
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2023年9月3日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書15章25~32節
説教 「信仰者の不信仰」
牧師 藤塚 聖
前回の弟に続いて、今回は兄のことが扱われています。この話を最後まで読むと、弟の話は前座であってこの兄の話が主要テーマなのではないかと思えます。それほど身につまされるからです。
兄は勤勉で父に忠実です。それゆえに自分勝手で自堕落な弟を嫌い、父が弟を可愛いがるのが信じられません。なぜ父は自分をもっと評価しないのかと、分け隔てなく弟も慈しむのが許せないのです。私たちはどちらかと言うとこの兄に近いかもしれません。真面目に生きてきた人ほど、不真面目な人と一緒にされるのを嫌がります。兄は弟と違って自分は正しい人間だと信じて疑いません。そこにはある意味で弟以上に深刻な問題があり、イエスの例え話の真意はそこにあるのかもしれません。
教会でも「万人救済」について、神を無視して生きた者と信者が一緒に救済されるのなら信者である意味がない、という声を今まで何度も聞いてきました。これは形を変えた「能力主義」あるいは「優性思想」ではないかと思います。私たちはそれを子供のころから当たり前に教え込まれてきました。成績で比較され、人には優劣があるとされ、社会でも世の役に立つ人とそうでない人が区別されました。
この例え話でもそれが前提にされています。弟は散財しただけで何の実績もないから「もう息子と呼ばれる資格はありません」(21節)と自己申告しています。また兄の「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶした」(30節)という言葉にも、娼婦への想像力の欠如と共に、生産性から見て社会の役に立たないごく潰しという価値観がすけてみえます。そういう考え方自体が問題ですが、それが信仰の世界にも持ち込まれているのです。父はその価値観に基づく正義や正しさを壊してしまいました。この父と息子たちは、神と私たちの関係を表していると思います。
学生時代の友人が説教集を出していて、この聖書箇所を扱っています。そこで彼の家族関係を知りました。父が牧師とは知っていましたが、弟と二人兄弟と初めて知りました。弟は度々問題を起こし家族に迷惑をかけていました。彼はしっかりやれと弟を非難して、甘い両親に腹を立てていた
と言います。しかし大人になってから、学校でいじめがあったことを弟から初めて聞かされます。両親がかばい続けたから今の弟がここにいると知り、その問題行動の原因を知ろうともせず、自分は正しいふりをして、彼を追い詰めて切り捨てていた、聖書の兄より質の悪い兄だったことを告白しなければならないとありました。私はそれを読んで、とても正直で勇気のある告白だと思いました。
たとえ話の中で、父は怒る兄に「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」(31節)と言っていますが、これは私達への言葉でもあります。私たちは神と共にあることを知り、それを力にして生きてきました。それが信者であることの大きな幸いです。そのこと自体が何にも代えがたいことであるので、いったいそれ以上何を求めるというのでしょうか。
(牧師 藤塚聖)
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2023年9月10日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書16章1~13節
説教 「ささやかな抵抗」
牧師 藤塚 聖
福音書の中の話は、複数の手が加わって伝えられてきたので、多々矛盾があると何度か話しました。今回の話も、結びは主人が管理人の賢いやり方をほめているのに(8節)、その後のコメントは、他人の財産に忠実でなければならないと苦言を呈しています(12節)。それは見方の違いであり、大地主側か負債のある者の側か、どちらからこの出来事を見ているかの違いになります。
当然イエスは負債のある小作人の立場で語っています。管理人は主人の土地で働いている小作人を気の毒に思い、たびたび便宜を図っていましたが、それがばれてしまい首になりかけました(2節)。管理人は暴利を貪る主人に雇われるよりも、主人に痛めつけられた人たちの仲間になった方が、よほど精神衛生上良いと思ったのでしょう(4節)。そこで小作人たちの借金を大幅に減額することにしたのですが、主人に代わって神はその賢いやり方をほめてくれました(8節)。こんな管理人がいたらどんなに良いだろうという内容です。
大地主の側からするととんでもない話なので、管理人は不正を働いたということになります。しかし古代の大地主と小作人の関係を考えるなら、そうは言えません。地主は年貢を搾り取り、足りないと借金させます。それが雪だるま式に法外な利息となり、小作人は一生奴隷としてその土地に縛り付けられる構造になっています。負債額は収穫物で表現されていて、オリーブ油百パトス(6節)は、ある学者によると千デナリ、つまり一千万円であり、小麦百コロス(7節)は、二千五百万円になります。つまり到底返済できる金額ではないのです。管理人はそれを大幅に減らしてくれたのでした。
さて、小作人の立場からするとこんなに有難い話はありません。管理人がしたことは不正ではなく人助けだったのです。地主に提言しても無駄なので、自分の立場でささやかな抵抗をしたのでした。しかし私たちはどうしても大地主の立場で見てしまうのです。イエスの話を伝え聞いた最初の教会でも、管理人は不正をしたとみなして、イエスが不正を勧めるのはおかしいということで、よく分からない解説を沢山付け加えてしまいました(10節以下)。最終的に編集したルカ本人も、この話の本質は分かっていないように思われます。あまり関連のないイエスの言葉(マタイ6:24)を最後にもってきて(13節)、結論にしているからです。ただ、「神と富とに仕えられない」について、「神」は小作人側で「富」は地主側とするならば、確かにどちら側に立つのか問われているとは言えます。
私たちは基本的に搾取される側への想像力に乏しいのだと思います。だから無意識のうちに大地主の見方になっています。しかし大地主の財産というのは不正な富そのものであり、それを奪われた側に返すのは間違っているとは言えないでしょう。イエスはいつも弱い立場の側から物事を見て発言していました。イエスの生きた現実をリアルにイメージしていきたいものです。
(牧師 藤塚聖)
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2023年9月17日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書16章19~31節
説教 「金持ちと貧者」
牧師 藤塚 聖
私たちは、生活する上でお金というものは必要なので、仕事に就いたり貯蓄したりしています。その一方で、金銭をめぐる怖さも知っています。社会での犯罪は殆ど金銭がらみであるし、遺産相続での親族の骨肉の争いなど、金銭への欲望は際限がなく、そこには非常に大きな問題があると思います。
金持ちとラザロの話を読むと、イエスは金持ちに対して厳しい目を向けていたことが分かります。その怒りや批判が、死後の運命の逆転につながっていると思います。内容としては、貧困のまま死んだラザロは、天使によってアブラハムの傍に連れていかれました(22節)。それは天国で神のふところに抱かれることを意味しています。それと対照的に、金持ちは地獄で火に焼かれて永遠に苦しむのです(24節)。両者の間には超えられない淵があるために、変更は不可能というわけです。
