過去の礼拝説教集2025年7-12月
2025年7月6日(日)10:30~
聖書 ヨブ記21章7~21節
説教 「ご利益と信仰」
牧師 藤塚 聖
人の幸福と不幸が、信仰の有無と関係あるのか否かを考えてみましょう。ヨブ記ではそういう問題がテーマになっています。平たく言うと、信仰がない人は幸福になれないのかという問題です。
かつてある信者から、キリスト教の信仰以外は駄目なのかと質問されました。その方の友人が別の信仰を持って幸せに生きているが、それは本当の幸せではないと言うべきかという問いです。つまり改宗の無意味さを訴えたのでした。私は、キリスト教だけが真理だという前提は間違っていると答えました。
しかしそのように考える信仰者は少ないのかもしれません。古いタイプの某牧師先生は、たとえどんなに良い人でもキリスト教信仰がなければ良い人ではあり得ないと語っていました。これもキリスト教だけを唯一絶対とする狭い考え方だと言えます。しかし時代は変わり、カトリック教会でも1960年代のバチカン公会議で、キリスト教だけが真理を独占しているという考えを大きく転換して、他の宗教の中にも真理はあると認めたのでした。
本日のヨブの言葉は、上記のテーマとも関係しています。三人の友人たちとの二回目の議論が始まり、三番目のツォファルに対して反論しています。ヨブがどうしても納得できないのは、友人たちの理屈です。つまり神に従うなら幸福になり、そうでないと必ず不幸になるという考え方です。そのために、不幸にならないように神に従順になって、過ちがあれば赦しを請い、神に気に入られなければならないという訳です。まさにご利益のための信仰なのです。
ヨブが見ている現実は、神に逆らう者でも不幸になることなく、彼らは豊かで幸せな人生を送り(13節)、悪人でも災いの日を免れ、怒りの日を逃れている(30節)というものです。つまり友人たちが説いている「因果応報」は全く現実的ではないのです。そうではなくて、たまたまある人は不自由なく安泰に生き(23)、ある人は死に至るまで悩み嘆き(25節)、両者の運命は神への信仰とは全く無関係だということです。
熱心に信仰しているのに、不幸を与える神は信用できないと思うなら、その神に見切りをつけて、信仰を捨てればいいのです。しかしヨブはそうしませんでした。友人たちのようには考えなかったからです。一方で、友人たちがヨブと同じ目に遭ったなら、ご利益の得られない信仰はさっさと捨てたかもしれません。友人たちの信仰は、ある意味でサタンの言葉と一致しているからです。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)と言うように、サタンはご利益があるから人は神を信仰すると見ているのです。
幸いであろうと不幸であろうと、それとは関係なく、神への信頼は成り立つことを、ヨブ記は教えています。仏教で四苦(生、病、老、死)というように、少し考えただけでも、生きる上で苦難や不幸は避けられないと分かるはずです。だからこそ、それを乗り越える力として信仰というものがあるのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
2025年7月13日(日)10:30~
聖書 ヨブ記25章1~6節
説教 「神はどこにいるのか」
牧師 藤塚 聖
ヨブ記の主題の一つは「神義論」です。神は本当に正義なのか、それによりこの世を正しく治めているのかという問題です。神が正義なら、何故この世には不条理があるのかということになります。ヨブはそこが納得できませんでした。
ヨブが見ているこの世の酷い現実が、24章に描かれています。弱い者が守られず(2節以下)、彼らを保護すべきルールが全く機能していません。力を持つ者たちにより、社会の秩序が壊されているのです。この部分を読むと、いつの世でもどこの世界でも起こっていることだと思いました。本当に人間の愚かさは簡単には変わらないのです。
現代においても、各地の戦争により毎日のように市民が傷つき死んでいます。それは力を持った強い者により推し進められているので、今のところ誰も止めることが出来ません。国際政治の力学なのか利害関係なのか、決してあってはならないことが続いています。その中で、物凄い量の兵器が消費され、軍需産業は膨大な利益を生み出しています。危機から避難した人々は食料や生活物資に事欠き、配給所に集まったところを攻撃されています。こんな悲劇に見舞われるのは、彼らが犯した罪が原因だと言えるのでしょうか。このような苦しみが神の懲罰であるとするなら、それはとうてい認められません。
