過去の礼拝説教集2025年7-12月
2025年7月6日(日)10:30~
聖書 ヨブ記21章7~21節
説教 「ご利益と信仰」
牧師 藤塚 聖
人の幸福と不幸が、信仰の有無と関係あるのか否かを考えてみましょう。ヨブ記ではそういう問題がテーマになっています。平たく言うと、信仰がない人は幸福になれないのかという問題です。
かつてある信者から、キリスト教の信仰以外は駄目なのかと質問されました。その方の友人が別の信仰を持って幸せに生きているが、それは本当の幸せではないと言うべきかという問いです。つまり改宗の無意味さを訴えたのでした。私は、キリスト教だけが真理だという前提は間違っていると答えました。
しかしそのように考える信仰者は少ないのかもしれません。古いタイプの某牧師先生は、たとえどんなに良い人でもキリスト教信仰がなければ良い人ではあり得ないと語っていました。これもキリスト教だけを唯一絶対とする狭い考え方だと言えます。しかし時代は変わり、カトリック教会でも1960年代のバチカン公会議で、キリスト教だけが真理を独占しているという考えを大きく転換して、他の宗教の中にも真理はあると認めたのでした。
本日のヨブの言葉は、上記のテーマとも関係しています。三人の友人たちとの二回目の議論が始まり、三番目のツォファルに対して反論しています。ヨブがどうしても納得できないのは、友人たちの理屈です。つまり神に従うなら幸福になり、そうでないと必ず不幸になるという考え方です。そのために、不幸にならないように神に従順になって、過ちがあれば赦しを請い、神に気に入られなければならないという訳です。まさにご利益のための信仰なのです。
ヨブが見ている現実は、神に逆らう者でも不幸になることなく、彼らは豊かで幸せな人生を送り(13節)、悪人でも災いの日を免れ、怒りの日を逃れている(30節)というものです。つまり友人たちが説いている「因果応報」は全く現実的ではないのです。そうではなくて、たまたまある人は不自由なく安泰に生き(23)、ある人は死に至るまで悩み嘆き(25節)、両者の運命は神への信仰とは全く無関係だということです。
熱心に信仰しているのに、不幸を与える神は信用できないと思うなら、その神に見切りをつけて、信仰を捨てればいいのです。しかしヨブはそうしませんでした。友人たちのようには考えなかったからです。一方で、友人たちがヨブと同じ目に遭ったなら、ご利益の得られない信仰はさっさと捨てたかもしれません。友人たちの信仰は、ある意味でサタンの言葉と一致しているからです。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(1:9)と言うように、サタンはご利益があるから人は神を信仰すると見ているのです。
幸いであろうと不幸であろうと、それとは関係なく、神への信頼は成り立つことを、ヨブ記は教えています。仏教で四苦(生、病、老、死)というように、少し考えただけでも、生きる上で苦難や不幸は避けられないと分かるはずです。だからこそ、それを乗り越える力として信仰というものがあるのでしょう。
(牧師 藤塚聖)
2025年7月13日(日)10:30~
聖書 ヨブ記25章1~6節
説教 「神はどこにいるのか」
牧師 藤塚 聖
ヨブ記の主題の一つは「神義論」です。神は本当に正義なのか、それによりこの世を正しく治めているのかという問題です。神が正義なら、何故この世には不条理があるのかということになります。ヨブはそこが納得できませんでした。
ヨブが見ているこの世の酷い現実が、24章に描かれています。弱い者が守られず(2節以下)、彼らを保護すべきルールが全く機能していません。力を持つ者たちにより、社会の秩序が壊されているのです。この部分を読むと、いつの世でもどこの世界でも起こっていることだと思いました。本当に人間の愚かさは簡単には変わらないのです。
現代においても、各地の戦争により毎日のように市民が傷つき死んでいます。それは力を持った強い者により推し進められているので、今のところ誰も止めることが出来ません。国際政治の力学なのか利害関係なのか、決してあってはならないことが続いています。その中で、物凄い量の兵器が消費され、軍需産業は膨大な利益を生み出しています。危機から避難した人々は食料や生活物資に事欠き、配給所に集まったところを攻撃されています。こんな悲劇に見舞われるのは、彼らが犯した罪が原因だと言えるのでしょうか。このような苦しみが神の懲罰であるとするなら、それはとうてい認められません。
24章では、神に逆らう者たちがあらゆる悪事を働き、弱い者を苦しめているのに、神は彼らを罰することをしないと、ヨブは訴えました(25節)。つまり友人たちが主張する「因果応報」は全く成り立っていないのです。それに対して、ビルダテは神の偉大さ(2,3節)と人間の弱小さ(4,6節)を対比して、ヨブが異議を唱えること自体が分不相応であり、大きな間違いであると非難するのです。
