過去の礼拝説教集2026年1-6月
2026年1月4日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書6章31~34節
説教 「神の正義を求めよ」
牧師 藤塚 聖
今年最初の礼拝なので「平和」について考えたいと思います。今現在も世界各地で戦いが止まず停戦が模索されています。平和を願う思いはみな同じなのに、その実現は簡単ではありません。私の考え方は「絶対平和主義」に近いです。問題があれば徹底的に話し合いで解決すべきであり、憲法第9条の意義を疑うことはありませんでした。しかし今や、非武装で無抵抗では人の理解を得られないでしょう。どうしても自衛のための武力や抑止力は必要だとなります。普通の人の不安に答える平和論とはどういうものなのでしょうか。
教会はこの問題をどう考えるのか、信者の間でも意見が割れるところです。イエスの言動から考えるなら、愛敵、非暴力、無抵抗ということになります。従って平和実現のためとはいえ、少しでも暴力を正当化するのなら、それはもう平和ではないのです。
本日の個所に、「神の国と神の義を求めよ」(33節)とあります。ルカでは「神の国」だけで「神の義」はないので(12:31)、マタイがこだわって付加した言葉です。マタイにとっては、「神の義」が実現していることが「神の国」なのでしょう。神の「義」とは、英語の聖書では神の「正しさ」です。一方で中南米の聖書では明確に神の「正義」と翻訳されています。かつて独裁政権や軍事政権の下で不正がまん延する社会において、「正義」の実現を目指して生きることを、イエスの励ましととらえました。イエスが不正と闘ったのだから、それに負けることなく懸命に生きるということです。
ここで一つのエピソードを紹介します。米国に留学した友人が本の中で書いていました。米国に米国合同教会という革新的な教会があります。この教会は2001年の同時多発テロに際してすぐに宣言文を発表しました。米国の殆どの教会は政府が提唱した「テロとの戦い」を熱狂的に支持し、アフガニスタンへの軍事介入を認め、異教徒への憎悪を深めていました。軍事介入と信仰との間に矛盾はなかったのです。こういう状況の中で、コネティカット州の米国合同教会は、決然と宣言文を発表しました。凄く勇気のある行動だったと思います。内容は、平和を求める聖書の引用の後に、
6つの提言があります。「為政者は軍事力ではなく外交手段を用いること、教区幹事は復讐ではなくテロ犯罪者を法廷で裁くように議員に働きかけること、イスラム教徒への憎悪に反対すること、イスラム教を学習してその信者との懇談会を開くこと、教会はテロの犠牲者とアフガン難民のための献金を募ること、牧師は非暴力と経済的正義を学び信徒の理解を促すこと」。このように内容は極めて具体的です。少し心がければ実行可能でししょう。憎しみを和解に変え、困窮している者に分け隔てなく支援し、異なる宗教と民族を理解するために努力するのというのです。このようにして「神の正義」を実現しようとしました。この提言からは大いに教えられるのではないでしょうか。
世界の平和はスケールの大きな問題ですが、自分たちの足元の小さな取り組みが、世界規模の平和につながることを信じたいと思います。神の正義も神の国も、私たちの可能性の中にあります。
(牧師 藤塚聖)
2026年1月11日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書7章7~14節
説教 「狭い門から入る」
牧師 藤塚 聖
聖書の中の話しをどう受け取るかは読者の自由であり、色々な読み方があっていいでしょう。しかし同時にその話の元の意味や伝えた人の意図を知っておくのは必要なことと思います。
「求めなさい、そうすれば与えられる」(7節)というイエスの言葉に関しては、教会では神に熱心に祈れば必ず聞かれると教えられてきました。そこで徹夜祈祷会なるものも生まれたのです。しかし現実にはそんなことはありません。そしてそのような信仰は「機械仕掛けの神」(ボンヘッファー)として批判されています。
イエスの周りにいた人たちは、大体生活困窮者や「罪人」と烙印を押された人たちです。「主の祈り」にあるように、その日の食べ物にも苦労しています。そういう人たちに向けて「求めよ、諦めるな」と語ったと思われます。横浜の元高校教師の水谷修氏は、深夜の繁華街を見回ることで「夜回り先生」と呼ばれて漫画のモデルにもなりました。随分前からメディアにもよく登場してネットでも情報を発信しています。教師としてずっと生徒指導を担当していましたが、その後は若者の生活支援活動を通して、薬物や犯罪からの更生や防止、問い合わせにも応じています。水谷氏は、自分に出来ることは限界があるので、子どもたちに「君を助けてくれる人は必ずいる、諦めるな」と伝えて、そこに辿り着くように説得することだと言っていました。出会う大人が皆そうではないが、助けてくれる人は絶対にいるということです。
