礼拝説教集
2025年11月16日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書5章43~48節
説教 「敵を愛しなさい」
牧師 藤塚 聖
イエスの愛敵の教えは崇高な理想ではなく、人の本来の在り方を示しています。私たちは敵も味方もなく、誰とでも助け合って生きるのだから、アガペーの愛は人の本質なのです。
そして神は最初からアガペーの神であり、人にもその愛を生きるように戒めとして示しました。イエスが律法の本質を、神を愛し隣人を愛することとしてまとめたことからも分かります(22:37-39)。これは旧約から新約の時代まで変わらずに普遍的な真理として存在しています。その一方で、人は愚かさからそれを都合の良いように歪めてきました。神の戒めは普遍的なのに、イスラエルの歴史の中では、それを自分たち仲間内の倫理に狭めてしまい、愛する対象を仲間だけに限定したのです。従って、異邦人はいつまでも「敵」であり続けました。その間違いを明らかにするために、イエスはあえて敵を愛しなさいと教えたのでしょう。
それは旧約預言者たちも、神がユダヤ民族を超えて万民の神であることを教えたこととつながっています。私たちは何となく、旧約は不完全で新約になり神の真理が明らかになったような印象を持っていますが、神のアガペーは不変であり、人がそれを充分に理解できなかったということです。その点では旧約も新約も変わらないと思います。
例えば、愛敵に関係することとして、パウロは敵に復讐するなと命じていますが(ローマ12:19-20)、「神の復讐」を理由にします(申命記32:35)。神が復讐するから自分ではするなということです。また引用した箴言(25:21-22)では、あなたを憎む者にパンを与えよとあり、頭に炭火を積むことは復讐ではなく、敵意の甲を脱いで共存することがその趣旨になっています。しかし本来愛敵が教えられているのに、パウロは神の復讐と解釈して疑いません。本当なら、イエスの愛敵の教えを根拠にすべきではないでしょうか。
また、本日の聖書箇所ではマタイの勇み足が見られます。マタイはユダヤ教への対抗意識が強いので、自分の優位を示すために旧約の価値を下げています。イエスの言葉にレビ記の引用を加えていますが(19:18)、「敵を憎め」とはどこにもありません。そこにはむしろ、相手を憎むな、復讐するな、恨みを抱くなとあります。つまり本当なら憎んで復讐して恨む相手であっても、自分を愛するように隣人を愛しなさいということであり、イエスの愛敵の教えが先取りされているとも言えます。
これらを見ると、パウロもマタイもアガペーの愛が分かっているのか不安になります。それは教会の優位性を強調するあまりに、旧約を不当に貶めているからです。不完全な旧約が新約で完成されたという間違った印象は、こういうことも影響していると思います。
神のアガペーは、イエスにおいて初めて明らかにされたのではなく、歴史の初めから貫徹されています。それは昔から預言者を始めとして様々な仕方で明らかにされ、イエスもそれをはっきり教えたということでしょう。これは信仰の本質であり中心なので、私たちは常にこれを基準として判断する必要があるということです。
(牧師 藤塚聖)

