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​礼拝説教集

2025年8月10(日)10:30~

   聖書  ヨブ記35章1~8節

 説教 「神の超越と内在

 ​牧師 藤塚 聖

 

 教会の信者が外からどのように見られているか、考えたことはあるでしょうか。これについては、以前ある方から率直な意見を聞く機会がありました。この方はもともと宗教には距離を置いて関わらないようにしていたということです。それでもある時、教会の信者の独善性に触れて、ますます不信感が強まったと教えてくれました。

 私たちも家族や友人にどう思われているでしょう。信仰の継承どころか、まず私たちの信仰が健全であり、周りに安心されることが先決なのでしょう。それくらい、訳知り顔で神を語る信者に対して一般の人は不信感をもっているのです。

 その点では、エリフはそういう信者とは対極にある人だと思います。彼にとって神とは軽々に語れないほど人から隔絶した存在だからです(4節以下)。彼の目には、ヨブが神に対して文句を言い訴えているのが、神にべたべた甘えている様に見えるのでしょう。また彼は神が人の善悪さえも超越していると考えたので、「因果応報」で神を説明する友人たちにも我慢できませんでした(4節)。エリフからすると、ヨブが正しかろうが過ちを犯そうが、被災とは関係ないのです(6-8節)。私もエリフのこの考えには同感であり、大きな災害を神の罰や警鐘とするような考え方には同意できません。

 さて、ヨブも神の超越性は分かっていると思います。ではエリフとの違はどこにあるのでしょう。平たく言うなら、神に対してエリフはドライでヨブはウエットだと言えるかもしれません。ヨブは神の超越を認めながら深いつながりも感じるので、余計に苦しいのでしょう。

 「超越と内在」は昔から哲学のテーマであり、両者の関係をどう考えるかは重要です。その点で、エリフのように超越の神だけでやっていけるのかは疑問です。彼は正統的ユダヤ教の立場なので、絶対的な神の「律法」に黙って従うということに尽きます。その律法に神の意志は固定化されているので、ヨブのように訴えたり答えを求めることは論外なのです。しかし自分にはない神との生き生きとした関係を見せつけられて、エリフは不安を感じたのかもしれません。ヨブへの厳しい言葉はその不安の反映でしょうか。そういう時に限って、人は自らの正統性を必要以上に主張するものです。

 最後のまとめとして、私たちの神のイメージは、超越の神と内在の神、どちらのイメージが強いでしょうか。何かにつけて神を都合よく持ち出す人はエリフを見習うべきでしょう。ドライな信者にはヨブが参考になるかもしれません。

 使徒パウロは元々ごりごりの正統派ユダヤ教の立場でした。つまり超絶の神です。キリストに出会ってからは「超越」ではなく「包摂」の神に変わったと思います。手紙で「キリストにおいて」を多用しているからです。また「キリストがわたしの内に生きている」(ガラテヤ2:20)とも言うので、キリストとの一体感、つまり「内在」の神なのでしょうか。この両者のバランスは必要かもしれません。いずれにしても、私たちは自分にとって一番おさまりがいいところを、自分で見つけるべきです。 

(牧師 藤塚聖)

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