個人的な感想としては、生きている時に良いものを受けた人が死後に地獄で苦しむのは(25節)、余りにも酷ではないかと思います。例えば、生まれながらの貧富の差は本人の責任ではないからです。しかし世界の圧倒的な経済格差を考えるときに、理屈や合理性ではなく、イエスがこの話に込めた怒りが分かる気がします。
イエスは、基本的に富に対して厳しい考えをもっていたようです。弟子たちは、家族も仕事も捨ててイエスに従っており(5:11)、金持ちの議員には、全財産を放棄して貧しい人々に施せと言い(18:22)、神と富に仕えることはできない(16:13)と常々語っていました。
さて、この話は26節ではっきり結論が出ているのですが、27節からは観点がずれていきます。人間の富への執着は根深いので、たとえ死者が復活して金持ちを説得したとしても、回心は難しいだろうというのです(31節)。それについては「モーセと預言者」(旧約聖書)が昔から警鐘を鳴らしていたとあるので(29,31節)、一例としてアモス書(6:1~7)を見てみます。それによると、北の強国アッシリアが一時的に弱体化したとき、北イスラエルがその権益を奪って国力を増したようです。しかしその国益を支配層が独占して浪費するだけで(6:4-6)、国民の貧しさを全く顧みなかったということです。アモスは、そんな壊れた国はいずれ滅亡すると預言したのでした(6:7)。イエスはそのような預言者の精神を引き継いでいるといえます。
イエスは貧富の解消のために改革運動をしたわけではありません。小作人の借金を免除する管理人の話など(16:1以下)、夢みたいな話を通して理想を語りました。それは、それこそがあるべき社会だという確信があったからです。現代世界も1割の富裕層が8割の富を独占している状態です。有り余るほど所持する人がいる一方で、飢えて死んでいく人もいます。誰もそれでいいとは思わないでしょう。その現実をいつも覚えながら、その矛盾に対する怒りを忘れないでいたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
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2023年9月24日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書17章1~10節
説教 「人間の立ち位置」
牧師 藤塚 聖
「赦し、信仰、奉仕」というタイトルにあるように、三つの話がつながっていますが、その中のどれがひっかかるでしょうか。私は、からし種一粒ほどの信仰があれば桑の木が海に移るという言葉がずっと気になっています。他の個所では、信仰があれば桑の木どころか山が海に移るとなっていて(マタイ17:20)、パウロも「山を動かすほどの完全な信仰」に言及しています(1コリント13:2)。
この言葉の真意はどこにあるのでしょうか。一つは、信仰がもっている大きな力と可能性のことで、強い信念や確信があれば不可能に見えることも成し遂げられるという意味です。確かに病人の癒しに際して、イエスはあなたの信仰があなたを救ったと言いました(17:19)。つまり治りたいという本人の強い意志があったからこそそうなったのでした。
しかし山が海に移るというのは、あまりにも現実離れしています。弟子たちは、自分たちもイエスのような力を持ちたいと思っていたようです(マタイ17:19)。それで信仰を増してくださいと頼みました。それに対して、イエスは弟子たちの考える信仰は信仰でないと言ったのかもしれません。弟子の考える信仰ならば、それがほんの僅かでもあれば山を動かせるのでしょう。しかし実際はそんなことはあり得ないことです。だからイエスは弟子たちには本当の信仰がないと思っていたのでしょう。
この話の前では、無限に赦すことが言われています。一日に七回なら私たちでも出来るという話ではなく、イエスは7回を70倍するまで赦せとも言うのです(マタイ18:22)。今の私たちなら不可能なことです。
後の話は、僕が主人のために仕事してもそれは当然のことであり、感謝を期待するものではないという内容です。これは感謝や見返りを求めない無償の奉仕ということであり、人を七回赦すことと同じように、相当難しいことです。三つの話をまとめると、赦しも奉仕も、イエスの考える信仰というものを土台にしなければ成り立たないということでしょう。確かに無限に赦すことも無償で奉仕することも、今の私たちには不可能に近いのです。
それならそれを成り立たせる信仰とはどういうことでしょうか。三つ目の話で、僕の「しなければならないことをしただけです」(10節)という言葉は参考になります。これは僕と主人の関係を表しています。それを私たちと神の関係に置き換えるなら、私たちの本来の立ち位置がはっきりします。それが本当に分かるのは、いわゆる「悟り」や「気づき」に近いかもしれません。そしてそれが分かるなら、私たちは当たり前のように人を赦して、苦も無く無償の奉仕をすることでしょう。
弟子たちがそうであったように、私たちは自分を信仰者と思っていても、大きな欠損があると自覚しておく必要がありそうです。教会の歴史上大きな働きをしたパウロでさえ、「わたし自身は既に捕らえたとは思っていません」(フィリピ3:13)といっているのですから、いつか私たちにも「気づき」が与えられることを期待しましょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年10月1日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書17章11~19節
説教 「礼拝することの意味」
牧師 藤塚 聖
私たちは日曜日ごとに礼拝に集まっていますが、そのモチベーションはどこにあるのでしょう。特に今年の夏は記録的な猛暑で、外出するにも相当な覚悟が必要でした。私たちの教派では昔から礼拝厳守がよく言われてきました。しかし強調される割には、心から納得できる理由を聞いた記憶がありません。よく考えると、本質より組織維持の方が重視されてきたのではないでしょうか。
礼拝の意義を聖書に尋ねるなら、古くは信仰の父であるアブラハムにさかのぼります。彼は遊牧民として移動生活をしながら、行く先々でまず祭壇を築いたとあります(創世記12:7)。それはその子孫のイサクとヤコブにも引き継がれて、生きることと神を礼拝することは不可分だったことが記されています。彼らは生活の中で常に神が共にいることを覚えて、その感謝を表現したのでした。それが礼拝の本質だと思います。またそれは聖書の宗教に限らず、人の本質に関わることでもあります。誰もが人を超えた存在に思わず手を合わせるし、そういう心は生きる上で不可欠なものだからです。
さてそれなら礼拝には何があるのでしょうか。現代社会は常に見返りを求めます。コスパとかタイパとか言われる所以です。その発想で信仰を考えるなら、礼拝で何か取得できることを期待します。例えば皆の熱心な祈りが合わせればその願いが叶えられるかのような。しかしそれは逆であり、私たちは礼拝の中で、願うより先にすでに大きな恵みを頂いていたこと気づかされるのです。普段忘れがちなその事実に気づいて、改めて神に感謝するのが礼拝です。
ライ病を癒された人の話では、10人いた中で、イエスに感謝するために戻ってきたのは残念ながら1人だったとあります(15節)。古代において皮膚病が癒されて社会復帰できるのは、人生が逆転するくらいの出来事です(レビ13-14章)。本当ならば、そうなるためにどんな犠牲もいとわないはずです。それほど病気の治癒は大変なことでした。それなのに人は感謝を忘れてしまうのです。この話は人の無知と身勝手さを強調しているように思います。