24章では、神に逆らう者たちがあらゆる悪事を働き、弱い者を苦しめているのに、神は彼らを罰することをしないと、ヨブは訴えました(25節)。つまり友人たちが主張する「因果応報」は全く成り立っていないのです。それに対して、ビルダテは神の偉大さ(2,3節)と人間の弱小さ(4,6節)を対比して、ヨブが異議を唱えること自体が分不相応であり、大きな間違いであると非難するのです。
その中に、「女から生まれた者」(4節)という旧約ではここだけの言葉があり、ビルダテとしては人間の不完全さを言っているのですが、パウロはこの言葉をわざわざキリストに対して使うのです。「神はその御子を女から……生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。つま
りヨブ記では否定的に用いられている言葉を、パウロは逆手にとってキリストに結び付けたのです。
従って、私たちがここから考えるべきことは、途中の面倒な説明を省略して、人間の不完全さ、もっと言うならヨブが見ているこの世の不条理の中に、神が共にいるということにならないでしょうか。だから単純に神は私たちと共にいるというより、他のどこでもなく人間の悲劇や苦難の中で、共に戦っていることになるのです。そう信じるならこれに勝る励ましはありません。
このように考えると、私たちが経験する苦難や不条理について、今までとは違う見方が出来るのではないでしょうか。聖書の神とは「苦しむ神」であり、事実イエスキリスト自身が不条理の中で苦しんでそれと戦ったのでした。
(牧師 藤塚聖)
2025年7月20日(日)10:30~
聖書 ヨブ記29章1~17節
説教 「過去をふりかえる」
牧師 藤塚 聖
かつて経験した辛い過去でも、後になって笑い話として語れるようになるということがあります。それを乗り越えたから、そう出来るのだと思います。逆に過去の出来事が現在に重い影響を及ぼして、なかなか前に進めないということもあります。それ故に人とは「時間的存在」なのだとあらためて思います。
それを歴史認識として考えるなら、国や民族の歴史は過去をどう評価するかにより大きく変わります。日本は歴史認識に関して、中国や韓国から常に厳しい目を注がれています。過去にはそれらの国と協力して、共同の歴史教科書が作れないか検討されましたが、実現には至りませんでした。ヨーロッパでは、長く厳しい検証作業を経て、10年程前にドイツとポーランドが共同の歴史教科書を編纂しています。また昔から犬猿の仲と言われたドイツとフランスの間でも20年程前に作られました。このように、過去をどう評価するかという検証作業を通して、現在と未来は開けていくのでしょう。
それを踏まえて、ヨブの物語を読んでみたいと思います。27章まで友人たちとの対話が続きましたが、両者の意見は平行線をたどり、実りのないまま終わりました。29章からはヨブの独白が始まります。まず過去の栄光が語られていて、自分が神に守られ(2-6節)、多くの人々から尊敬され(7-11節)、彼らを救済し(12-17節)、最後は「王のような人物」だったとまで言っています(25節)。驚くほど自画自賛ですが、当時のユダヤ教では一つの表現方法であり、それほどまで神に祝福されていたということのようです。
しかし過去と現在の落差があまりにも大きいので、ヨブは神を信頼するからこそ(4-5節)、その理由が分からずに苦しむのです。もし彼に信仰が無ければ、運が悪かったと胡麻化せたかもしれません。信仰があるからこそ苦しみました。しかしながら、神は人を超越しているのに、人の知恵で神を理解しようとするところに、ヨブの限界があるのでしょう。その点では友人たちと同じだったと言えるのです。
本日の個所を読んで色々と考えました。まずヨブは神を訴えるけれども、自分の過去を正当に評価したということです。私たちならば現状の悲惨さを見て、過去が素晴らしくてもそれを無駄と思うかもしれません。しかしヨブは現状はどうあれ、過去の神の祝福については一切疑いませんでした。それは神への信頼が一貫しているからなのでしょう。ただ神の意図が分からないだけなのです。
それと自信過剰に見えるほど、ヨブは自分が恵まれたことを大いに感謝していることです。ヨブの表現は極端かも知れませんが、実際は私たちも彼と同じように神から多くを頂いているのではないかと気づかされます。それが十分に自覚できていないから、ヨブのように表現できないだけかもしれません。
最後に蛇足を一言。信仰的に考えると、私たちの過去はイエスキリストの過去とつながり、それが現在を生かし、将来の希望になっています。そのことを忘れないでいたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
