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​過去の礼拝説教集2026年7-12月

2026年7月5日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書1章12~13節

 説教 「荒れ野で誘惑を受ける主イエス」

 牧師 渡部静子

           

 昔々、教会の学びの会で、ポール・トゥルニエの『人生の四季』という本をテキストにしたことがありました。その中で、トゥルニエは、子どもから大人に成長するために重要な役割を果たす4つの要素があると言います。第一は愛、第二は苦悩、第三は同化、第四は順応とか適応です。

 今日、この本を紹介したのは、第二の苦悩ということに注目したかったからです。苦悩もまた、人間の成長に役立つのです。苦悩とか試練に出会うことで飛躍的な成長をしていく。しかも、内面的なこと、信仰の世界に目を開かれていくようにもなるからです。

イエス・キリストご自身が荒れ野で試練(誘惑)を受けられました。しかも、洗礼を受けられたときに降った“霊”が主イエスを荒れ野に行かせるのです。そこで、「あなたはわたしの愛する子」と宣言されたことの内実を問い直し、深められるのです。

 主イエスはその荒れ野に40日間留まりました。40日というのは、相当な期間です。苦難のときは、出口の見えないトンネルのような重く、苦しいときです。その苦しみを主イエスは味わわれたのです。

 荒れ野では、サタンの誘惑を受けられました。サタンは、「蒔かれたみ言葉を奪い去る」(4:15)のです。また、「神のことを思わず、人間のことを思う(8:34)ように働きかけます。サタンの巧妙さは姿を見せず、神無しの解決をもたらそうとします。人間の知恵と力と経験によって解決するように仕向けるのです。サタンはまた、罪を覆い隠そうとさせます。自分を吟味し、悔い改めと赦しを求めることなしに、そして祈ることをしないで解決を図ろうとさせる、サタンはその姿を隠しながら、そのような力を発揮するのです。 

 さて、13節の後半には、不思議なことが記されています。「主イエスがサタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。試練のときは、野獣がそばにいるように思われるのではないでしょうか。しかし、害はありませんでした。なぜか。旧約聖書のイザヤ書11章6節以下の平和の回復の預言の成就でありました。そこでは、主イエスに天使たちが仕えていたのです。主イエスは一人で荒れ野に放置されたのではありませんでした。戦いのさなかを天使たちが仕えていたというのです。

 さて、主イエスが洗礼を受けられた箇所を学んだとき、洗礼はご自分のためではなく、私たちのためであったことを学びました。私たち罪人のために、罪人の所まで徹底的にへりくだって洗礼を受けてくださったのです。

 そして、私たちも主イエスに倣って洗礼を受けるとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の宣言を主イエスと共に、主イエスのゆえに与えられるのです。そして、主イエスのように、私たちもまた、洗礼から始まる歩みは、荒れ野へと追いやられ、サタンの誘惑を受けるのです。

 しかし、その時も、私たちは一人ではありません。主イエスが伴ってくださり、十字架の主を見上げさせてくださいます。そしてみ言葉をもって慰めと励ましを与えてくださいます【ヘブライ人への手紙2:18(p.403)、ヤコブの手紙1:2-4(p.421)、1:12-13、コリントの信徒への手紙110:13(p.312)、1ペトロの手紙1:6-8(p.428)】

 さらに、主イエスに仕えていた天使たちも伴ってくれるのです。天使たちとは誰でしょうか。それは教会の仲間です。祈りの交わりの中で支えられ、励まされるではありませんか。そのようにして私たちは信仰の成長を与えられるのです。

(牧師 渡部静子)

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2026年7月19日(日)10:30~ 

   聖書  創世記2章18~25節

 説教 「出会いの偶然と必然」

 牧師 北川裕明

           

 創世記2章からもう一つの創世物語が始まる。1章では、いわば楽器の完成を「極めて良かった」と祝うことが記されたが、2章では楽器は奏でられなければ「良くない」と言われる。「人がひとりでいるのは良くない(18節)」のだ。そこで人という楽器が最高の音色を奏でるために、出会いの旅がはじまる。

 神は家畜や鳥や獣、あらゆる動物たちを土で形づくり人と出会わせられるが、人が「名付ける(20節)」動物たちの中に、ベストパートナーは見つからなかった。神は人の琴線(あばら骨)から女を造り、人と出会わせられた。その時、はじめて人の琴線はかき鳴らされる。「ついに、これこそわたしの骨の骨、肉の肉(23節)」男から造られたので女と呼ばれた。人が「名付けた(=意味づけた)」のではなく、むしろ、女との出会いによって、人も男と呼ばれる。

