礼拝説教集
2024年11月10日(日)10:30~
聖書 マルコによる福音書9章2~8節
説教 「日常を離れて」
牧師 藤塚 聖
先月の伝道礼拝では、講師の先生のお話から、これまで出会った先輩の先生方を通して、大きな影響を受けられたことを感じました。本日の話でも、雲の中から「これに聞け」(9節)と声があったように、人はイエスに聞くことで変わっていくのでしょう。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちは、イエスと山に上り、そこで神秘的な体験をしました。山の上とは、神が顕現する場所であり、イエスの衣が光り輝くことも、神との交わりを表しています。かつてモーセがシナイ山で神と接したのはその典型と言えます(出エジプト34:29)。
弟子たちが目撃したのは、イエスがエリヤとモーセと話し合っている光景です。二人は旧約の預言と律法を代表する英雄なので、ペテロはすっかり舞い上がり、テントを三つ建てると提案しました(5節)。この感動が永遠に続いてほしいと願ったのでしょう。但し、ペテロはあまりのことに混乱していました(6節)。そしてこの光景は長くは続かず、すぐに元の状態に戻ったのでした(8節)。
さてこの不思議な話は何を伝えているのでしょうか。弟子たちにすれば、神に近づくこの世ならぬ体験でした。しかしその感動は恐れに代わり(6節)、聞きたくないことを聞かされました。イエスを含む三人が語り合っていたことは、受難についてだったからです(ルカ9:31)。山を下りてからも、イエス自身がそれをはっきりと言っています(12節)。つまり弟子たちにとって、神を感じたこの体験は、幻想が打ち砕かれて違和感を覚えるひと時だったのです。
このことは私たちの礼拝と関連するかもしれません。私たちは日常から一旦離れてこの礼拝に集っています。そして決して日常にはないものを受け取ります。つまり私たちは自分の常識や幻想を打ち砕かれて、そうではないイエスの言葉を聞かされます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って従え」、「自分の命を救う者はそれを失い、福音のために命を失う者はそれを救う」、「偉くなりたい者はみなの奴隷になれ」、「7回を70倍するまで赦せ」、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟姉妹、母なのだ」、「この最後の者にも、1デナリオンを支払ってやりたいのだ」等々。
私たちは嫌な気持ちになるために礼拝に集うのではありませんが、日常と同じなら意味がないかもしれません。そのためにも、礼拝で受け取るものは非日常性であるはずです。そしてそれを受け取り、山の下ならぬ自分の日常生活に戻りますが、いつしかイエスの言葉の違和感が消える日が来るかもしれません。イエスの言葉は社会では通用しないと思っていたけれども、その社会の方が違うのではないかと。
恐ろしくて違和感でしかなかったイエスの言葉が真理であると思えるようになるなら、それは幸いなことです。私たちの礼拝は神秘的なものではありませんが、そこにある非日常性を通して、自分の日常を見直してみることに大きな意味があるのではないでしょうか。
(牧師 藤塚聖)