私たちはライ病を癒されたわけではありませんが、間違いなく神により生かされて、全てを頂いている存在です。人間的に考えるならば、そう見えないこともしばしばですが。だからそのことに誰もが気付くわけではありません。戻って来たのが10人中たった1人だけだったように、気づく人は極めて少ないのです。
その中で、私たちは神の恵みを知っている少数者として、今日この礼拝に来ていることになります。そして聖書を通して、感謝の対象である神と自分というものを深く知ることで、さらにその思いを深めたいのです。礼拝を通して、今まで自覚に至らなかったけれども、こんなに感謝すべきことがあったと気づけるならば幸いです。
(牧師 藤塚聖)
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2023年10月8日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書17章20~25節
説教 「神の国について」
牧師 藤塚 聖
「神の国」という言葉は特に福音書の中に沢山出てきます。それはどの様なものなのでしょうか。まずイエスの時代にどう理解されていたのか、それについてイエスはどう思ったのか、それを踏まえて私たちはどうなのかを考えてみたいと思います。
まず当時はユダヤ教の黙示思想(終末の教え)が広く信じられていました。ヨハネ黙示録のように、天変地異、飢饉、天災、戦争の後、メシアか人の子が現れて、最後の審判があるというものです。その後に神の国が出現して、そこに入る者と地獄に落ちる者に選別されるというのです。それによると宗教的に正しい者しか神の国に入れません。またそれとは別に、政治的な神の国も考えられていました。ユダヤ人は外国支配のもとで長い間国を失っていたので、理想的な民族国家の実現が神の国だとされました。そのために、救世主(メシア)やダビデのような王の登場が待望されたのです。このように宗教的なものと政治的なものが社会の中で混在していたのではないでしょうか。
一方で、イエスはそのようには神の国を考えていなかったようです。神の国の例え話では、農民が種をまいてそれが自然と実を結ぶ様になぞらえたり(マルコ4:26)、畑の中の隠された宝だと言ったりしています(マタイ13:44)。つまり神の国は特殊なものではないということです。特別な人だけが入国できるのではなく、今苦労している人や小さき者のものだと明言しています(マタイ21:31,マルコ10:14)。
それを後押しするのが、「神の国はあなた方の間にあるのだ」(17:21)という言葉です。あなた方の手の届くところ、あるいは可能性と言い換えていいと思います。イエスによると、神の国は現実を超越した異次元の事柄でもないし、将来のことでもないということです。神の国の「国」は支配とか支配の領域を意味するので、神の支配は私たちの今の普通の生活の中に実現しているということでしょう。このように、イエスは神の国を異次元から現実のものへ、いつか分からない遠い将来から今現在のものへと転換したのでした。
さて次にイエスが語ったこととして、神の国が実現する前に起こる様々な事象が言われていますが(17:23以下、21:7以下)、これはイエスの言葉ではなく、後の教会がユダヤ教の黙示思想を引き継いだものです。そうであるなら、私たちはそれらについては批判的に見ていく必要があります。またそれゆえに、教会が保持している「終末論」についても再考が必要なのかもしれません。
新共同訳委員の一人であった太田道子さんは、人がイエスのように生きていくところに、神の国が実現していくと言いました。つまり、これはキリスト者に限らず誰であれ、意識するとしないに関わらず、もしイエスのように生きているなら、そこが神の国ということなのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年10月15日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書18章1~8節
説教 「人はなぜ祈るのか」
牧師 藤塚 聖
イエスが語った例話(2-5節)と、その後のルカの解説(6節以下)は分けて考えた方が良いと思います。例話の内容は単純明快で、やもめが裁判官に公正な判決を執拗に求めた結果、それが叶えられたというものです。たとえ神も人も畏れない裁判官であっても、面倒なプレッシャーには弱いのです。それに対して、ルカはこのやもめのようにしつこく祈り求めれば神は聞き入れてくれると解説をしています。しかしながら「祈り」とはそういうものなのでしょうか。
例話の内容に戻りますが、やもめは夫がいないために、旧約聖書では弱い立場の典型として孤児、寄留者と度々セットにされています(申命記10:18他)。現代でも女性の立場は弱いのですが、古代ではさらに深刻です。財産はすべて男性側が相続して、女性側には何も遺りません。だから夫を亡くすと女性は直ぐ生活困窮者になるのです。僅かの畑や家も男性の親族に没収されるのでした。
旧約のルツ記を見ても、ナオミもルツも生きるために男性に依存するしかありません。最後は夫の親族ボアズにより助けられるのですが、物語の全体が男性社会のシステムを前提にしているのです。だからこそこのやもめは生きるために必死になって裁判官に訴えました。
本来法律(律法)というものは誰にでも公平で、特に困っている人を助けるものでなければなりません。しかし現実には権力者に都合よくできています。裁判官の判決も強い者の方に傾きがちです。それでも弱いやもめの訴えが認められたのは、裁判や法律の適用には裁量の余地が大いにあるということなのでしょう。一見厳格な裁判や聖なる律法であっても、人が扱うゆえに実は相当にいい加減なものだと、イエスは皮肉を込めて教えたのでした。
以前九州である裁判の支援者になったことがあります。訴えられたのはカトリックのミッション高校の教師でした。外国人労働者の支援活動を熱心にしたことで、違法ブローカーに間違えられ、学校の名誉棄損を理由に懲戒免職になっていました。しかし支援が実って無罪になり補償を勝ち取
ることができました。ある時の支援者の会で、弁護士が裁判では支援者や傍聴者の数が重要だと言っていました。つまりマスコミの取り上げ方や世間の注目度合いが、裁判官の心証に大きな影響を与えるということです。そのためにも傍聴席を満席にしようとのことでした。裁判官も人の圧力がプレッシャーになるのです。イエスは律法や裁判の杜撰さを知っていたので、そこに付け入るスキがあると教えたのでした。それをこじ開けるために圧力をかけ続けなさいと。
さて、祈りもそれと同じで、しつこく祈れば神は聞いてくれるのでしょうか。連続徹夜祈り会などはその一例です。逆にそれがないと神は聞かないのでしょうか。こうして結果として神を試していることになるのです。私は神に向かって自問自答するのが祈りだと思っています。そして最終的には、神の御心が実現するようにという言葉だけが残るのではないでしょうか。
(牧師 藤塚聖)
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2023年10月22日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書18章9~14節
説教 「高ぶる人とヘリ下る人」
牧師 藤塚 聖