2025年7月27日(日)10:30~
聖書 ヨブ記33章8~18節
説教 「伝える方法」
牧師 藤塚 聖
人は自分の考えを他者に伝えるとき、何らかの手段なり方法を用いることになります。簡単なこととしては、言葉によるコミュニケーションがそうですが、音楽や絵画また文学作品も、作者がそれを自己表現のために用いていると言えます。
それと同じように、エリフは神が苦難を通して人を教育すると説きました。つまりヨブが経験している苦難には、彼の成長のための教育的な意義があるというわけです。
さて、このエリフという若者は32章から登場します。ヨブと3人の友人たちとの長い論争が平行線をたどり、完全に膠着状態に陥ったので、局面を打開するために登場しました。彼のことは32:1以下に紹介されていて、友人たちよりよほど神に近い人間として語られています。そもそもエリフという名は「彼は神」という崇高な意味があり、ラム族も「彼は崇高なり」で、父のバラクエルの名も「神が祝福する」というように、非常に高く評価されているのです。つまりエリフの意見は友人たちのそれよりは神の真理に近いことが示唆されています。
エリフは以下のように語りました。神は人の成長のために、色々な方法を用いる、苦難もその一つである、しかし人はそれが分からない(14節)、神は苦難により人を懲らしめる、それでようやく人は気づいて回心し、それで魂が救われ、死なずに済む(16-18節)と。
これによると、苦難は神の罰でも裁きでもなく、成長のための訓練や教育ということです。神は人が大切なことに気付くために、苦しい試練という方法を用いるのです。これは「因果応報」とは全く違うし、私たちもある程度共感できるのではないでしょうか。
苦難の教育的意味は一つの考え方としてはありうると思います。「かわいい子に旅をさせよ」、「若い時の苦労は買ってでもせよ」と言われる通りです。しかしヨブ記ではそれが正解とは言われていません。最後の神からの言葉では、三人の友人たちは間違っており、神が分らないと訴えるヨブこそが正しいと明言されているからです(42:7)。エリフについては言及されることなく、否定はされていませんが、ヨブの様に正しく語ったとは言われませんでした。
従って、苦難の意味については、その教育的な意義は考慮に値するとしても、神の意図は一生をかけて問い続けるべきということでしょう。むしろすでに神のことを分かったような顔をして語ることの方が危ないと思います。
ただし、神は人知で図り知ることができなくても、信頼の対象であることに疑問の余地はありません。それは神とは私たちの「存在の根拠」そのものだからです。人がこうして生かされていること自体が神の愛の証明であるし、日々命を頂き生かされていることが、困難を乗り越える力も当然与えられていることになるのです。
(牧師 藤塚聖)
2025年8月3日(日)10:30~
聖書 ヨブ記34章31~37節
説教 「正論の誤り」
牧師 藤塚 聖
最後に登場したエリフは、3人の友人たちに代わってヨブを説得することになりました。彼は神の考えを代弁するかのように、厳しくヨブの無理解を責めています。その要点は、神は正義であり、全てを正しく治めていて(10節)、そこに何の間違いもない(17節)ということです。にもかかわらずヨブは思慮に欠け、神のすることに異を唱え(35節)、それにより、過去の過ちに更に罪を重ねている(37節)と非難しています。
ヨブも神が完全に正しくて、個々人の歩みに従って必要なものを備えてくれる(11節)と分かっているはずです。しかしそれと今の災いとがどうつながるのか見えずに、それで苦しみました。数々の災難の苦しみだけでなく、その神の意図が分からない苦しみが加わり、それが二重の苦難になっているのです。
さて、本日の個所から二つのことを指摘します。まずエリフが神の絶対性と超越性、その隔絶性を強調したことは正しいと思います(10節以下)。神は創造主であり人は被造物であるからです(13節)。その次元の違いゆえに、人は神を把握することはできないと言わざるを得ません。もし把握出来たらそれは神ではないのでしょう。にもかかわらず、エリフが神の代理人のように語るのは矛盾しています。彼は神の教育的意図をどうして語れたのでしょうか。
エリフのことは一旦横に置くとして、私たちにはイエスキリストを通して神を知るという道があります。その言葉と行いを通して神の絶対的な愛を知り、イエスのように「アバ父よ」と祈り、その生きる姿勢を示されているのはとても幸いなことです。