 この出会いは、やがて「父母を離れて女と結ばれる(24節)」。同質性を讃美し取り込む愛情から離れることによって、異質なままでの一体、即ち、「裸であっても恥ずかしがる(25節)」ことのないベストパートナーとなっていくのである。

 「出会い」はいつも偶然を装う。しかしその偶然に秘められていた必然に気づくことが「出会い」なのかも知れない。

(牧師 北川裕明)

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2026年7月26日(日)10:30~ 

   聖書  マタイによる福音書18章6~14節

 説教 「これらの小さな者」

 牧師 藤塚聖

           

「片方の手や足が躓きになるなら切って捨てよ、片方の目が躓かせるならえぐり出して捨てよ」(8節)というイエスの教えは強烈です。片手片足になってでも地獄の火に投げ込まれるよりはましだという訳です。これはイエスの教えという形をとっていますが、戒律を重視するマタイの教会の考え方だと思います。

 かつて聖書を素朴に読んでいた頃は、ここから信仰とはぎりぎりの世界だと感じましたが、今は解釈して読み直しています。人は不完全なので、どれほどのものを切り落としたとしても完全にはなれないでしょう。従って、これはそのまま受けとるには無理な教えです。しかし教会の歴史上、これをそのまま実践した人がいました。古代教会最大の思想家と言われたオリゲネスは、質素で禁欲的な生き方を追求するあまり、性欲を罪悪として自ら去勢しました。しかし後には聖書を精神的に理解するようになったようです。

 この教えの前後には、小さな者を大切にすることが語られています。子供を受け入れる(5節)、小さな者の一人を躓かせない(6節)、小さな者を一人でも軽んじない(10節)、小さな者が一人も滅ぼされない(14節)、とあるように、イエスの関心は社会的弱者、多数派の中の少数派にあり、これらの人たちの人権が尊重されることにありました。

 1匹の迷い出た羊の話しについては、99匹を残して1匹を探しに行くのは、効率を追求する現代社会では難しいでしょう。多数の利益のためなら少数の犠牲はやむを得ないというのが常識です。あるミッションスクールの授業でこの羊の話が議論されました。ある生徒は99匹を残して1匹だけを探しに行くのはえこひいきだと言い、一方である生徒は自分が迷い出た時に最後まで捜してくれるのはとても嬉しいと言いました。つまり誰一人も取り残されないということです。

 よくメディアにも登場する作家の高橋源一郎氏は、著書の中で社会の常識を疑って、低い目線、小さな一人への視点を見失わないことを語っています。高橋氏の言う民主主義とは、最後は多数決だとしても、意見が通らなかった少数派が、それでも有難うと言えるシステムのことであり、軸足は常に小さな一人の置くべきだというのです。聖書が語っているのもそういうことかもしれません。

 いま世界に目を転じた時に、いのちの価値に違いがあるかのようなことが起こっています。もし日本で殺人事件が起こったら、多くの時間と人が動員されます。しかし戦争に巻き込まれた地域では、毎日当たり前に多くの死者が出て、誰もその責任は問われません。逮捕状は意味が無いのです。それを前提にして、世界経済も政治も動いています。その矛盾に鈍感になってはならないと、イエスは警鐘を鳴らしていると思います。苦しむ声に耳傾けて、弱い立場の人の目線に立つこと、そこから世界を見るということです。

 そういうことであるのなら、小さな一人をないがしろにすることは決してあってはならないことであり、石臼を首にかけられて沈められても(6節)、手足を切り落とされても(8節)、片目を失っても(9節)、文句が言えないほど重大なことだということを、改めて心に留めたいと思います。                                                                     

(牧師 藤塚聖)

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2026年8月2日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書1章14~15節

 説教 「宣教の第一声はガリラヤから」

 牧師 渡部静子

           

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。マルコ福音書1:15の主イエスの宣言は新約聖書のメッセージを総括する言葉であると言われます。ある神学者は、この句について「真実の意味において、全新約聖書はこの一句の注解である」と言います。