福音書の中には、人間の本質や在り方を示すために、二通りの人物を対比する話が多くあります。すでに扱った「大金持ちと貧しいラザロ」(16:9以下)や「らい病を癒されて戻って来た人」(17:11以下)の話もそうだと思います。これらを読むと、私たちはそのどちらなのかと考えてしまうのです。
本日の話でも、パリサイ派と徴税人という両極の人物が対比されています。前者はモーセの十戒に忠実で(11節)、さらに週二回の断食と十分の一税をきちんと納めています。当然ユダヤ教徒として自信があり、回心前のパウロのような人です(ピリピ3:5以下)。後者は徴税人であり、敵国ローマの税金を集める仕事なので、ユダヤ人の間で非常に蔑まれていました。また不正ぎりぎりまでやらないと食べていけないので、仕方ないとはいえ大きな負い目があったのではないでしょうか。
さて、神に認められたのはパリサイ派ではなくて徴税人でした。パリサイ派は正しく生きるために凄い努力をしているのに、何が駄目だったのでしょうか。「自分は正しい人間だとうぬぼれて」(9節)いることに原因がありそうです。正しい生き方を追求するのは必ずしも悪いことではありませんが、それを過信したり、他人を見下すのなら、人間というものの本質を見誤っていることになるからです。
また「うぬぼれる」と翻訳されると悪い印象ですが、直訳は「自分自身を頼りにする」です。それでも自己肯定の根拠を自分の中に持つことであるなら、それはそれで問題かもしれません。
本日のテーマに関係する旧約聖書は詩編103篇(14~16)です。要点は、神は人を弱くはかないものとして造ったということです。元々不完全で脆弱なのに、それを何かで補って完全になった、強くなったと勘違いするのが「自分自身を頼りにする」ことです。そうではなく、本質的に弱く不完全であると認めることで、人は謙虚になれるのではないでしょうか。それが分かるなら、自分の中の自己肯定の根拠は不要になり、自分の正しさを追求することも、他人との比較も馬鹿らしく思えるでしょう。
先 日の「朝日新聞」の相談欄に、政治学者の姜尚中氏が「人間は謎めいているから、そこに尊厳が宿る」と書いていました。認知症になり何の反応もない寝たきりの母を見て、相談者の幼い娘が怖いと言ったようです。娘が感じたように、自分にも母のようになりたくない思いがあるとの悩みでした。それに対して姜尚中氏は、人にはその人にしか分からない内面世界があり、そこで豊かに生きているのかもしれないと言います。他人には謎だからこそ命には尊厳があるとのことでした。
人は不完全で弱いからこそ、そこには矛盾もあり分裂も誤りもあるのでしょう。そのことを十分に受け入れた上で謙虚になって、より良く生きようとするのが人間の価値なのかもしれません。
(牧師 藤塚聖)
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2023年10月29日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書18章24~30節
説教 「捨てて受けとる」
牧師 藤塚 聖
イエスが金持ちの議員に、持ち物を売り払って貧しい人に分けよと勧めた話は有名です。それは資産家には無理だったようです(23節)。しかしイエスの意図は単に財産を放棄することではなく、執着からの転換を勧めたのだと思います。というのは、財産ではなくて家や家族を捨てることも命じているからです(29節)。
さてこの話の最後には、捨てた者はこの世で何倍も報いを受けるとあります(30節)。つまり捨てることで別のものを受けとるということです。それにしても、財産放棄は難しいし、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てることはさらに難しいかもしれません。生活基盤や人間関係も含まれていて、それによって今豊かに生きているとするなら、捨てるのはほぼ不可能ということになります。
ソルジェニツィンというロシアの作家は、ソ連の暗部を告発して1974年に追放されました。ソ連崩壊後に帰国してからは、資本の暴走を批判し続けました。彼によると資本主義はブレーキ無しでは大変なことになるといいます。必ず動物人間が現れて、際限なく欲望に駆り立てられ、経済的な破綻の前に、人間として倫理的に破綻するというのです。つまり人間というのは取り入れるだけではなく、同時に捨てることの両方が命のリズムだということです。取り入れるだけでは、豊かなようでもどこかで壊れてしまうのです。受けて与える、与えることで受けとるという循環の働きが人の命の営みということなのでしょう。
私たちは凡人なので、何事につけても失うことを必要以上に恐れてしまいます。何かを失っては悲しみ不安になります。しかし「捨てること、失うこと」は聖書の中の重要な要素として確かにあります。旧約の歴史は、国を失ったことが基軸となって展開しています。信仰の父アブラハムは誰よりも神に祝福されましたが、故郷も親族も捨てました。最後は最愛の息子イサクを捨てることを命じられました。神は彼に多くを与えられたのだから、多くを捨てよと命じたのでした。
またイエス自身がたびたび放棄することを命じています。弟子たちはそのように受け取っていたし(28節)、最終的には自分の命まで捨てることが言われています(9:24、14:26)。そもそもキリスト教はイエスが命を失ったことから始まっているのです。
幾つか感想を述べます。一つは世界の現実を見て、裕福な国々が富を手放さなければ平和共存に進めないということです。環境問題も今のままではもたないと誰もが気付いています。また身近なことでは、自分を空の容器に例えることです。そこには余計なものも一杯詰まっていて、他のものが入る余地がありません。そこで、失うことで初めて本当に大切なものが分かることがあります。病気になって人生観が変わるというのもそういうことかもしれません。以前、「死生学」の講演を聴いて印象に残ったことがあります。授業で学生に自分の大切なものを10書かせたそうです。次に5つに絞り、最後は1つを考えさせたということです。最後に残る大切なものは決して多くはないということなのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年11月5日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書19章1~10節
説教 「下りてきなさい」
牧師 藤塚 聖
徴税人ザアカイの話は分かりやすいので、教会学校でもよく取り上げられました。イエスは嫌われていた人の友となったわけですが、さらに掘り下げたいと思います。ユダヤ州はローマ帝国の直接統治により、他の自治州以上に多く課税されました。ローマは徴税を現地人にさせたので、徴税人は売国奴のように憎まれました。さらに仕事柄外国人と接する機会が多いので、宗教的にも穢れているとされ、また自分の儲けを上乗せするので不正もあり、ますます人々の憎しみを買っていたのでした。このようにして、不幸なことに収税人は二重三重に差別され、罪人の代表格にされたのです。
このような徴税人を統括していたのが徴税請負人であり、彼らはたいてい大金持だったようです。ザアカイもその一人であり、その権限と資産は庶民の怒りを招き、本人を幸せにはしませんでした。人間不信になってますます金儲けにのめりこんだことでしょう。そのように疎外感を持っていたザアカイに、イエスの方から泊めてほしいと声をかけました。評判の人物に声を掛けられて余程嬉しかったのか、自分から財産の半分を貧しい人に施し、不正な収益を4倍にして返すと申し出ました(8節)。不正な儲けは自覚していたのでしょう。