指摘すべき二つ目は、エリフが語る「正論」でヨブは救われなかったということです。従って正論とはあくまでも自分に向けるべきものであり、相手を説き伏せるものではないと分かります。実際に、社会と人の現実は複雑であり、正論では解決しないことの方が多いのではないでしょうか。重々分かっていても現状では無理ということもあるのです。
先月は参議院選挙が行われ、その結果が新聞などで分析されています。参政党が躍進し、日本人ファーストが支持され、外国人への排斥意識が目立つ結果となりました。しかし外国人労働者の働きがこの社会を支えており、今後共生社会を目指すべきことははっきりしています。それでも、生活不安や顧みられない絶望感から、いくら正論を訴えても納得されない現実があります。それより生活苦の原因を根本から改善することが必要なのでしょう。エリフもヨブの苦しみに寄り添うべきだったのです。
信仰が正論として主張される時、その裏では必ず相手に対するさばきが伴うものです。エリフは苦難の教育的意義を語りながら、ヨブが分かるまで徹底的に苦しめばいいと突き放しました(36節)。本当はヨブを諭すはずが、敵意と憎しみに変わっているのです。
正論は自分に対してだけしっかり持つべきです。そして他者に対しては愛の論理ではないでしょうか。もし神が正論を貫くなら、私たちの救いは存在しないでしょう。そこに神の愛があります(1ヨハネ4:16)。
(牧師 藤塚聖)
2025年8月10日(日)10:30~
聖書 ヨブ記35章1~8節
説教 「神の超越と内在」
牧師 藤塚 聖
教会の信者が外からどのように見られているか、考えたことはあるでしょうか。これについては、以前ある方から率直な意見を聞く機会がありました。この方はもともと宗教には距離を置いて関わらないようにしていたということです。それでもある時、教会の信者の独善性に触れて、ますます不信感が強まったと教えてくれました。
私たちも家族や友人にどう思われているでしょう。信仰の継承どころか、まず私たちの信仰が健全であり、周りに安心されることが先決なのでしょう。それくらい、訳知り顔で神を語る信者に対して一般の人は不信感をもっているのです。
その点では、エリフはそういう信者とは対極にある人だと思います。彼にとって神とは軽々に語れないほど人から隔絶した存在だからです(4節以下)。彼の目には、ヨブが神に対して文句を言い訴えているのが、神にべたべた甘えている様に見えるのでしょう。また彼は神が人の善悪さえも超越していると考えたので、「因果応報」で神を説明する友人たちにも我慢できませんでした(4節)。エリフからすると、ヨブが正しかろうが過ちを犯そうが、被災とは関係ないのです(6-8節)。私もエリフのこの考えには同感であり、大きな災害を神の罰や警鐘とするような考え方には同意できません。
さて、ヨブも神の超越性は分かっていると思います。ではエリフとの違はどこにあるのでしょう。平たく言うなら、神に対してエリフはドライでヨブはウエットだと言えるかもしれません。ヨブは神の超越を認めながら深いつながりも感じるので、余計に苦しいのでしょう。
「超越と内在」は昔から哲学のテーマであり、両者の関係をどう考えるかは重要です。その点で、エリフのように超越の神だけでやっていけるのかは疑問です。彼は正統的ユダヤ教の立場なので、絶対的な神の「律法」に黙って従うということに尽きます。その律法に神の意志は固定化されているので、ヨブのように訴えたり答えを求めることは論外なのです。しかし自分にはない神との生き生きとした関係を見せつけられて、エリフは不安を感じたのかもしれません。ヨブへの厳しい言葉はその不安の反映でしょうか。そういう時に限って、人は自らの正統性を必要以上に主張するものです。
最後のまとめとして、私たちの神のイメージは、超越の神と内在の神、どちらのイメージが強いでしょうか。何かにつけて神を都合よく持ち出す人はエリフを見習うべきでしょう。ドライな信者にはヨブが参考になるかもしれません。
使徒パウロは元々ごりごりの正統派ユダヤ教の立場でした。つまり超絶の神です。キリストに出会ってからは「超越」ではなく「包摂」の神に変わったと思います。手紙で「キリストにおいて」を多用しているからです。また「キリストがわたしの内に生きている」(ガラテヤ2:20)とも言うので、キリストとの一体感、つまり「内在」の神なのでしょうか。この両者のバランスは必要かもしれません。いずれにしても、私たちは自分にとって一番おさまりがいいところを、自分で見つけるべきです。
(牧師 藤塚聖)
2025年8月17日(日)10:30~
聖書 ヨブ記35章14~24節
説教 「神にいたる道」
牧師 藤塚 聖