イエスの言っているのもそういうことだと思います。君にもきっと仲間がいる、必ず助けはあるという助言です。宗教的な有難いお言葉というより、死なないで生きるための指針でしょう。ちょっとしたきっかけで潮目も変わるのだから、死んだら駄目だということです。何とかなるというイエスの楽観主義は、神が造った世界と人間に対する根源的な信頼から来ているのでしょう。現実世界は非常に厳しいけれども、それが永遠に続くわけではない、それを変えるのも人だという確信です。
「狭い門から入りなさい」(13節)も、以上とのつながりで考えるべきでしょう。マタイは、自分たち少数の信者こそが、命に至る狭い門を見出していると考えていたようです。しかし「狭い門」と聞いた人たちは何を思い浮かべたでしょうか。古代の大きな町は城壁に囲まれ、町の真ん中の大通りが「広い門」に通じていました。そこは戦車や馬に乗った領主が通ります。庶民はそこから枝分かれした路地につながる小さな門を使用していました。つまり広い門は権力者が使い、狭い門はそうでない者たちが使っています。イエスの意図は、広い門は決してそんなに良いものではない、むしろ狭い門の方が命に通じている(14節)、と励ましているのではないでしょうか。
私たちはきっと無意識の内に苦労もせずに広い門を通っているのでしょう。しかしいずれ狭い門を使うかもしれないし、又今現在使っている人がいることを忘れずにいたいと思います。イエスの意識はいつもそちらに向いていました。
(牧師 藤塚聖)
2026年1月18日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書7章15~23節
説教 「良い実を結ぶ」
牧師 藤塚 聖
福音書の中には、時々違和感を覚えるイエスの言動が記されています。それはイエスと異なる考え方を持った人が、それを伝えているからです。伝えた人がイエスをきちんと理解しているとは限りません。そこでどうしてもズレが生じるのです。コツとしては、イエスは無条件の神の愛を説き、弱い立場の側に立ったので、それと矛盾するような場合は疑っていいと思います。
その点では、マタイ福音書には疑わしい話が沢山記されています。人に正しさを強要して、そうでないと断罪して排斥するのです。「天の国」に関するイエスの例え話は、そういうものばかりです(13:50,22:14,25:46)。そこにはマタイの教会の考え方が反映しているのでしょう。彼らはユダヤ教のパリサイ派や律法学者に強い対抗意識をもち、新しい律法として「イエスの教え」を守り、自分達こそ「義人」である自覚をもっていました。しかしそのような信仰は構造として、パリサイ派の「律法主義」と全く同じなのです。
イエスと同じようにマタイも、「偽預言者」(15節)である律法学者を厳しく批判しています。23章を読むと、彼らの偽善的な行いがよく分かります。人々に背負いきれない重荷を負わせて(4節)、天の国から締め出していました(13節)。
更に、マタイは「偽預言者」だけでなく「主よ、主よ」という者たち(21節)、つまり教会内にも批判を向けています。これらの者は、マタイからすると、「天の父の御心を行う者」(21節)ではなく、「不法を働く者」(23節)ということになります。天の父の御心とは、「神である主を愛する、隣人を自分のように愛する」(22:37-39)とまとめられているので、信者の中にも隣人愛に欠けている者が沢山いたということでしょう。
それにしても、それを理由に天の国から締め出すのなら、批判していた律法学者のやり方と同じです。マタイは、隣人愛を強く説いていながら、それが出来ない隣人を簡単に排斥することに、何の矛盾も感じないのでしょうか。
さらに、問題のある信者に対して教会が忠告し、それでも教会の命令に従わないのなら、異邦人か徴税人と同様に見なしなさいと言っています(18:17)。つまりマタイは、彼らを「滅びるべき者」の代表と見なす律法学者の価値観を共有していたことになります。イエスは、徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入ると明言しました(21:31)。