さて、イエスがザアカイと親しくなったことは簡単なことではありません。それは差別が我が身に及ぶからです。学校のいじめ問題を考えても、容易にいじめられる側に逆転します。その大変さを分かった上で泊りに来たことが、ザアカイには衝撃だったと思います。
この話のポイントは「降りて来なさい」(5節)という言葉です。宗教も倫理道徳もたいてい上に向かって正しく生きることを勧めています。ザアカイもラビ(律法教師)から、最低な仕事から足を洗い戒律に従って正しくなれと何度も言われたことでしょう。イエスから受けたのは、木から降りるだけでなく、ラビの言う上を目指さなくてもいいこと、今の自分でいいという自信だったのではないでしょうか。不正は反省しながら、自分への偏見と差別の方が間違っていると思えたことでしょう。
以前の私は、全能の神は高いところにいると信じていました。それがいつ頃からか、神は下にいて支えているのではないかと思うようになりました。そしてそれは思い込みではなく聖書にもあると知りました。例えば本日の関連箇所の詩編113篇では、神は「低く下って天と地をご覧になる」(6節)とあります。神は天と地に自分を投げ落とすのだから、その全能とは自分をどこまでも低くすることだと言えるでしょう。
先日テレビで「宗教2世」を扱った再現ドラマがありました。その母子は信仰の為にひたすら努力しながら、一方で神の罰に怯えていました。観ていて息苦しくなり、つくづく救われていないと思いました。恐怖で支配する信仰は間違った背伸びを強いるのですが、イエスの説く神は私たちの「存在の根底」であり、徹底して下から受け止めてくれます。だから何の恐れもなく安心して生きていけるのです。
(牧師 藤塚聖)
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2023年11月12日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書19章11~27節
説教 「疑問をもつこと」
牧師 藤塚 聖
「ムナのたとえ」は、マタイ福音書では「タラントンのたとえ」になっています。1ムナが100万円なのに対して1タラントは6,000万円なので、スケールが違います。ルカは庶民の生活に合わせて現実的な金額にしたようです。話の内容は、資金を増やした者は主人に褒められて、褒美として幾つかの町の支配権をもらい、増やせなかった者は非難されたというものです。そのため教会の説教では、誰もが神から固有の賜物(タラント)を与えられているのだから、それを活用しないまま無駄にしてはいけないと教えられました。
しかし私はこの話にずっと違和感がありました。能力を伸ばすのはいいけれども、それが出来ない人もいるし、強調されすぎると能力主義に傾いてしまうからです。またこの主人が神であるならば、どうして「預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい」(21節)ことをするのかと思いました。また「持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられる」(26節)という結論にも嫌なものを感じたのです。
聖書学者の田川健三氏は、この話はイエスが古代資本主義を批判しているものだと解説していて、私は凄く納得しました。つまり主人に例えられているのは神ではなくローマ皇帝であり、多くの収益を生みだす領主に、属州の支配権を与えるという話です。そのように読むことで全てがつながりました。大土地所有者でもある領主は農地の収穫を世界貿易につぎ込み、雪だるま式に膨大な利益を得ていたようです。農民は豊作でも不作でも徴税され、彼らの負債は膨らむ一方です。このようにして領主は自ら働くことなく、多くの場所から収益を収奪しており、その上にローマ帝国の支配が成り立っていたのです。これが「預けないものも取り立て、蒔かないものを刈り取る」という実態でした。
庶民からすれば、目に見えない巨大な経済システムの中で日々搾り取られている感覚だったと思います。貧しい者はますます収奪されて、生きるのもやっとの状態でした。主の祈りに「今日一日の糧を与えてください」とある通りです。持てる者はますます多く持ち肥え太り、持っていない者は僅かのものまで収奪されて痩せ細っていく、こんなことは間違っているとイエスは言いたかったのです。
世界的にも国内的にも経済格差は深刻な問題です。資本を持つ者に富が集中して、貧困が不安と争いをもたらしています。資本主義の行き詰まりと限界は誰の目にも明らかなのに、それを克服できていないのが私たちの現実です。しかしイエスがそうであったように、今の現実に慣らされるのではなく、これは違うという感覚を忘れないでいたいと思います。たとえ小さくても批判や怒りを持ち続けることが、大きな変革の力になるのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年11月19日(日)10:30~ (特別伝道礼拝)
聖書 創世記28章10~22節
説教 「圏外からの着信」
牧師 北川裕明
ヤコブが双子の兄・エサウのかかとをつかんで生まれてきたエピソードは、この先、兄を押しのけてでも先んじようという生き方を予感させる。二人は成長し、兄は狩人となり父から愛され、弟ヤコブは天幕で働く穏やかな人として母から愛された。父イサクは歳がすすみ目が見えなくなった時、エサウを呼んで父の「祝福」を譲り与えたいと伝える。その準備のために、野に獲物を取に行っている隙を突いて、ヤコブは母リベカと共謀し、毛深い兄になりすまし、父からの「祝福」を横取りしてしまう。既に「長子の特権」を手にしていたヤコブは、これで本来ならば兄エサウに与えられたはずのものを、全て獲得する(㊟「長子の特権」「祝福」について、物語の中では詳細には言及されず、両者の違いも明確ではない)。 父をだましてまで奪い取ったヤコブへの憎しみはピークに達し、「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら必ずヤコブを殺してやる」(27:41)と、殺意を募らせるエサウであった。
行く末を案じたリベカの指示に従い、遠方にある母の実家へと旅立つヤコブ。その途上、日が沈んだので野宿しようと立ち止まった名もなき場所。初めてのひとり旅。辺り一面暗闇の中、ヤコブの胸中はどうだったのだろう?「心細い」という程度のことではなく、「絶望」していたに違いない。ヤコブにとっての「神」は、父祖アブラハムの神、父イサクの神であり、自分自身と直接繋がっている神ではなかった。また、あんなに執着して奪い取った「長子の特権」や「祝福」さえも、父の家を離れた途端、何の意味もなくなってしまったことに気づかされたのではないか。
思い起こせば私たちも一つのあり方に捕らわれ、その通りにならなければ、全てが駄目になると思い込んでいた時がなかっただろうか?今になって振り返ると、どうしてそんな風にしか考えられなかったのかと、むしろ不思議に思う。
その夜ヤコブは夢を見た。「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」そして「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。
あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。------地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」(28:12~15)と語りかけられた。
卑近な例だが、着信不可能な「圏外」となっている携帯電話に、親しい者から「直ぐそばに来てるよ!」と着信があったような感覚だと例えたならば、軽すぎるだろうか----?