ヨブ記の詩文の最後になって、神がヨブに直接語りかけます(38~41章)。そこでヨブの訴えに答えがあることを期待しますが、一方的に叱られて終わってしまいます。偉大な神と小さな人間との隔絶が強調されるだけで、苦難の意味は何か、この世はなぜ不条理なのか、それについての答えは全くないのです。しかしながら、優れた映画や文学作品というのは大抵結論がはっきりしないで、色々な解釈が成り立つものです。だから読者が自分で答えを見つけるしかありません。ヨブ記もそうなのでしょう。ヨブが答えを見つけたかどうかは分かりませんが、少なくとも悔い改めことになっています(42:6)。
さて、エリフは長い弁論の前半では、苦難の「教育的意義」を語っています。苦難を通して人は大切なことを学び成長するのだから、神の試練として甘受すべきというわけです。それに対するヨブの言葉はないので、納得したかどうか分かりません。
37章で、エリフは神の言葉を先取りするように、神の偉大さと人の無知を対比して、人は黙るしかないと言います。その証左として、まず人知を超えた自然現象が取り上げられ、大自然の力の前には、人が全く無力で無知であることが暴露されます(14-18節)。またヨブが神を訴えたところで、争えるはずもなく(19節)、人が神に対して出来ることはただ畏れ敬うことだけだと言っています(24節)。
そしてエリフの最終的な結論は、「全能者を見出すことはわたしたちにはできない」(23節)という絶望的なものです。それはすでに「神を知ることはできず、その齢を数えることもできない」(36:26)とある通りです。そうであるなら、私たちから「神への道」は断念しなければなりません。そこで「キリスト教神学」で教えられるのが「神から人への道」、いわゆる「啓示」というものです。人間から神へではなく、神の方から自らを人に顕すというものです。イエスキリストが人として生きて、そのキリストを通して神を知ることが出来るということです。
ただし、そのキリストを知るにしても、そうするのはこの不完全な私たちなのです。だから、どのように知っているのかは非常に怪しいのです。というのも、キリストをどう理解するかは、人によって全く異なるからです。従って、キリストを通して神を知ると言っても、そこには幾つもの制約と限界があることを知らなければなりません。そうなると、「神を見出すことはわたしたちにはできない」というエリフの言葉は本質を突いているのかもしれません。
実際に、私たちは長く信仰生活を続けていても、未だに分からないことばかりです。また熱心に学んだとしても、自分の信仰について、いつまで経っても自信が持てません。しかしそもそも人は神を知ることができないのだから、仕方ないと思います。逆に、神のことを詳しく分かっていると思う方が危ういのかもしれません。根本的には神への信頼があればそれで良いのです。神に至る道がよく分からなくても、神の方からしっかり私たちを支えてくれることでしょう。
(牧師 藤塚聖)
2025年8月24日(日)10:30~
聖書 ヨブ記38章1~11節
説教 「人が人になる」
牧師 藤塚 聖
最後の最後に、神が登場してヨブに語り始めました。そこにはヨブへの回答は一切ありません。その代わりに、神が全てを創造して、それを完璧に支配していると語りました。前半では自然界と天体宇宙について(38:4-38)、後半では生物に関して言われています(38:39-39:30)。要するに、一介の被造物にすぎないヨブが、創造主である神を把握することはできないということです。
逆に、答えを求めるヨブに、「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(3節)と問い返しました。つまり神からの答えとは、分りやすい回答などではなく「問い」として与えられるのではないかと思います。それは、人が生きる限り考え続けて、思考停止にならないことです。ヨブも答えを求めて訴え、考え続けたから、正しいことをしたと神に評価されました。逆に「因果応報」で思考停止した友人たちは、完全に間違っていました(42:7)。このように安易な答えの無いことが、ヨブ記が優れた知恵文学である証しだと思います。
さて、「お前は何者か」(2節)という神の言葉には、幾つかのテーマが含まれています。人とは何か、神とは何か、両者の関係は何かということです。すでに創造主と被造物という両者の関係には触れましたが、被造世界全体の壮大さと複雑さに対して、ヨブがいかに無知で無力であるかが暴露されています(38章以下)。ヨブはその自覚を欠いたまま自分を見誤り、分不相応であったことを嫌というほど思い知らされたことでしょう。ヨブに限らず、私たちも勘違いしがちです。分かったつもりで、実は何も分かっておらず、常に間違い、全く不完全な存在です。それを深く自覚したいと思います。