 主イエスは、洗礼を受け、サタンの誘惑にあわれ、そうして宣教の公生涯へと入って行かれました。それは、「ヨハネが捕らえられた後」だったと、マルコ福音書は伝えています。

 神に仕える祭司さえも権力におもねるような時代に、権力の前にさえ物おじせず、領主ヘロデの不義を指摘するヨハネを、ヘロデは権力の力で牢に入れてしまったのです(ルカ 3:19-20)。

主イエスはそのようなときに宣教の業を始められたのでした。神の国は、そのような暗黒の時代のただ中に始められたのです。

 次に、主イエスの宣教の場所はどこだったのかが記されています。それはガリラヤでした。ガリラヤが公の活動の最初の舞台、福音の第一声が鳴り響く地となりました。

福音宣教の最初の地がなぜガリラヤだったのか。マタイ福音書の並行箇所ではその理由は預言の成就だと言います(マタイ4:12-17)。イザヤ書8章23節後半から9章1節の引用。

 マタイ4:15に「異邦人のガリラヤ」とありますように、蔑まれた所でありました。そこに住む人々は「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む民」と呼ばれています。そのような「異邦人のガリラヤ」が大きな光を見るというイザヤの預言を成就するために、主イエスはガリラヤで宣教を始められたのです。福音がどういう人に向けられたものか、主イエスが一番、目を注いでおられるところはどんなところか、ということを明らかに示しているのです。

 15節は、主イエスがガリラヤで宣べ伝えられた宣教の内容が記されています。バプテスマのヨハネも、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(Mt3:2)と語りました。そして、ヨハネは「蝮(マムシ)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(3:7)と、人々の罪を責めたのでした。ヨハネにとっては、神の国が来るとは、神の審判が下ることであって、その審判から免れるために、悔い改めよと呼びかけたのです。

 主イエスもまた、「神の国は近づいた。悔い改めよ」とお語りになりました。ヨハネの言葉と大変似ているように見えます。けれども、大きな違いがあります。主イエスは、「悔い改めよ」のあとに、「福音を信じなさい」と語られたのです。「悔い改める」ということは、「福音」すなわち「主イエス」を信じることなのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターは、私たちの生涯は悔い改めの連続だと言いました。「キリスト者の生涯は、初めから終わりまで悔い改めから成るものである。ゆえに、ただ一回だけ悔い改めれば良いというものではない」。まさにそうです。繰り返し繰り返し、生涯にわたってキリストご自身に帰っていき、キリストを新しく信じ、受け入れていくのです。そして、礼拝こそ、悔い改めのとき宗教改革者のマルチン・ルターは、私たちの生涯は悔い改めの連続だと言いました。「キリスト者の生涯は、初めから終わりまで悔い改めから成るものである。ゆえに、ただ一回だけ悔い改めれば良いというものではない。」まさにそうです。繰り返し繰り返し、生涯にわたってキリストご自身に帰っていき、キリストを新しく信じ、受け入れていくのですであります。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。二千年前にガリラヤで語られたイエス・キリストは、暗黒の地に住む現代の私たちとこの世界の人々に対しても、語りかけておられます。

(牧師 渡部静子)

2026年8月23日(日)10:30~ 

   聖書  マタイによる福音書18章15~20節

 説教 「呼び出された者たち」

 牧師 藤塚聖

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 本日の話の中に「教会」という言葉が登場します(17節)。原語の「エクレーシア」は単純に「集会」という一般用語であり、「呼び出された者」とか「招き出された者」という意味がありました。最初の信者たちは、自分たちが苦しい場所から神に呼び出してもらったと思ったことでしょう。イエスは、地域で居場所のない人、戒律に縛られている人、あえてそういう人たちを呼び出して仲間になりました。最初の教会も本来はそういう集まりだったのです。

 しかし徐々に資産のある者が中心になると、教会が階級化していき、助け出されたという意識が希薄になります。そして自分たちは資格があるから呼び出されたのであり、相応しくない者は入れてはならないし、既に入っているなら排除して当然だということになりました。教会がすでに「権力」になっているのです(18節)。「教会」がこの福音書にだけあるということも、マタイがそれを権威と考えていた証拠でしょう。