たとえ聖書やキリスト教であっても、イエスの福音とそうでないものを見分けることが重要だと思います。全てを受け入れる必要はありません。マタイのような信仰には問題があるからです。そして、イエスの福音から生じる生き方こそが肝心なのではないでしょうか。隣人愛を中心として、人を分け隔てない、さばかない、尊重する心を持つことです。こうなると、宗教や思想が何であるかは関係ないのでしょう。結果として生じる生き方や価値観の方が大切です。「主よ、主よ」と語ることより、良い実を結んでいるかどうかに目を向けたいものです。
(牧師 藤塚聖)
2026年1月25日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書9章9~13節
説教 「信仰と倫理」
牧師 藤塚 聖
マタイの信仰は「律法主義」であると何度か指摘しました。彼は完全な者になることを求め、終末の裁きを強調し、弟子の権威と教会の秩序を重視しています。そして後の教会はそこから少なからず影響を受けているように思います。しかし、それがイエスの福音と一致しているかどうかは別の問題です。
「わたしが来たのは正しい者…ではなく、罪人を招くためである」(13節)という言葉は三つの福音書に記されています。大筋はイエスが徴税人を弟子にして、その家で一緒に食事したのを、パリサイ派が不浄なこととして非難したというものです。その非難に対して、イエスは上記の言葉で反論しました。これは罪人の側に立って、その尊厳の回復のために活動するという宣言です。
マタイはこの言葉にホセア書の引用「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(6:6)を補足しています。ここには、律法の中心を「隣人愛」とするマタイの考えが表れています。しかし対等な相手への愛というより罪人への「憐れみ」なので、彼らを低く見ていると言わざるを得ません。つまり、罪人が今後正しい者に更生することで、はじめて彼らにも天の国の扉が開かれるということです(16:19)。その点では、ルカも同じで、罪人は「悔い改め」なければならないと考えました。そこでイエスの言葉に、罪人を招いて「悔い改めさせるためである」とわざわざ付け加えています(5:32)。
しかし、ここがイエスの福音と異なるところであって、彼は「罪人」というレッテル自体を否定したのでした。神の無条件の赦しと愛の前では、滅びるべき人など存在するはずがありません。皆等しく神の子であり、この根源的事実においては、どんな人にも違いはないからです。それなのに、色々と条件を付けて、天の国の扉を閉ざすことでは、パリサイ派もマタイもルカも違いはありません。ある人が一神教を批判して、ユダヤ教もキリスト教も人を選別することでは同じだと指摘していました。ユダヤ教は「律法」により、キリスト教は「信仰」により、人を救われる者と火で焼かれる者に選別すると言うのです。マタイやルカの信仰ならその通りかもしれません。
私たちが自分の信仰にどうしても確信を持てないのは、そこに原因がありそうです。常に「正しい信仰」や「悔い改め」を求められて不安になります。それは「信仰」と「倫理」を混同していることによるのでしょう。神と人との根源的な愛の関係と、人の生き方は別次元の事柄です。正しく生きることはもちろん良いことです。しかしそれが条件で神に愛されるのではありません。人が不道徳に生きようと神に背こうと、神との関係は不変です。これは神学のテーマとして、「福音と律法」と言われています。「律法から福音」は正しく生きることが条件で救済されるパターンです。「信仰を持てば救われる」というのもその典型です。それに対して、「福音から律法」は既に救済されているから相応しく生きるというパターンです。この順序は神の「恩寵」を理解する上で非常に重要です。
(牧師 藤塚聖)
2026年2月1日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書10章34~39節
説教 「平和ではなく剣を」
牧師 藤塚 聖
イエスの語った言葉の中には、私たちの理解を超えるものが沢山あります。「平和ではなく剣をもたらす」(34節)という言葉もその一つです。イエスは神の平和を何より望んでいたはずなのに、地上に「剣」や「敵対」をもたらし、「自分の家族の者が敵となる」(36)とはどういうことなのでしょうか。
この言葉は福音書が書かれた時代状況から説明できます。マタイの教会はユダヤ教内の異分子として迫害され、中には殉教する者までいたようです。そういう危機感が10章の弟子への勧めの中に出ていて、「憎まれる」(22節)、「迫害される」、「他の町に逃げよ」(23節)、「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)等はそれを表しています。そういう状況の中で、たとえ地域や家族を敵に回したとしても、教会に踏みとどまることを勧めているのでしょう。