その中に、「女から生まれた者」(4節)という旧約ではここだけの言葉があり、ビルダテとしては人間の不完全さを言っているのですが、パウロはこの言葉をわざわざキリストに対して使うのです。「神はその御子を女から……生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。つま
りヨブ記では否定的に用いられている言葉を、パウロは逆手にとってキリストに結び付けたのです。
従って、私たちがここから考えるべきことは、途中の面倒な説明を省略して、人間の不完全さ、もっと言うならヨブが見ているこの世の不条理の中に、神が共にいるということにならないでしょうか。だから単純に神は私たちと共にいるというより、他のどこでもなく人間の悲劇や苦難の中で、共に戦っていることになるのです。そう信じるならこれに勝る励ましはありません。
このように考えると、私たちが経験する苦難や不条理について、今までとは違う見方が出来るのではないでしょうか。聖書の神とは「苦しむ神」であり、事実イエスキリスト自身が不条理の中で苦しんでそれと戦ったのでした。
(牧師 藤塚聖)
2025年7月20日(日)10:30~
聖書 ヨブ記29章1~17節
説教 「過去をふりかえる」
牧師 藤塚 聖
かつて経験した辛い過去でも、後になって笑い話として語れるようになるということがあります。それを乗り越えたから、そう出来るのだと思います。逆に過去の出来事が現在に重い影響を及ぼして、なかなか前に進めないということもあります。それ故に人とは「時間的存在」なのだとあらためて思います。
それを歴史認識として考えるなら、国や民族の歴史は過去をどう評価するかにより大きく変わります。日本は歴史認識に関して、中国や韓国から常に厳しい目を注がれています。過去にはそれらの国と協力して、共同の歴史教科書が作れないか検討されましたが、実現には至りませんでした。ヨーロッパでは、長く厳しい検証作業を経て、10年程前にドイツとポーランドが共同の歴史教科書を編纂しています。また昔から犬猿の仲と言われたドイツとフランスの間でも20年程前に作られました。このように、過去をどう評価するかという検証作業を通して、現在と未来は開けていくのでしょう。
それを踏まえて、ヨブの物語を読んでみたいと思います。27章まで友人たちとの対話が続きましたが、両者の意見は平行線をたどり、実りのないまま終わりました。29章からはヨブの独白が始まります。まず過去の栄光が語られていて、自分が神に守られ(2-6節)、多くの人々から尊敬され(7-11節)、彼らを救済し(12-17節)、最後は「王のような人物」だったとまで言っています(25節)。驚くほど自画自賛ですが、当時のユダヤ教では一つの表現方法であり、それほどまで神に祝福されていたということのようです。
しかし過去と現在の落差があまりにも大きいので、ヨブは神を信頼するからこそ(4-5節)、その理由が分からずに苦しむのです。もし彼に信仰が無ければ、運が悪かったと胡麻化せたかもしれません。信仰があるからこそ苦しみました。しかしながら、神は人を超越しているのに、人の知恵で神を理解しようとするところに、ヨブの限界があるのでしょう。その点では友人たちと同じだったと言えるのです。
本日の個所を読んで色々と考えました。まずヨブは神を訴えるけれども、自分の過去を正当に評価したということです。私たちならば現状の悲惨さを見て、過去が素晴らしくてもそれを無駄と思うかもしれません。しかしヨブは現状はどうあれ、過去の神の祝福については一切疑いませんでした。それは神への信頼が一貫しているからなのでしょう。ただ神の意図が分からないだけなのです。
それと自信過剰に見えるほど、ヨブは自分が恵まれたことを大いに感謝していることです。ヨブの表現は極端かも知れませんが、実際は私たちも彼と同じように神から多くを頂いているのではないかと気づかされます。それが十分に自覚できていないから、ヨブのように表現できないだけかもしれません。
最後に蛇足を一言。信仰的に考えると、私たちの過去はイエスキリストの過去とつながり、それが現在を生かし、将来の希望になっています。そのことを忘れないでいたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
2025年7月27日(日)10:30~
聖書 ヨブ記33章8~18節
説教 「伝える方法」
牧師 藤塚 聖
人は自分の考えを他者に伝えるとき、何らかの手段なり方法を用いることになります。簡単なこととしては、言葉によるコミュニケーションがそうですが、音楽や絵画また文学作品も、作者がそれを自己表現のために用いていると言えます。
それと同じように、エリフは神が苦難を通して人を教育すると説きました。つまりヨブが経験している苦難には、彼の成長のための教育的な意義があるというわけです。
さて、このエリフという若者は32章から登場します。ヨブと3人の友人たちとの長い論争が平行線をたどり、完全に膠着状態に陥ったので、局面を打開するために登場しました。彼のことは32:1以下に紹介されていて、友人たちよりよほど神に近い人間として語られています。そもそもエリフという名は「彼は神」という崇高な意味があり、ラム族も「彼は崇高なり」で、父のバラクエルの名も「神が祝福する」というように、非常に高く評価されているのです。つまりエリフの意見は友人たちのそれよりは神の真理に近いことが示唆されています。