 18章15~18節にはそういう意識がはっきりと現れています。まず違反者を個人的に諭し(15節)、次に教会として勧告して指導する(16節)、それでもだめなら最終的に違反者を異邦人や取税人と同様に扱う(17節)、つまり除名するということです。しかしイエスは逆に彼らこそが先に神の国に入ると言っていたのではないでしょうか(21:31)。このように、マタイの教会はイエスの言動とは真逆になり、相応しくない者を見下して(5:46、6:7,32)、排除する集会になりました。それはもうエクレーシアとは言えないでしょう。

 「迷い出た羊」のたとえ(10-14節)もその文脈の中で、失われた1匹を最後まで探し求めるというより、聖なる教会から悪へと迷い出てしまった会員を、回心させて復帰させるという趣旨に変わっています。違反者が悔い改めて更生するなら、もう一度仲間にしてやろうというのです。

 私たちも思い違いをして、自分には信仰があるから神に招かれている、教会の外の人にはない資格が自分にあると思いがちです。それはマタイの教会と同じ考え方です。現代の教会はその意識を強く引き継いでいるように見えます。教会組織や制度、教会の教えにはそういう考え方が前提としてあります。しかし教会とは、エクレーシアと言われたように助けの無い苦しい場所から助け出された者たちの集まりであることを心に留めたいものです。

 私たちと教会の関りのきっかけはどうだったでしょうか。何かを求めて教会に来たのでしょうか。積極的理由のない人もいるでしょう。それでも今でも続いているのは、それ以前の場所にはなかった何かがあるからでしょう。もし何の欠乏もなく自己充足しているなら、呼ばれることはなかったでしょう。その意味では、やはり私たちも何らかの理由があって、以前の場所から引き出されて今ここにいるのだと思います。そして以前には無かったものを頂いているのです。

 教会に求めるもの、期待するものは人それぞれ違うでしょう。呼び出される状況も同じではありません。それでも誰もが安心して無条件に集まることができて、そこで力を貰える場所、そういう教会でありたいと思います。

(牧師 藤塚聖)

 

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2026年8月30日(日)10:30~ 

   聖書  イザヤ書11章1~10節

 説教(立証)「原爆を語らなかった父」

 会員 中山悦子

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 私の父は広島で被爆し、母は長崎で被爆した。私は被爆2世になる。両親は戦後に結婚したが、多くの被爆者と同様に原爆の体験を語ろうとはしなかった。語ることによって当時の恐ろしい記憶が蘇り、その目で見てしまった生き地獄のような過去に再び引き戻されることに耐えられなかったのだろう。

 父が生涯で一度だけ原爆について語ったのは、養護学校教員だった私が教職員組合活動の一環として広島の原水爆禁止世界大会に参加し、呼びかけに応じて広島市民が描いた「原爆の絵」の画集を持ち帰った時だった。父は5〜6ページほどパラパラとめくって見ていたが、「このとおりだった」と言って、もうそれ以上見ようとはせず閉じてしまった。そして陸軍船舶兵の初年兵として被爆遺体の処理にあたったのだと再び口を開いた。しかし会話は続かなかった。父の死後、友人への手紙を通して、父の苦悩を知った。遺体は相当乱暴に取り扱われたようだ。真夏の炎天下異臭漂う中で、くずれ落ちる遺体を次から次に軍用トラックに投げ込んでいったのだ。上からの命令に容赦なく急きたてられ、有無を言わさぬ状況下で死に物狂いで作業を進めたようだ。父は自らを、犠牲者の尊厳に更なる追い打ちをかけた加害者のように捉えていた。罪責感と痛恨の思いは父が死ぬまで消えることはなかった。

 終戦となり兵役を解かれた父は、帰省列車のなかで乗客の口から長崎に落ちた爆弾も広島と同じ原子爆弾であり、爆心地は浦上だと知らされた。父の家はその浦上にあった。母や兄の妻、3人の幼い子どもたち、一時的に同居していた女学生の姪、家族6人が即死であり、焼け落ちた瓦の下で白骨と灰になってしまっていたという。

 壊滅的被害を受けた長崎医大の放射線科の医師であり自らも重症を負いながら命懸けで被爆者の治療にあたった永井隆博士は、白血病が進み亡くなる間際まで執筆を続けた。カトリックの信者でもあった彼は著書の中に二人の子どもへの言葉を遺言のように記す。「愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ平和で美しい世界は生まれてくるのだ。敵も愛せよ、敵がなければ戦争もおこらない。世論になびくな。戦争反対の叫びをあげ続けよ」。