以上は紀元90年位の状況ですが、イエス自身はどういう意図で語ったのでしょうか。私は、イエスが自分の家族や親族に複雑な思いを抱いていたと想像します。古代の家父長制社会の中で男尊女卑も甚だしく、それを前提にした家族に疑問をもったかもしれません。またイエスの活動の意味を全く理解せずに、母と兄弟がやって来たときは、「私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」として、実の家族を突き放しています(12:50)。
こうしてみると、「剣」や「分裂」は単なる対立や争いではなく、今ある「平和」の中身を問うているのかもしれません。誰かの犠牲や抑圧を前提に成り立っている見せかけの平和なら本当ではありません。そこでまず一番身近な家族という人間関係の中に、真の平和があるのかを問題にしているのでしょう。場合によっては真剣に争わねばならない問題があるかもしれません(35-37節)。
現代においても家族ほど難しい関係はないかもしれません。特に日本社会は血縁を重んじるのでなおさらです。メディアでも家族に関連する問題、また事件や犯罪が取り上げられない日はありません。DV、機能不全家族、ヤングケアラーなどは今や社会問題化しています。これらは閉じられた関係性の中のことなので解決を難しくします。某ドキュメントでは、問題を抱える親の都合で社会と切り離され、存在しない子供として大人になった人が紹介されていました。私見としては、抽象的ですが家族は出来るだけオープンに社会とつながり、子どもは家庭というより社会が育てる制度になればいいと考えます。
イエスが語る「平和ではなく剣」とは、いわゆる「家族幻想」からの解放を言っているのかも知れません。それは家族でも特別視しないで相対化するということです。家族であっても適度の距離を保ち、血縁を特殊化しないことで、イエスは血のつながった家族であろうと、赤の他人であろうと、分け隔てなく付き合ったのではないでしょうか。物事の本質から出るそのラディカルな言動から、私たちは見えていない事柄に気付かされるのです。
(牧師 藤塚聖)
2026年2月8日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書11章2~6節
説教 「キリストというつまずき」
牧師 藤塚 聖
本日は、人にとってつまずきとなる「キリスト」(2節)について考えてみたいと思います。「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)とは、洗礼者ヨハネの見立てが合っているか訊ねた時に、イエスが返した言葉です。つまずかないのがラッキーなら、大抵の人は見誤っていることになります。つまりイエスはヨハネが期待したようなメシアではなかったことになります。
この話がどれだけ史実を反映しているかは疑わしいでしょう。聖書の話しなので、ヨハネをイエスの下位の補助者と見なしているからです。実際のところ、「世直し」ということでは二人は同志的関係だったのではないでしょうか。彼らは母方の親族であり年齢も近くて(ルカ1:36)、小さい頃から知り合いだったと思われます。成人してから、ヨハネの方が先に洗礼活動を始め、イエスはそれに共感して一時はそのグループに所属していました。しかし考え方の違いにより、二人は別々の道を行くことになりました。
ヨハネは当時の領主ヘロデの近親結婚を公然と批判したことから逮捕されて処刑されました(14:10)。そこで残された最後の機会に、弟子をイエスの元に派遣して、決別した理由や今後の目標などを訊ねたということなら十分にありそうなことです。それに対して、イエスは自分の活動内容、つまり人の尊厳の回復をそのまま伝えたということでしょう(5節)。
「キリスト」の同義語「メシア」は、もとは王や祭司を指しましたが、徐々に祖国を復興する理想的王と考えられるようになりました。更に時代が進むと、終末に現れて世界を転換する神的存在と見なされました。イエスの時代のメシア象は、人によりバラバラだったと思われます。その中でもダビデのような唯一無二の偉大な王を期待する人は多かったことでしょう。ヨハネがイエスをメシアと見なしていたとは考えにくいのですが、何らかの期待をしていたかもしれません。しかしヨハネが期待したのと、全く違うことをイエスはやっていました。だから、ヨハネの見立ての中に自分は収まらないと明言したのです(6節)。