神を語る宗教や信仰についても、それは人の営みである以上、不完全で間違いを含むことを認めなければなりません。キリスト教も例外ではなく、それは神の真理そのものではありません。このように、自分の信仰を疑うことができて相対化できるのは大切なことです。そうでないなら、人としての本分を見誤ることになるからです。
20世紀最大の神学者であるカール・バルトは「キリスト教を含めて、全ての宗教は不信仰である」と語り、如何なる宗教も神を正しく理解できないことを指摘しました。この慧眼には感心したのですが、宗教は不信仰だが唯一キリストは真実だとも語り、それにはがっかりしてしまいました。結局は、キリスト教だけ例外で、唯一の正しい宗教だと言うのと変わらないからです。
私たちは、人は人でしかないことを謙虚に受け止めたいと思います。自分の宗教や信仰は大切であり、研鑽を積んで信仰を深めることは良いことです。ただし、どのように神を知るにしても、それには限界があり不完全だと知るべきです。このように信仰を相対化できるのは、人は不完全でも神は完全であることに信頼しているからでしょう。神が完全だから、私たちが不完全でも全く心配ないのです。
(牧師 藤塚聖)
2025年8月31日(日)10:30~
聖書 ヨブ記40章1~14節
説教 「神の量りと人の量り」
牧師 藤塚 聖
私たちは神の正しさを信じています。そしてそれと共に自分の「自由意志」を持っています。そこで神の考えと自分の考えが違うときはどうするのかが本日のテーマです。神の意志に対しては、何も考えないで無条件に従うのが正しいのかもしれません。しかし納得できない場合もあると思います。もし形だけ従うのなら悪しき「律法主義」です。また神の操り人形であるなら、自分の存在意義が疑われます。そうならないためにも、心から納得することが必要だと思います。
それなら神の考えはどこに示されているでしょうか。ヨブの時代なら、それは全て「律法」にあるとされました。そしてそれを守れば神の「祝福」があり、背けば「呪い」が及ぶのです。災害も病も不幸も、イスラエルという国が滅亡したのも、人が神の意志に背いたからと考えられました。だからヨブの友人たちは、みな口をそろえて「因果応報」を説いたのです。一方で、ヨブ記の著者はそのような「律法」とそれに付随する考え方に批判があるので、律法では説明できないこの世の矛盾や不条理を問題にしたのでした。
そこで、ヨブはこの世の不条理に巻き込まれる人間の代表として登場しています。その前に、サタンと神の対話があり、サタンはヨブが神を畏れるのは見返りがあるからであり、それがないなら神を呪うと言いました(1:11,2:5)。信仰に損得勘定が持ち込まれているわけです。それを試すために、ヨブに幾つもの災難が及ぶことになりました。
そして苦しむヨブを3人の友人が訪ねます。「因果応報」を前提にして、エリファズは人生訓、ビルダドはユダヤ人の伝統、ツォファルはユダヤ教の神学により諭しました。さらにエリフという若者は、苦難を神の試練として、その「教育的意義」を語りました。しかし彼らはヨブを説得できませんでした。事実3人の友人たちは「ヨブのように正しく語らなかった」(42:6)として、神から厳しく叱責されたのです。
このようにヨブがしつこく神に訴え、納得できないことを問い続けのは正しいことでした。しかし、被造物の分際をわきまえないヨブの無力と無知は厳しく指摘されています。ヨブが自分の量りで神を量ろうとしていたからです。狭くて浅い人の量りで、無限の神の知恵を量ることなどできるはずがありません。その一例として、神は、ヨブが自分の正義で人を量るなら、その裁きにより生き残る者は一人もいなくなると皮肉っています(40:11-13)。
ヨブは、自分をこんな目にあわせる神の量りは間違っていると思っていましたが(9:24他)、遠回りすることでようやく自分の量りの不完全さに気づきました。神は人とは全く違う量りで、この世をより良く治めているのだから、人は黙って受け入れるしかありません(40:4)。
ところで、私たちは信仰することで神に見返りを求めているかというと、そうではないと思います。信仰があっても、災難は生じるし病気にもなるからです。しかし神との根源的な関係は不変なので、何があっても全てのことに意味があると信じて、前に進んで行きたいものです。
(牧師 藤塚聖)
2025年9月7日(日)10:30~
聖書 ヨブ記42章1~6節
説教 「神の主権」
牧師 藤塚 聖
今回でヨブ記を終了するので最後にまとめます。神がヨブに厳しく語ったことは、人は無知で不完全な被造物だということです。従って、人の営みは絶対ではなく相対的なものです。だから相対的なものとして色々な考え方があるのでしょう。
