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​礼拝説教集

2025年9月28(日)10:30~

   聖書  コヘレトの言葉9章1~10節

 説教 「いのちより大切なもの

 ​牧師 藤塚 聖

 

 コヘレトは、生きることに過剰な意味を求めることを批判しました。生きることは只それだけで意味があり、それ以上でも以下でもないからです。もしそれ以上のものがあれば、プラスアルファとして有難く頂けばいいということです。

 9:1以下では、そこに至るプロセスが語られています。この世では、善人にも悪人にも、良い人にも罪を犯す人にも関係なく、全て良いことも悪いことも起こります(2節)。伝統的信仰が未来の「神の裁き」を語っても、死後のことは誰も分からないとして全く問題にしていません(10:14)。だから、人生の意味を詮索するよりも、日々楽しく生きることが幸いなことだと結論付けています(7-9節)。しかし真面目な人ほど、生きることの意味や目的を追求するので、コヘレトに物足りなさを感じるのではないでしょうか。

 一方で、別の現実もあります。生きることに困難を覚えるケースです。昔の友人が、引きこもりを克服して社会に出たが、上手く適応できずに悩んでいると知りました。また鬱を病んでいる知人は、自分が生きているのが良いとは思えず、食事することに抵抗感があると言いました。自分に生きる価値がないと思い、自分を否定するのは、それだけ目には見えない重圧に押しつぶされ、追い込まれているということです。

 私たちは思っている以上にストレスの大きな社会に生きていると思います。朝日新聞に教育・社会学者の桜井ちえこ氏の「しんどさ増す子ども」という論説が載りました。それによると、成長しない者は食べられないという「成長主義」がまん延して子ども達が押しつぶされていると言います。それは点数で選別し、頑張りを奨励し、一人で生きる自己責任を強要します。大人も含めて、今になってようやくその歪みに気付き始めたようです。

 教会はどうでしょうか。日本キリスト教会の「小信仰問答」第一問「あなたは何のために生きていますか」の答えは「創り主である神を知り、神を愛して、神に仕え、み栄をあらわすためです」となっています。大変立派ですが、ストレス社会では更なる重圧かもしれません。私なら「神の愛の中にある自分を知り、自分を肯定することです」にします。

 このように、負荷がまん延する社会で生きて、更に立派に生きる重圧がかかるのは違うのかもしれません。その点では、コヘレトが生きることにそれ以上の意味を求めず、それに縛られないで、普通に食べて飲んで、それなりに苦労して生きることを神の報酬とすることに、すごく気持ちが楽になりました。

 星野富弘さんは昨年4月に逝去されましたが、その作品は群馬県をはじめ幾つかの富弘美術館で見ることができます。「いのちより大切なもの」という詩にこうあります。「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった、いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。コヘレトの言いたいこともこういうことだと思います。生きることは「手段」であり、彼は楽しく生きて満足することをその「目的」としました。イエスの思想はコヘレトに近いと言われています。その人生の目的は「分け隔てなく皆と仲良く生きること」だったでしょう。

(牧師 藤塚聖)

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