それなら私たちはメシア、キリストについてどのように考えるでしょうか。教会ではキリストは完全に宗教用語になっています。「三位一体」の「子なる神」、「真の神であり真の人である」というように。それについて立教大学の佐藤研氏は、イエスをキリストと告白することは、現代では殆ど意味をなさないと言います。そして教理の現代化を勧めています。佐藤氏にとって、イエスをキリストと告白することは、イエスによって人間の本質と可能性を知ることだと言います。またキリスト教とは、そのイエスの生と死に学ぶ宗教だとも言います。この提言に教会はつまずいてしまうことでしょう。
しかし教会の大きな問題は、キリストを宗教理念やドグマにしてしまったことにあると思います。イエスキリストとの生き生きとした関係が私たちの中にあるでしょうか。その意味では私たちもキリストにつまずいているのです。それでも、完全に分かったと自信を持つことより、これからも「永遠の謎」としてイエスを探求し続けることの方が真理に近いのかもしれません。
(牧師 藤塚聖)
2026年2月15日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書11章11~19節
説教 「簡単な信仰」
牧師 藤塚 聖
イエスは洗礼者ヨハネのグループから独立して、独自の活動を始めました。「世直し」の志しは同じでも、方向性が違ったからです。両者の違いは、彼らに対する世間の悪口によく表れています。ヨハネは世俗を離れて荒野で禁欲的生き方をしていたので、「悪霊に取りつかれている」と言われました(18節)。他方イエスは地域社会の中で仲間外れの人たちとよく会食したので、「大食漢で大酒飲み、罪人の仲間」と言われました(19節)。このように、まず活動していた場所が違いました。
ヨハネはユダヤ教のエッセネ派に所属していたと思われます。このグループは世俗を離れて修道院的な集団生活をしました。厳格な戒律を守ってひたすら終末を待望する宗教的エリート集団です。それ故に庶民には縁遠い存在だったでしょう。しかしパリサイ派やサドカイ派が権力と癒着したのとは違い、信仰的には極めて純粋だったと思われます。ヨハネはその純粋さを引き継ぎながらも、信仰をもっと簡単にしました。出家して修道生活するのではなく、戒律や儀式もなく、罪の赦しの洗礼を受けて悔い改めさえすれば良いのです。だから多くの人がヨハネから洗礼を受けるために各地から大勢押し寄せました。
このように信仰を庶民の手に届くものにしたことを、イエスは最大限に評価して、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」とまで言っています(11節)。しかし、そのヨハネでも、神の怒りを恐れていたので、罪の赦しの「洗礼」を受けて、「悔い改めにふさわしい実」を結ぶ必要があると説きました(3:8)。つまりエッセネ派よりハードルを下げたとはいえ、やはり「神の国」に入るには、正しい者にならねばなりません。それが「天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」と指摘されたヨハネの限界なのでしょう。そして彼のやっていることは、結局は「天の国を力ずく襲い奪い取っている」ことになると批判しています(12節)。イエスからすると、「神の国」は人の良し悪しで入ったり入れなかったりするものではなくて、人が平和に生きることの中に神の国があるというのです(ルカ17:21)。
さて、今年は4月5日がイースターで、その前の40日間が受難節(レント)になります。カトリック教会ではこの期間中に2回の「断食」(初日と受苦日)が推奨されています。それはイエスの苦しみを覚えるという意味であり、平たく言うと「苦行」です。しかしイエス自身は「大食漢で大酒飲み」と周りから言われたのだから、宗教的行為の断食はしていなかったと思います。しかしヨハネは神を恐れていたので積極的に実践したことでしょう。
それでもヨハネが信仰を簡単にすることでエッセネ派を乗り越え、更にそのヨハネをイエスが乗り越えたように、私たちは信仰の中の非本質的なものを削ぎ落して単純でありたいと思います。信仰で本質的なことは多くなく、形式や義務や条件ではないからです。「愛である神さま、信頼します、見守ってください」ということで十分ではないでしょうか。
(牧師 藤塚聖)
2026年2月22日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書12章9~14節
説教 「生命といのち」
牧師 藤塚 聖