聖書の思想も多種多様であり、一つの価値基準ではまとめられません。神への信仰であっても、そこに対立や批判があり緊張関係があるのは健全なことであって、むしろ単一なのは不自然なことです。その点でも、ヨブ記のように伝統的な信仰に異議を唱える文書があるのは良いことです。
さて、ヨブは神の意図が分からず苦しみましたが、最後に神から被造物の自覚を与えられて解放されました。二つにまとめてみます。まずヨブが友人たちの説得を突っぱねたのは、神を知っている自信があったからです。しかし神の語りかけにより、無知な自分が神を把握することはできないと悟りました(3節)。もともと彼の知識は借り物にすぎなかったのです(5節)。しかし神と出会って、人の教えや情報ではなく、初めて自分で納得できました。つまり、神を把握することは人には出来ないと心底分かったのです(6節)。
二つ目は、ヨブは神を把握できないと分かり、むしろ肩の荷が下りたのではないでしょうか。それまでは、自分の正しさを主張して、神に苦難の理由を訴え、必死に辻褄合わせをしていました。しかしそれ自体が無意味だと分かり、解放されたのです。人が正しかろうと、そうでなかろうと、苦難があろうとなかろうと、神は独自の主権をもって全てを正しく治めています。そしてそれは人の理解を超えていてとらえられません。だからヨブはもう悩まなくていいと安心したことでしょう。そして現状をそのまま受け入れることで、彼の問題は解消していたのです(2節)。
ヨブ記を最後まで読んで、どういう感想をもったでしょうか。私は良い意味で神を知ることの限界を教えられました。聖書とそれに基づくドグマや信仰告白であっても相対的なものです。知りえないと分かった上で、自分が到達しているところに従って進めばいいのです(フィリピ3:16)。
私たちの社会には善悪の基準があり、それで秩序が保たれ、その枠で正しく生きることが求められます。またその基準で神を理解しようとしています。しかし社会の基準は地域や時代により移り変わるものです。それとは全く違う基準で、神は独自の主権を持っていると知りました。だからこそ不完全な私たちでも救われるのでしょう。その神の主権は私たちには分かりません。しかし信頼して委ねるだけなので、むしろ楽になり解放されるのです。
人の理解の及ばない神を信じるのは、理由なしに信じることであり、神は神だから信頼することに尽きます。ご利益や天国や永遠の命、それがあろうとなかろうとただ信頼するのが本当の信仰かもしれません。サタンは「利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)と言いましたが、ヨブは利益もないのに神を敬ったというのが「ヨブ記」の結論だと思います。
(牧師 藤塚聖)
2025年9月14日(日)10:30~
聖書 コヘレトの言葉2章12~17節
説教 「生きることの幸い」
牧師 藤塚 聖
今回からコヘレトについて数回お話しいたします。コヘレトという名称は、「集会」や「会衆」と関連することから、「集会で語る者」つまり「説教者」や「伝道者」という意味のようです。異端的な要素が強いのに正典に含まれているのは、知恵の人だったソロモン王が作者と考えられたからです(1:1)。
ヨブ記との共通点は、伝統的な信仰に対して明確な批判を持っていることです。伝統的信仰によるならば、神は道徳に基づく正義によりこの世を支配しているので、良い業には良い結果があり、悪い業には悪い結果があるとされました。いわゆる「因果応報」です。しかしコヘレトはそれを信じていません。この世には不可解で不条理なことが多すぎるからです。そこで、この世の不条理という謎を前にして、ヨブ記は分からなくても神の独自の支配に信頼します。一方で、コヘレトは神を創造主として信じるけれども、人格的な交わりは諦めて、あてにしないというスタンスです。全ては既に決まっており、なるようにしかならないので、祈りも不要というわけです。
この世の不条理については、終末を語る「黙示思想」は明快な回答を持っていて、因果応報はこの世で実現しないが、終末においては完全に実現すると言います。つまり回答を終末に先送りするのです。悪い言い方をするなら一種の誤魔化しかもしれません。これについても、コヘレトは終末を見た者は誰もいないのだから分かったようなことを言うなと批判しています(10:14)。また、そもそもこの世には善のみ行って罪を犯さない人はいないのだから(7:20)、応報思想は成り立たないし、人の行いに関係なく良いことも悪いこともあると言います(9:2)。これらについては、本当にその通りだと思います。