エリフは以下のように語りました。神は人の成長のために、色々な方法を用いる、苦難もその一つである、しかし人はそれが分からない(14節)、神は苦難により人を懲らしめる、それでようやく人は気づいて回心し、それで魂が救われ、死なずに済む(16-18節)と。
これによると、苦難は神の罰でも裁きでもなく、成長のための訓練や教育ということです。神は人が大切なことに気付くために、苦しい試練という方法を用いるのです。これは「因果応報」とは全く違うし、私たちもある程度共感できるのではないでしょうか。
苦難の教育的意味は一つの考え方としてはありうると思います。「かわいい子に旅をさせよ」、「若い時の苦労は買ってでもせよ」と言われる通りです。しかしヨブ記ではそれが正解とは言われていません。最後の神からの言葉では、三人の友人たちは間違っており、神が分らないと訴えるヨブこそが正しいと明言されているからです(42:7)。エリフについては言及されることなく、否定はされていませんが、ヨブの様に正しく語ったとは言われませんでした。
従って、苦難の意味については、その教育的な意義は考慮に値するとしても、神の意図は一生をかけて問い続けるべきということでしょう。むしろすでに神のことを分かったような顔をして語ることの方が危ないと思います。
ただし、神は人知で図り知ることができなくても、信頼の対象であることに疑問の余地はありません。それは神とは私たちの「存在の根拠」そのものだからです。人がこうして生かされていること自体が神の愛の証明であるし、日々命を頂き生かされていることが、困難を乗り越える力も当然与えられていることになるのです。
(牧師 藤塚聖)
2025年8月3日(日)10:30~
聖書 ヨブ記34章31~37節
説教 「正論の誤り」
牧師 藤塚 聖
最後に登場したエリフは、3人の友人たちに代わってヨブを説得することになりました。彼は神の考えを代弁するかのように、厳しくヨブの無理解を責めています。その要点は、神は正義であり、全てを正しく治めていて(10節)、そこに何の間違いもない(17節)ということです。にもかかわらずヨブは思慮に欠け、神のすることに異を唱え(35節)、それにより、過去の過ちに更に罪を重ねている(37節)と非難しています。
ヨブも神が完全に正しくて、個々人の歩みに従って必要なものを備えてくれる(11節)と分かっているはずです。しかしそれと今の災いとがどうつながるのか見えずに、それで苦しみました。数々の災難の苦しみだけでなく、その神の意図が分からない苦しみが加わり、それが二重の苦難になっているのです。
さて、本日の個所から二つのことを指摘します。まずエリフが神の絶対性と超越性、その隔絶性を強調したことは正しいと思います(10節以下)。神は創造主であり人は被造物であるからです(13節)。その次元の違いゆえに、人は神を把握することはできないと言わざるを得ません。もし把握出来たらそれは神ではないのでしょう。にもかかわらず、エリフが神の代理人のように語るのは矛盾しています。彼は神の教育的意図をどうして語れたのでしょうか。
エリフのことは一旦横に置くとして、私たちにはイエスキリストを通して神を知るという道があります。その言葉と行いを通して神の絶対的な愛を知り、イエスのように「アバ父よ」と祈り、その生きる姿勢を示されているのはとても幸いなことです。
指摘すべき二つ目は、エリフが語る「正論」でヨブは救われなかったということです。従って正論とはあくまでも自分に向けるべきものであり、相手を説き伏せるものではないと分かります。実際に、社会と人の現実は複雑であり、正論では解決しないことの方が多いのではないでしょうか。重々分かっていても現状では無理ということもあるのです。
先月は参議院選挙が行われ、その結果が新聞などで分析されています。参政党が躍進し、日本人ファーストが支持され、外国人への排斥意識が目立つ結果となりました。しかし外国人労働者の働きがこの社会を支えており、今後共生社会を目指すべきことははっきりしています。それでも、生活不安や顧みられない絶望感から、いくら正論を訴えても納得されない現実があります。それより生活苦の原因を根本から改善することが必要なのでしょう。エリフもヨブの苦しみに寄り添うべきだったのです。
信仰が正論として主張される時、その裏では必ず相手に対するさばきが伴うものです。エリフは苦難の教育的意義を語りながら、ヨブが分かるまで徹底的に苦しめばいいと突き放しました(36節)。本当はヨブを諭すはずが、敵意と憎しみに変わっているのです。
正論は自分に対してだけしっかり持つべきです。そして他者に対しては愛の論理ではないでしょうか。もし神が正論を貫くなら、私たちの救いは存在しないでしょう。そこに神の愛があります(1ヨハネ4:16)。
(牧師 藤塚聖)