本日の説教題は「いのち」を漢字とひらがなの二つで表記しました。それは医学的な生命と社会的な命を分けて考えたいと思ったからです。そこで、人が互いに助け合って社会的な存在として生きる命を「いのち」と表記しています。
世界で最も読まれている漫画「ワンピース」は、これまでに30か国語に翻訳されて5億部以上発行され、若者のバイブルと言われています。海賊王を目指す少年ルフィイが、仲間を集めながら大海原を旅する物語で、個性豊かな仲間の成長と冒険が描かれています。その中にこんな言葉があります。「人はいつ死ぬか、拳銃で心臓を撃たれた時か、不治の病に侵された時か、猛毒のスープを飲んだ時か、そうではない、人に忘れられた時だ」。非常に示唆に富んでいて、生命といのちの違いをうまく表していると思います。
この見方によるならば、イエスの癒しは、医学的な生命より社会的ないのちに関わっているようです。イエスは不治の病であれ身体障碍であれ、癒された人に対して、「行きなさい」「(家に)帰りなさい」と言って、社会復帰を促しました。病気や障碍があれば周囲から疎んじられて、最悪の場合は社会から締め出されたからです。つまりたとえ生きていたとしても、人に忘れられ、社会的いのちが潰されている状態です。病気が治ることは非常に幸いなことです。しかしそれ以上に必要なことは、たとえ病気が治らなくても、社会が受け入れて、人とのつながりが回復することなのでしょう。従って、イエスの活動の真意は、個々人の癒しより、人々が困った人を支援することだったと思います。しかし到底それが叶わないから、とにかく癒し活動を続けざるを得なかったのです。
ところで、イエスの癒しは不思議なほど「安息日」に行われました(10節)。安息日にそれをすれば、律法違反と病気という二つの重い問題に抵触することになります。それでもあえてそうしたのは、社会が今まで当たり前にやっていたことの間違いを明白にするためだったかもしれません。または、自分の身に危険が迫る中(14節)、残された時間が少ないから急いでいたのでしょうか。
片手の萎えた人の状態はよく分かりませんが、特別に命にかかわるわけではなく、緊急性は考えにくいと思います。それでもこの人の社会的いのちは間違いなく潰されているので、その日が安息日といえども、死んだいのちのままにして良いはずがありません。イエスは一日も早い社会復帰のために、すぐに彼を癒しました。
さて、社会とのつながりと言えば、高齢者の生活支援の問題があります。25年後には人口に対する65歳以上の割合が、男性では4人に一人、女性では3人に一人と予測されています。以前「老人漂流社会」というドキュメントで、一人になって行き場のない高齢者の不安がとりあげられました。番組の最後では、最後まで安心できる場所と、心ある人の見守りが、人としての最低限の尊厳であると言われました。私たちの教会でも高齢化は確実に進んでおり大きな課題です。イエスが社会的いのちの回復に力を注いだことを心に留めたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
2026年3月1日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書13章24~29節
説教 「毒麦の入った麦畑」
牧師 藤塚 聖
イエスの例え話に出てくる「毒麦」は、穂がつくまでは小麦と見分けがつかず、種子に含まれるアルカロイドにより、口にすると下痢、嘔吐、めまいの症状が出るようです。そのため人の手を煩わす厄介ものでした。身近にあるケースなので、庶民はイエスの話は聞いてすぐに理解できたことでしょう。
毒麦と分かってもすぐ抜かないで様子を見るというのは(30節)、この世の善悪についての究極的な判断は人には不可能なのだから、最後は神に委ねるという趣旨かもしれません。イエスにとって神とは自分を相対化する働きなので、その考え方にも沿っています。
別の読み方としては、良い麦と毒麦を別々に考えるのではなく、畑を全体として見るという考え方です。私たちは自分が毒麦なら心配だとか、どうしたら良い麦になれるかと考えがちです。しかし畑全体として見るならば、神は毒麦が入っていても、最後は良い畑にしてくれるということです。だから毒麦があっても問題ないという神への信頼が語られています。
良い麦か毒麦かという「二元論」に陥るなら行き詰るかもしれません。毒麦はそのまま変わることなく最後は抜かれて焼かれるしかないからです。もし自分が毒麦なら救いようがありません。まさに「二重予定説」はそのように受け取られています。そうではなくて、私自身の中に良い麦もあるし毒麦もあるということです。