さて、コヘレトのニヒリズムの理由は、死を前にすれば全て空しい(2:16)という諦念にあるかもしれません。それ故に、人が賢かろうが愚かであろうが、死んでしまえば同じです。その点では人も動物も一緒です(3:18)。だから最終的な結論として、食べて飲んで毎日を楽しく生きるべきだと勧められているのです(9:7以下)。
このような考え方に対しては、非常に刹那的で問題があると思っていました。しかし新しい解説によると、コヘレトの思想は極めて冷静で現実的だと見方が変わりました。食べて飲み、楽しみ、仕事をして、時には労苦すること、これらは生きることを表しています。もちろん人生には空しさや苦労もあり、最後は死を迎えます。しかしそれら全て含めて、神が人に割り当てた配当なのだから(2:24)、生きることそのものが幸いということかもしれません。
にもかかわらず、私たちは生きることに過剰に意味を求め、勝手に人生に点をつけます。生きること自体に価値があるのに、それ以上の何かを求めるから空しさが生じるのです。コヘレトの言う「空しさ」は、人生に対してではなく、必要以上に人生を意味づけようとする欲に対してではないでしょうか。人生に点数をつけるのが間違いです。そのような空しい作業をやめたなら、生活の中の一つ一つが有難く、神の配当として感謝できるでしょう。
(牧師 藤塚聖)
2025年9月21日(日)10:30~
聖書 コヘレトの言葉2章18~26節
説教 「空しさを知る」
牧師 藤塚 聖
一読して分かるように、コヘレトが語ることはだいたい否定的で悲観的な内容です。最初と最後には「すべては空しい」(1:2、12:8)という言葉があり、それで全体をまとめていると言えます。これだけ特殊な思想なので、すぐに論争になったようです。そのことが付録として末尾に加筆されています(12:9以下)。賛同者もいたようですが(12:9,10)、反対の声の方が大きくて、読者に動揺をもたらすとか(12:11)、難解なので読むだけで疲れるとか(12:12)、散々叩かれています。正統的信仰からも、「神の戒め」とか「神の裁き」が基準となり批判されていますが(12:13,14)コヘレトの主張とは全然かみ合っていません。
さてこのように悲観的ながらも、コヘレトは創造主である神を信じています。しかし「因果応報」や人を善人と悪人に分ける「二元論」は認めていません。また神は予測不能だから、祈っても無意味であると考えています。そして最後に辿り着いた結論が、飲み食いして、自分の労苦によって魂を満足させることが、神からの報酬だということです(2:24)。
これは彼の人生経験に基づくもので、2章までにその経緯が語られています。まず知恵の探求をした結果、まるで風を追うようなことで、その企ては空しいことが分かりました(1:14)。次に快楽を追求して贅沢三昧の生活をしましたが、それも空しいのです(2:1)。また賢者と愚者に違いはないと分かり、死により無意味になると悟りました(2:12)。更に自らの労苦が後進の役に立つことはないと言っています(2:18)。このようにして、何をやっても全て空しいのだから、人の限界を知った上で、今現在を楽しめというのです(2:24)。
この結論を読んで、イエスが語った「愚かな金持ち」の例え話を思い出しました(ルカ12:13-21)。彼は将来に備えて、穀物や財産を蓄える大きな倉を建てようと思いつきました。それで安心して、後は食べて飲んで楽しもうと考えたのです。しかし神が今夜お前の命を取り上げると言いました。命が無くなるのなら、何の意味があるのかということです。
この人が愚かなのは、自分の死期を知らなかったことではありません。彼が蓄えることも楽しむことも、全部自分のためだったことです。その自分は死んでこの世からいなくなるのに。イエスの意図は、生きるとき何を大切にするかということかもしれません。私たちも残りの人生を考えるなら、特にそれを問われます。その時思うことはきっと自分ではなく他の誰かのことかもしれません。教会を会場とする「がんカフェ」でも、それについては「自分から目を転じる」、「品性の完成」等々、毎回のように話題になっています。
コヘレトは神を信じても空しさが消えることはないと言います。だからすべてに意味はないと知りつつ、後はどれだけ自分で「満足」するかだと思います。コヘレトが言うように、生きることにそれ以上の意味を探る必要はないからこそ、プラスアルファとして、自分で大切と思うことに心注げばいいのです。彼が言う「空しさ」は必ずしも「空虚」や「虚無」ではないので、その空っぽの部分を自分にとって大切なもので満たしていきたいものです。
(牧師 藤塚聖)