ヤコブは目覚める。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(28:16) 絶望と孤独の中で、何者でもない自分を捉えてくれる神に出会った。「父祖アブラハムの神」でも、「父イサクの神」でもなく、「ヤコブの神」に出会った。
(牧師 北川裕明)
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2023年11月26日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書19章28~38節
説教 「子ろばに乗った王」
牧師 藤塚 聖
イエスは「過ぎ越祭」の期間中に、エルサレムで逮捕されて処刑されました。それまでに何度もそれを予告しており(9:22,9:44,18:33)、危ないことは分かっていたのに、なぜ自ら敵対者の総本山であるエルサレムに赴いたのでしょうか。
教義的に言えば、「イエスは人の罪を贖うために十字架で死ぬために行った」ということになります。しかし人間的に考えるならどういうことになるでしょうか。その前に、なぜイエスは捕えられて殺されてしまったのかということです。当時の社会は、庶民にとって非常に生き辛いものでした。支配者から幾重にも搾取され、本当は救済されるはずのユダヤ教からも罪人として差別され、どこにも救いはなかったかもしれません。それに対して、イエスは癒しを施し、あなたに罪はないと宣言し、神の赦しと愛を伝えました。これは庶民にとっては福音ですが、宗教指導者にすれば統治システムが否定されてしまいます。だから影響が大きくなる前に、抹殺する必要があったのです。
そのことを承知の上で、イエスは上京しました。過越し祭に合わせたのは、大勢の前で宗教指導者に回心を迫ろうとしたのかもしれません。または終末の近さを実感して、ある種の決意をもって自分の方から捕まりに行ったのかもしれません。弟子たちの中には一緒に死のうとする者もいましたが(22:33)、その覚悟はいかにも中途半端であり、イエスが本当に命がけであることには半信半疑だったのでしょう。イエスが逮捕されると逃げるしかありませんでした。
民衆にとっては終末への待望は高まっていたので、「メシア」であれ「人の子」であれ「預言者」であれ、イエスに何かを期待していたようです。しかしそれは処刑により失望に終わりました。
さて、イエスは子ろばに乗って民衆の前に現れましたが(36節)、それは一種の「象徴預言」だったと思います。預言者は、言葉だけではなく行動により人々に神の意志を伝えました。例えばエレミヤは、バビロニアによる国の滅亡を教えるのに壺を割ったり(19:10)、また祖国にいずれ帰還
できることを、伯父の畑を買うことにより示しました(32:9)。それにしても、イエスが乗るロバの背に弟子の服がかけられ、上着の敷かれた道を行く姿はいかにもみすぼらしいものです(35-36節)。普通なら、王や皇帝は豪華な軍馬や戦車に乗って自らの力を誇示するものです。イエスの頭には、ゼカリヤ書の預言があったのかもしれません。それによると、王はろばに乗り、戦車や軍馬や武器を放棄しています(9:10)。
1970年代の韓国の民主化の先頭に立った聖書学者の安炳茂氏は、イエスは自らの死を覚悟して、わざと力のない弱い姿をとったを言いました。
そのようにキリスト教の教えの中心には、強さではなく弱さに目を向けるという価値基準の転換があるのだと思います。私たちは、平和の実現には多くの犠牲が伴うけれども、それは権力や富や兵器とはかけ離れたところで築かれることを知っています。パウロに倣って、弱いときにこそ強い(2コリ12:11)ことを心に留めて、いつも弱い側の立場になって考えていきたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
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2023年12月3日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書20章1~8節
説教 「何によって生きるのか」
牧師 藤塚 聖
イエスはこれまでも律法学者とはたびたび論争してきました。しかし祭司長や長老たちが直に姿を見せたというのは、事態が相当緊迫してきたことになります。権力の中枢が本気で弾圧し始めたからです。彼らは70人で構成される最高議会のメンバーであり、その中でも祭司長はトップ10人の一人でした。
彼らはイエスに圧力をかけ、今の活動を止めないとどうなるか分からないぞと脅したのでしょう。それが「何の権威でこのようなことをしているのか」(2節)という言葉です。直前のエルサレム神殿での騒動(19:45以下)がきっかけですが、イエスからすると、神殿が神の名を使って庶民から金を巻き上げることに黙っていられなかったのです。それ以前から、罪の赦しを宣言し、病人を癒して社会復帰させてきました。それは神殿(祭司)の働きを否定することになります。このようにして、イエスはユダヤ教の在り方を厳しく批判しました。
指導者たちがそれを許すはずはありません。「何の権威」なのかと迫りました。「権威」について想像してみてください。それは「人を黙らせ、批判を許さず、理屈抜きに従わせる」ものではないでしょうか。例えば、「教会の権威」と言われると、私たちは黙ってしまうし、「聖書の権威」となると、それを決して批判できなくなります。つまり権威は人を抑えつけるのです。そして人に利用されます。
イエスは権威など必要とせず、当たり前のことをしていると思っていたでしょう。病人を癒し、罪を否定し、神の愛と赦しを教えました。その当然のことを議員たちが止めさせるから、逆に何の権威があって禁止するのかと問い返したのでした。それが「ヨハネの洗礼は、天からか人からか」(4節)という質問です。律法学者は宗教的熱心さからしてヨハネの洗礼に神の権威を認めるべきなのに、立場上そう言えませんでした(7節)。彼らの言う権威の無意味さが暴露されたのです。つまり神の権威と言ったところで、それは人の都合でどうにでもなったのです。その点、イエスはそれを語ることを意図的に避けて、自分の責任で行動しました。
さて以上のことから、私はモーセ律法の「わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3他)を思い出しました。これは、人が神を都合よく利用することを徹底的に禁じたものです。この世の如何なるものも、神を指し示したとしても、神の真理そのものではないということです。その意味では、何事も「天からのもの」ではなく「人からのもの」(4節)と考えるべきなのでしょう。
