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​礼拝説教集

2024年4月28日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書2章13~17節

 説教 「義人と罪人

​ ​牧師 藤塚  

 ユダヤ人社会では「律法」が全ての基準でした。それは社会的な規範であるだけでなく宗教的なものでもあったので、反すると宗教的に穢れた「罪人」とみなされました。守る人は「義人」というわけです。しかしイエスは神の関係において人は同じであることを教えています。

 罪人とされた代表格が徴税人で、最も忌み嫌われていました。通行税や関税を扱うので、外国人との接触が避けられないからです。また敵国ローマのために徴税したので、警護が必要なほど憎まれました。そういう仕事をしているレビという人に、イエスはわざわざ声をかけて、その家で一緒に食事をしたのでした(14節)。

 律法に厳格なパリサイ派の律法学者は、穢れた罪人たちと一緒に食事するイエスを非難しました(16節)。それに対して言ったのが「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉です(17節)。イエスは罪人の仲間になることにより、義人と罪人という区別を否定したのでした。神との関係において、人は例外なくみな神の子だからです。

 この重要なことを他の福音書はよく分かっていません。ルカは、「罪人を招いて悔い改めさせるためである」と修正しています(5:32)。これでは罪人であることが前提としてあり、義人に変わらねばならないということになります。マタイでは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(9:13)というホセア書の言葉が引用されていて、罪人は憐れみの対象になっています。義人が罪人を上から見下ろす構図です。つまりルカもマタイも、罪人と義人という区別を前提にしており、イエスの考えとは真逆なのです。それに影響されて私たちも、イエスは罪人の私たちを救済するために来てくださったのだと、この話を短絡的に読んでしまうのです。

 この話のポイントは、罪人と義人というように、人を宗教的に区別することの無意味さを、イエスが行動で示したということでしょう。神との関係においては人に区別はありません。しかし当然ながら現実社会においては正しく生きる人とそうでない人はいます。でも正しく生きるか否かによって、神との関係が変わるわけでありません。本質と現実を混同してはいけません。現実がどうであれ、それで本質が変わることはないからです。しかしだからと言って、正しく生きること自体が無意味であるはずがありません。

 人は最初から神の子なのですが、間違いを犯すし失敗もします。完全ではないので当然問題も沢山あります。それを踏まえた上で、反省しながら問題を解決していけば良いのです。神の子であっても、元々不完全であることを赦されているのではないでしょうか。神の子としてそれに相応しく生きたいものです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)

(牧師 藤塚聖)

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