 広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれていた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の言葉に私は感銘を受けた。憎しみの連鎖を断ち切り、戦争を人類の罪、私達の罪として謙虚に平和への思いと決意を述べている。この言葉の陰にどれほどの深い悲しみが湛えられていることか。

長崎の山王神社のクスノキは、樹齢数百年という堂々たる大木だったが、被爆で黒焦げとなり見る影もなかった。しかし戦後2年を経て再び芽を出し、今では大木に育っている。その苗木は平和のシンボルとして国内外に植樹され青々とした葉を茂らせているそうだ。

 イザヤ書11章1節以下の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる」のみことばに、平和の王として来られたイエスさまと、このクスノキの姿が重なって見える。イエスさまとともに平和を築いていく大切なつとめに私達もまた召し出されている。どんなに小さな愛のわざも神様が豊かに用いてくださり、平和の実現に寄与させてくださることを信じる。​

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2026年9月6日(日)10:30~ 

   聖書  マルコによる福音書1章16~20節

 説教 「呼び出し音が鳴り響く」

 牧師 渡部静子

 

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。

 「異邦人のガリラヤ」と蔑視されていたガリラヤは、パレスチナの北部にあり、ヨルダン川から注ぐガリラヤ湖が魚が多いので漁業の盛んなところでした。そこで、今まさに網を打っていた、すなわち、漁師の仕事の真っ最中だったシモンとシモンの兄弟アンデレ。主イエスはその二人を御覧になられ、二人に呼びかけられたのです。
  「人間をとる漁師」、何と不思議な響きだったでしょうか。二人はすぐに決断し、主イエスに従って行くのです。主イエスの招きはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも与えられました。この二人も漁師で、次の漁に備えて網の手入れをしている最中でした。この二人もまた主イエスの呼びかけに応えて、主イエスに従って行きました。

 4人の漁師たちは「すぐに」従って行くのです。即座の決断が表されています。召しは決断を迫ります。しかも決断は、「今」なのです。「あとで」、「~が終わったら」、「いつか」ではなく、「今」なのです。

 さらに、その決断は何かを捨てることを伴います。シモンとその兄弟アンデレはすぐに網を捨てました。ヤコブとその兄弟ヨハネは父や雇い人たちを舟に残して、主イエスの後について行くのです。

 それは自発的に、であり、喜びをもっての行動でした。主イエスの召しに応えて行くことの全貌が必ずしも見えていたわけではなかったでしょうが、しかし、不思議な喜びに包まれていました。

 召しはあくまでも、主イエスから始まります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。このみ言葉のとおりに、主イエスの選びが先であるゆえに、神様はその召しに応える者に、神の国の働き人となるときの困難を乗り越えさせ、道を備えてくださるのです。そして、主イエスに従って行くために捨てたものをはるかに余りあるすばらしい恵みを与えてくださるのです(フィリピ3:7)。

 主イエスの最初の弟子たちは二組の兄弟でした。兄弟のうちの一人ではなく、兄弟という自然の関係を否定することなく、二人ずつ召されているのです。それは、父と子、夫と妻、祖父と孫、兄と弟妹等、家族をあげての召しということにもなるでありましょう。

召された弟子たちは主イエスのもとで訓練を受けました。召しをうけた者は訓練を受けるのです。一番大きな訓練は召しの確認です。

 シモン・ペトロの場合、大祭司の女中に「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言われると、三回もそれを否定するのです。

 自分は主イエスにふさわしくない。召しが揺らぎます。しかし、主イエスはそれも、これも、あれも、ペトロのすべてをご存じの上で、ペトロを弟子に召されたのです。私たちも、自分を見たら、主イエスの召しにはふさわしくないと思うものだらけであることに失望することがあります。自分のような者で良いのか、繰り返し自問自答します。

 けれども、主は、ダメなわたしたちのためにこそ、十字架におかかりになられたのです。そして、「わたしを愛するか」と、主イエスの方から問いかけて、「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)と召しを新しく与えてくださるのです。それは神様のみわざです。ペトロを新しく立ち直らせてくださったのは神様のみわざであります。

 ある注解書はこの個所を注解するのにこんな言葉で始めています。「鳴り響く電話に答えないでいるのは難しい」。「鳴り響く電話」。今なら、スマホへの呼び出し音でしょうか。「ぴこん、ぴこん」、キリストからの呼び出し音が鳴り響いている。それがあなたの耳に届いていないでしょうか。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。

