礼拝説教集
2026年10月4日(日)10:30~
聖書 マルコによる福音書1章21~28節
説教 「全人格の回復を与える」
牧師 渡部静子
マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの宣教、主イエスの洗礼、荒れ野の誘惑、ガリラヤ伝道、4人の弟子の選びの出来事という準備を経て、いよいよ主イエスの具体的な宣教活動が始められていきます。
その活動は教えと病のいやしとか悪霊の追い出しの出来事でありました。すなわち、宣教といやしであります(1:39)。
そして、それは一つのことでありました。主イエスは、主イエスにおいて神の国が始まったと宣言されましたが、いやしの業は神の国が始まった見えるしるしであったのです。
今日の個所には、「驚いた」という言葉が二回記されています(22,27)。それは主イエスの教えに対してであり、いやしの出来事で対してでありました。
主イエスの教えは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」のでした。律法学者の語り方の特徴は、書物もしくは口伝の伝承の言葉、つまり伝統に従って律法解釈を行うというもので、それが彼らの権威であったのです。
主イエスは、他者の権威の上に立って語るというものではなく、また主イエスご自身が権威を振りかざすということでもなかったのですが、しかし、人々は「非常に驚いた」のです。主イエスの語る言葉には力があり、ただちに聞く人々に働き、神の国のご支配を味わったということでありましょう。
悪霊を追い出す奇跡、これも主イエスの権威を示すもので、神の国を目に見える形で示すものでありました。
「黙れ、この人から出て行け」、主イエスが汚れた霊に命じた言葉には力があり、権威があり、この人はいやされたのです。
主イエスが神の国は近づいたと宣言された時、それは、主イエスの到来と共に神の国は始まったということの宣言であり、同時に、サタンの国の滅亡が始まったことの宣言でありました。ですから、悪霊の追放は神の国到来の重要なしるしでありました。
それは現代においても、この神の支配と悪霊の支配との戦いはまだ続いているのです。イエス・キリストの十字架と復活によって、すでに決着はついているのですが、神の国が完全に来るまでは、まだ悪霊は力をふるっているのです。
私たちは聖書を読むとき、その登場人物の中に自分を見いだす読み方をしなければなりません。私はこの汚れた霊に取りつかれた人と無関係だと言えるでしょうか。
私の中に汚れた霊、悪霊は住んでいないでしょうか。パウロはこう言います。「わたしたちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、悪の諸霊を相手にするものなのです(エフェソ6:10-13)。
戦うためには、神の武具、すなわち、信仰(16)、神の言葉(17)、祈り(18)が必要だと教えます。
人間は本当に弱い者です。「黙れ、この人から出て行け」、この言葉は自分の内側から発しても、自分の力で克服することは出来ないのです。こ言葉は私たちの外から来るほかありません。
聖書のみ言葉と祈りによって、信仰に踏みとどまる。だからこそ、主日ごとにささげる礼拝がどんなに大切かを心に刻みたいと思います。
主イエスのみが私たちの歪みと罪を教え、全人格、全存在を回復してくださる方なのです。 (牧師 渡部静子)