神を信頼して生きるとは、信じる宗教や信仰をあくまでも「人からのもの」と受け止め、場合によってはそれを批判・否定できることかもしれません。そうできるのは、私たちの信心によらず、神との関係は不変だからです。誰にでも信じるものがあり、それを権威づけて安心したいのですが、イエスはそうしませんでした。だから空虚な権威をきっぱりと否定出来たのです。
(牧師 藤塚聖)
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2023年12月10日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書20章20~26節
説教 「信仰と社会問題」
牧師 藤塚 聖
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25節)というイエスの言葉は有名です。当時はローマ帝国に対する反発も大きくなり、抵抗として納税拒否運動も起こっていました。イエスを陥れようとした者は、そういう状況も利用したのでしょう。「皇帝への税金は納めるべきか否か」とあえて質問しました(22節)。イエスが「納税するな」と言うなら、ローマへの反逆者として総督に訴えることができます。逆に「納税せよ」と言うなら、ローマの手先か売国奴として貶めることができるという訳です。それに対するイエスの答えが上記の言葉です。それにしても、言葉尻をとらえようとした者たちが驚いて黙ってしまったというのは(26節)、どうにも不思議なことです。この言葉のままなら、皇帝への納税と神殿への納税を言っているだけだからです。
さて、この言葉は教会の歴史の中で様々に解釈されてきました。その代表的なものがいわゆる「政教分離」で、政治と宗教の区別が言われているというものです。よく聞く意見として、教会は信仰の事柄に集中すべきで、政治的・社会的な問題に関わるべきではないというのがありますが、その根拠にされてきました。プロテスタント教会の中でも、ルター派は「二王国説」により政治には距離を置く傾向があります。改革派はカルヴァンがそうであったように、政治に関わる傾向が強いかもしれません。
私もこの言葉は政治の領域と宗教の領域の区別が言われていると漠然と考えていましたが、「イエスとその時代」(荒井献著)によるとそういうことではないようです。多くの学者の解釈の中で、イエスの強烈な皮肉として見るのが最も的を射ているように思いました。つまり「神のもの」とは庶民が納める神殿税や供物であり、神殿の利権とつながる者はそこから膨大な富を得ていました。納税にも両替が必要で、そこでも手数料がかかるのです。イエスは、神殿がこれだけ暴利をむさぼっているのに、皇帝への税金だけ問題にするのは違うだろうと言いたいのです。皇帝への税を批判するならまず神殿税を批判すべきなのです。こう言われて、さすがに回し者も黙るしかなかったのでしょう。
このように、本当は神の領域であるはずのことが、実際には社会や政治と密接につながっているということが現実としてあります。それは今盛んに問題となっている旧統一協会と政治の癒着ぶりを見ても明らかなことです。政教分離ということも原則として保持しつつも、その中身が常に問われると思います。
また私たち自身の信仰内容も社会の価値観に大きく影響されており、決して聖域ではないと知っておく必要があります。そうでないと、信仰と言いながらも実際は先入観や思い込みになり、合理的な判断が出来なくなるからです。そのためにも自分の不完全さをしっかり認めた上で、いつも真理に耳を傾けていく謙虚さが大切ではないでしょうか。
(牧師 藤塚聖)
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2023年12月17日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書1章18~25節
説教 「イエスの父ヨセフ」
牧師 藤塚 聖
来週のクリスマスによせて、本日はイエスの両親について、特に父親のヨセフについて考えてみます。マリアは聖霊により子を宿しました(20節)。これは特別な人物は特別な形で誕生するという一つの表現ですが、もしも史実を反映しているのなら、ヨセフは相当寛容な人だったことになります。「正しい人」(19節)ゆえに破談でいいのに、何か思うところがありマリアを迎え入れたのでしょう(24節)。
この聖霊による懐妊が、後に「マリア崇拝」にまで発展しました。彼女は「神の母」で「無原罪」で体をもったまま「天に昇った」とされています。このように、特にカトリック教会では聖母マリアの存在感は凄く大きいのですが、対照的に父ヨセフの影は薄いのです。福音書の中でも、12才のイエスを伴い「過ぎ越し祭」に参加して以降は(ルカ2:42)、全く言及されていません。それ故に早くに亡くなったのではないかと考えられています。私たちも何となくそういうイメージをもっています。それならば、ヨセフはいつ頃亡くなったのでしょうか。
当時のユダヤ社会では、息子は父親の仕事を継ぐのが当たり前であり、イエスは大工でした。家屋をはじめ木材加工全般がその仕事でした。従って、ヨセフはイエスが成人する13才までに、自分の全ての技術を教え込んだと思われます。だからそれまでは生きていたことになります。一方で、イエスが宣教活動を始めて、久しぶりに郷里を訪ねた時に、村の人々は彼を「マリアの息子」と呼んでいます(マルコ6:3)。つまり相当時間が経ち、父親のヨセフのことが記憶から遠ざかっていることが分かります。それが10年を超え20年近く経っているとするなら、この時33才位のイエスがまだ10代半ばの時に、父が亡くなったことになります。それはイエスが13才で成人して間もなくだったのでしょう。また、下には弟と妹が少なくとも6人以上いたようなので(マルコ6:3)、まだ小さな弟妹をかかえて、父に代わって大黒柱として一家を支えたのです。人生で一番多感に時に父を亡くして、このような大変な苦労をしたことは、イエスの人格形成に大きな影響を与えたのではないでしょうか。
また、イエスは人並外れて聖書に精通していたようなので(ルカ2:47)、ヨセフが父としてきちんと会堂での教育を施したのでしょう。逆に、早くに逝ってしまったことで、イエスは家父長制の悪しき束縛を免れることができました。つまり、ヨセフは仕事や教育など必要なものは与えて、結果として悪いものを与えずに済んだのです。そもそも、ヨセフがいなければイエスの誕生はなかったのだし、ヘロデ大王の粛清に際しても、エジプトへの一時避難という彼の決断により(マタイ2:14)、難を逃れることができたのでした。
このように、イエスにとってヨセフは良い父親だったと思われます。そうでなければ神への祈りに、「お父さん」と呼びかけることはなかったでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年12月24日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書1章46~56節
