礼拝説教集
2025年3月30日(日)10:30~
聖書 ヨブ記8章1~22節
説教 「確信とゆらぎ」
牧師 藤塚 聖
私たちの教派である日本キリスト教会は、「信仰告白」を重んじる教会と言われています。信仰告白を持たない教派もあるので、信仰の内容を言葉で明確に表現することは大事なことだと思います。しかし一方で、それが絶対的な「権威」となり批判を許さないのなら問題です。信仰告白は状況の中で生み出されたものなので、克服すべき場合もあるからです。従って、疑問があっても丸ごと受け入れるというのは、本当は違うように思います。
何の疑問も持たずに、ひたすら固く信じることが良いこととされますが、果たしてそれでいいのでしょうか。聖書では「不信仰な信仰」も語っています。マルコ福音書9章には、癲癇の息子をもつ父親の「信じます、信仰のないわたしをお助け下さい」(24節)という言葉が記されています。彼は自分が不信仰だと自覚しながらも、助けてほしい一心でとにかくイエスにすがったのでした。私たちが「信じる」と言っても、それは曖昧で極めて不確かかもしれません。このように人間の理解には限界があり、常に不完全だということを自覚している必要があると思います。
ヨブの二人目の友人ビルダテは自信に満ちていて、自分の考えに一切疑いを持ちません。彼は最初のエリパズのような人生経験はないので、伝統や社会常識(8-10節)に照らしてヨブを諭しています。3節以下は彼の「信仰告白」と言えます。それを要約すると、神は正しい(3,20節)、人は悔い改めよ(5,6,説)、そうすれば救われる(6,7節)という三段論法です。彼は神の考えを代弁しているつもりなので、前言を言い換えて、神は正しい、その神に背くなら(13節)、罰が与えられる(12,13-15節)と容易に断言できるのです。
さて、信仰告白として有名なのが「二重予定説」です。ウエストミンスター信仰告白や信仰問答ではこれがベースになっています。カルヴァンが、神の無条件で一方的な恵みを言うために、人の善行ではなく神の決定(予定)だと教えたことから、後に予定説に発展しました。師匠であるカルヴァンの「神の恩寵」で留めるべきなのに、後継者たちが救済の範囲や滅びに予定された者の存在まで信仰内容(信仰告白)にしてしまったのです。ここまでくると、人が勝手に神の意志を推測して、自らが神の位置に立って断定しているように見えるのです。
「信仰告白」や「ドグマ」は尊重するとしても、不信仰な人間による神への理解にすぎません。ビルダデにはそういう自覚はなかったのでしょう。このように自信と確信のあまりに、自分を疑うことをしないというのは非常に問題です。だから彼の言葉はヨブに響かなかったのでしょう。いくら自分が確信を持っていたとしても、相手を幸せにしないのなら、独りよがりでしかありません。
私たちの信仰は不安定で不確かであるべきというのではありませんが、自分の確信がいつでも崩される用意がなければならないと思います。しかしその私たちが神の恵みの中にあることに何の変わりもありません。
(牧師 藤塚聖)