私は上述したように、この話は神への信頼を教えていると読みます。イエスの話を聞いた庶民は、宗教家から日常的に、お前は罪人だ、そのままでは最後は地獄の火で焼かれると、繰り返し言われてきたことでしょう。それに対してイエスは、大丈夫だ、神は毒麦だらけでも最後はきれいにして、何とかしてくれると言ったのではないでしょう。それがイエスの説く「福音」だったと思います。
最後に私たちの問題として考えてみましょう。この世の善悪について、究極的な判断は難しいことはよく分かります。時代と社会で判断基準が異なるからです。そして現実の世界を見るときに、善と悪を明確に切り分けられるのか疑問です。ヨブ記でも、神はヨブの稚拙な正義感を皮肉り、お前の考えでこの世を裁くなら、この世から人はいなくなると戒めています(ヨブ40:13)。そのように、毒麦と良い麦に二分できるほど、この世界は単純ではありません。二元論に陥らないで、皆が生かされる第三の道を探るべきでしょう。
世界は矛盾に満ちていて不条理です。自然災害も不治の病も理由なく生じます。与えられた命の長さもみな違います。生まれる時代も国も親も自分では選べません。そういう中で、信仰の目をもって世界を見ていきたいものです。世界にはまた人生には、人の目からは善いことも悪いこともある。しかしそれでも、最後に神は全体として良いものにしてくださるという神への信頼が問われていると思います。「神は全てを良いものとしてお創りになった」という「創造論」から聖書が始まっているのは、示唆的なことです。
(牧師 藤塚聖)
2026年3月8日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書13章36~43節
説教 「例え話の意義」
牧師 藤塚 聖
文章の形を大きく分けるならば、「論文形式」と「物語形式」があります。前者にははっきりとした結論があって、論理的にそれを証明するものです。後者では結論は読者に委ねられていて、読み方は自由です。だから物語は他の人と感想を分かち合えば、さらに豊かになるでしょう。
文章で人間の現実の生活を描くのなら、論文は向いていません。現実は理屈に合わないことも多く、理路整然と物事が進むわけではないからです。それらは矛盾も含めてそのまま再現した方が良いので、物語が向いていると言えます。
新約聖書でも、「パウロ書簡」はほぼ論文で、「福音書」は物語です。さらにその中のイエスの「例え話」は完全に物語です。イエスは結論を語るのではなく、聞いた人が自由に考えてほしいと思ったのでしょう。従って、解説がある場合は別の人の手によるものです。この毒麦の話にもマタイが解説をつけています。
私は、元の話は毒麦があっても最後は良い畑にしてくれるという神への信頼を説いていると思います。一方でマタイは、良い麦と毒麦が区別されるのを前提にして、毒麦は抜かれて焼かれると危機感をあおっているようです。マタイの教会はユダヤ教以上に厳格であり、彼らより完全な者になることが至上命題でした(5:48)。それで教会内のいい加減な信者は追放されたのです(42節)。マタイはこの話を信者への警告としか読めなかったのでしょう。
さて、イエスは例えを語ることで、聴衆に自由に考えさせました。その中で気づきや反省が生まれるからです。しかし教会は結論であるドクマを受け入れることが信仰であると教えてきました。疑問をもつことは不信仰とされました。自分がどう考えるか、どう思うかは問題ではなく、歴史的信条や信仰告白に連なることが重要だというのです。しかしそれは自ら考えることを放棄した思考停止を意味します。これが硬直した信仰、本当の生きる力にならない信仰、現実とかみ合わない信仰の原因ではないでしょうか。
最後に、この例え話を説明したマタイと対話したいと思います。まずマタイは自分が毒麦ではなく良い麦だという自覚があるはずです。そうでないと耐えられない話になっているからです。それならマタイの安心感はどこから来るのでしょうか。真面目に生きている自分への自信でしょうか。神への安心感ではありません。神に対する安心感なら、そもそも毒麦と良い麦に分ける必要すらないからです。マタイにとって神は正しい人々しかその国に入れない(43節)、恐るべき存在です。そうなるとマタイは本当に救われていたのか疑問になります。
マタイとの対話から考えさせられることは、「自己相対化」できるか否かということです。それとマタイに倣ってあえて自分を毒麦と考えた場合、焼かれても仕方ない不完全な存在であっても、それでも神に赦されて愛されていることを、更に強く思わされました。
(牧師 藤塚聖)