説教 「イエスの母マリアの賛歌」
牧師 藤塚 聖
「マリアの賛歌」は、彼女が洗礼者ヨハネを宿したエリザベトを訪ねた際に歌ったものとされています。最初の「あがめる」という言葉がラテン語で「マグニフィカト」なのでこの名称で広まりました。それにしても、ルカ福音書ではイエス誕生の前に、なぜヨハネの誕生がこれほど強調されて描かれているのでしょうか。本当なら2章から始まっても何の問題もないのです。
マリアの賛歌の内容は、前半は敬虔な信仰者の祈りの言葉であり、神の子を宿した感謝と読むこともできます(48節)。しかし後半は(51節以下)、社会の不条理への批判とその変革を訴えていて、とてもマリアのものとは思えないし、このシチュエーションに全くはまっていません。結論としては、この賛歌は洗礼者ヨハネないしはその弟子たちから生まれたようです。そしてその伝承が教会に伝わり、それをルカが採用したということです。その点では、「ザカリアの預言」(67節)や天使の予告(14-17節)もヨハネ教団の思想が反映されています。つまり長い1章全体がヨハネ思想の展示会のようになっています。
イエスは洗礼者ヨハネの活動に深く共感して、郷里を離れてヨハネ教団に加わりました。しかし後にそこを出て独自の活動を始めています。ヨハネの活動はユダヤ教の改革運動であり、悔い改めと洗礼による救済を説きました。ユダヤ教の抑圧に苦しんだ庶民は、皆こぞってヨハネから洗礼を受けました。しかしイエスにとっては、ユダヤ教と不可分のユダヤ主義を克服していないと思えたのでしょう。イエスは洗礼も施さず、人の罪も神の戒めも説かず、あるがままでいいと罪の赦しを宣言しました。つまりイエスの誕生は、洗礼者ヨハネが体現している旧約の時代からの転換を意味しているのです。
そのように考えると、マリアの賛歌は小さき者への神の眼差し、社会の矛盾への批判や変革が言われ、ヨハネが見るべきものをしっかりと見ていたことがうかがえます。しかし最後はユダヤ民族への祝福に収斂しており(54-55節)、民族主義を克服できないのです。またザカリアの預言もイス
ラエルの民族主義を謳歌するものでしかありません。
福音書を書いたルカは独自の歴史観を持っていて、イスラエルの時、イエスの時、教会の時というように、過去から未来へ進んで行く「救済史」を考えています。だからヨハネの働きは優れていても、それはイスラエルの時であって、古いものとして乗り越えられねばなりません。意地悪な見方をするなら(3:16)、ルカはその古さに注目させるために、ヨハネに関する大量の情報を提示しているとも言えます。このように古い時代から新しい時代への転換を、ヨハネ誕生とイエス誕生の対比で描いているのではないでしょうか。
ヨハネは最後の預言者としてユダヤ教を超えました(7:26)。そしてイエスの福音はそのヨハネさえ超えていきます。だからそれは本当ならキリスト教という宗教の枠にも収まらないのでしょう。それは国や民族や宗教、言葉や文化、ありとあらゆる違いを乗り越えて、人はみな無条件に神の子であり、神の祝福の中にあることを教えてくれます。クリスマスはそのことを心に刻むときなのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
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2023年12月31日(日)10:30~
聖書 ルカによる福音書20章27~40節
説教 「生きている者の神」
牧師 藤塚 聖
「復活」はキリスト教信仰の重要なテーマの一つです。当然聖書の中では数多く語られています。しかしその内容は多様なので、復活はこうだと簡単には言えません。それならイエス自身はどう言っているのか興味深いところですが、それが今回の話です。
サドカイ派とパリサイ派は、ユダヤ教の主流ながら色々な違いがあります。前者は富裕層であり、保守的で現実的なために復活を否定しました。後者は中産階級で、律法を時代に合わせようと努力しており、復活や天使や霊を認める立場でした。サドカイ派からはイエスがパリサイ派に近いように見えるので、復活の是非について問うたのでしょう。そこで彼らは「レビラート婚」を引き合いに出して、もし復活があるなら社会に混乱が生じると主張しました。
レビラート婚とは、夫が死んで子がない場合、家系の存続のために、亡き夫の親族が子供をもうけて資産を継がせるという制度です(申命記25:5以下)。しかしそれを引き受ける者は自分の資産を持てないので、承諾は簡単ではなかったようです。ルツ記でも、親族がみな断ったので、ボアズがルツをめとることになりました(4:6)。とにかく、この制度によるならば7人がみな妻なので、全員が復活したなら誰が正妻か分からないというわけです。
イエスは二つのことを言いました。まず復活とは現世の命の延長ではなくて、全く新しい命だということです(36節)。サドカイ派は復活を蘇生のように考えていたようです。もう一つは、大昔の人たちもすでに復活して、今も神のもとで生きているということです(38節)。それは神が自分を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言ったことが根拠になっています(出エジプト3:6)。理屈として成り立つのか気になりますが、とにかく死んだ者も生きている者も、すべての人が神の子として、生死を超えて神のもとで生きることが言われています。非常に単純明快であり、復活とはそういうことなのでしょう。
その点では、パウロはユダヤ教の黙示思想に相当影響されているようです。死者は「主の日」まで眠っていて、復活にも順番があるとされ、神のラッパが鳴り響くなど極めて神話的な信仰だと思います(1テサロニケ4:15以下)。彼は自分が生きている間に「主の日」が来ると思っていたので、晩年には考え方が変わったかもしれません。
一方で、福音書記者ヨハネは将来の復活ではなく(11:24)、現在の復活を語っています。つまり神を信頼して生きることが、そのまま復活の命を生きていることだというのです(11:26)。いつのことか分からない「主の日」や死後のことを気にするより、今ある命に目を向けることの大切さが言われているように思います。
このように、将来に比重がかかると、今現在がおろそかになるし、逆に現世だけに縛られると、今の命に執着して余裕が失われてしまいます。そのうまいバランスが必要かもしれません。聖書に一つの答えがあるのではなく、様々な考え方が記されているので、それらに学びながら、私はどう考えるのか、自分の死生観をしっかり持ちたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
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