礼拝説教集
2025年6月15日(日)10:30~
聖書 詩編51編1~21節
説教 「罪とそのゆるし」
牧師 藤塚 聖
詩編の表題は後代の付加であり、殆どが内容とは無関係と考えられています。しかし51篇は表題通りである可能性が大きいようです。ダビデが自ら犯した過ちを悔いてよんだのが、この詩だと言われています。それは一国の王による策謀と証拠隠滅という恥ずべき犯罪でした。
内容はサムエル記下11章から12章に記されています。ダビデは自国の兵士であるウリヤの妻と関係を持ち、彼女は妊娠しました。それを隠すためにウリヤを戦場の最前線に送り出し、画策通りに戦死させたのでした。そこで預言者ナタンは例え話を用いて、ダビデに向かって彼の犯した罪を厳しく糾弾しました。そこで初めてダビデは自らの過ちに気が付いたのです。そこから彼の後悔と苦悩が始まり、51篇にはその心情が綴られているとされています。
私はこの詩を読んで、二つのことを考えました。まず罪の自覚とその赦しは対になっているのではないかということです。つまり赦しがないと罪は受け止められないのです。分からないのではなく、分かろうとせず、ごまかして逃げるのです。預言者ナタンはダビデが「わたしは主に罪を犯した」と告白すると同時に、「その主があなたの罪を取り除かれる」と宣言しています(サムエル下12:13)。ダビデは神からの絶対的な赦しに信頼して(3,4,9-11節)、自らの過ちに真摯に向き合うことができたのでしょう(5,6節)。このように神の赦しが大前提としてあるというのは、非常に重要なことだと思います。
これとは結び付かないのかもしれませんが、私たちの社会はだれも責任を取らない無責任社会とよく言われます。それは過ちを認めると事実上再起不能になる社会の意識や制度の遅れが原因ではないかと思います。過ちを認めてきちんと償えば赦される成熟した社会なら、もっとみな自分に正直に生きることが出来るでしょう。
二つ目は、人はどこで神と出会うのかということです。ダビデについては、人生最大の失敗に際して神に最も近づいたのではないかと思います。51篇を本人の罪の告白とするならば、王の権力を象徴する宗教儀式の中ではなく(8節)、力を誇示する事業の中でもなく(20節)、人に言えない負い目(16節)や後悔(19節)、自分ではどうすることもできない罪悪(7節)を通して、神に出会っているといえます。旧約聖書では、ダビデのみならずアブラハムもモーセもみな自らの破れの中で神を経験しているのです。
このように、人が神と出会うのは幸いな時ではなく、どん底と言える時なのかもしれません。見方を変えるなら、本当に辛く苦しい時に、神が最も近くにいるというのは、私たちにとって大きな慰めではないでしょうか。「人が上手くいっている時に学ぶものは殆どない、失敗した時に多くを学ぶ」という先人の言葉は、ここでも当てはまるように思います。
(牧師 藤塚聖)