 ペトロたちを招きたもうたお方は、また私たちにも、同じ招きと召しを呼びかけておられます。

(昨年の神学校の入学式で語った説教を基に) (牧師 渡部静子)

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2026年9月27日(日)10:30~  (伝道礼拝)

   聖書  マタイによる福音書13章24~30節、36~43節

 説教 「曖昧な世界を生きる」

 牧師 藤井和弘

 

 主イエスが語られた「毒麦」のたとえには、麦と毒麦が入り混じる畑が描かれます。それは、ある人が畑に良い種を蒔いた後、眠っている間に敵が毒麦を蒔いて行ったからだと言われます。僕たちは、「行って抜き集めておきましょうか」と提案しますが、畑の主人は意外にも、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えます。理由は、僕たちが畑の毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれないことを主人が心配したからです。おそらく畑の主人にとって、みずから蒔いた大切な麦が、刈り入れを待つことなく毒麦と一緒に根こそぎにされることに耐えられなかったからでしょう。

 私たちが生きている世界は、たとえで描かれる畑のように、善と悪が混在している世界です。何が善で何が悪なのかよく分からない、明確に区別できないところに問題の根深さがあります。しかし、そうした中でも、自分や自分たちを当然のように「善」の側に置き、相手を「悪」と決めつける態度が世界に横行していることも確かです。さながら「毒麦はすぐに抜き取らなければならない」と言わんばかりに、相手を「悪」や「敵」と名指しして排除しようとしています。しかし、そのところでは、「麦まで一緒に抜くかもしれない」という畑の主人が示した細やかな配慮や、その麦のひとつひとつの実りを大切に思う心はまったく見過ごしにされているのではないでしょうか。

 今日のたとえは、畑の毒麦が抜き集められるのは「刈り入れの時」と告げています。つまり、天の国が完成するとき、毒麦が集められて火で焼かれるように、神に敵対するものや不法を行う者すべてが燃えさかる炉の中に投げ込まれます。しかし、今は、毒麦を抜き取る時ではない。麦と毒麦が入り混じる畑の現実を忍耐する時なのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。その言葉が示しているのは、麦が増え拡がるとこで毒麦もはびこるということです。麦が豊かに実っていくその傍らで、毒麦もその実を実らせるということです。そうした現実を目の当たりにするのは、希望と共に忍耐の時でもあります。大切なことは、そのところでだれよりも畑の主人である神御自身が、その先頭に立って忍耐しておられるということです。この神の思いを前にして立ち止まり、そこに心を向けるとき、私たちは主イエスが告げてくださる天の国に招かれる者にされています。そのところで、私たちは、毒麦への裁きが神御自身の御業であることを知らされます。そして、その時に向けて、神が今のこの世界を憐れみ、忍耐しておられることをわきまえる人にされるのです。

 マタイによる福音書は、「毒麦」のたとえについて、主イエスが「持ち出して」言われたと伝えています。この「持ち出して」は、「前に置く」という意味の言葉です。つまり、主イエスは「毒麦」のたとえを人々の前に置かれます。分け隔てなく、すべての人々の前に、御自身の御言葉を置かれるのです。そこでは、初めから「麦」と「毒麦」が分けられているのではありません。むしろ、心を開いて、主の御言葉を受け入れるなら、誰もが「御国の子ら」としての実を結ぶ者にされるのです。この世界がそうであるように、私たち自身も、「良い種」と「毒麦」が入り混じる「畑」です。私たちは、最初から「良い種」だけの人間ではなく、初めから「毒麦」だけの人間でもありません。その両方が混在している人間です。つまり、信仰に生きている私たちの歩みも、神の憐れみと忍耐のもとに置かれています。この神は、私たちの内にある毒麦を今すぐに抜き集めようとする者に向かって、「刈り入れまで、育つままにしておきなさい」と語ってくださる方です。それは、終わりの日に、私たちが燃えさかる炉に投げ込まれるためでなく、私たちの内に蒔かれた良い種が育ち、実を結ぶためにほかなりません。曖昧な世界を、私たちは生きています。そして、私たち自身が、麦と毒麦が入り混じる存在です。しかし、神は、私たちを御国の子らとするため希望と忍耐をもって共に生きてくださいます。

(牧師 藤井和弘)​

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