過去の礼拝説教集2026年1-6月
2026年7月5日(日)10:30~
聖書 マルコによる福音書1章12~13節
説教 「荒れ野で誘惑を受ける主イエス」
牧師 渡部静子
昔々、教会の学びの会で、ポール・トゥルニエの『人生の四季』という本をテキストにしたことがありました。その中で、トゥルニエは、子どもから大人に成長するために重要な役割を果たす4つの要素があると言います。第一は愛、第二は苦悩、第三は同化、第四は順応とか適応です。
今日、この本を紹介したのは、第二の苦悩ということに注目したかったからです。苦悩もまた、人間の成長に役立つのです。苦悩とか試練に出会うことで飛躍的な成長をしていく。しかも、内面的なこと、信仰の世界に目を開かれていくようにもなるからです。
イエス・キリストご自身が荒れ野で試練(誘惑)を受けられました。しかも、洗礼を受けられたときに降った“霊”が主イエスを荒れ野に行かせるのです。そこで、「あなたはわたしの愛する子」と宣言されたことの内実を問い直し、深められるのです。
主イエスはその荒れ野に40日間留まりました。40日というのは、相当な期間です。苦難のときは、出口の見えないトンネルのような重く、苦しいときです。その苦しみを主イエスは味わわれたのです。
荒れ野では、サタンの誘惑を受けられました。サタンは、「蒔かれたみ言葉を奪い去る」(4:15)のです。また、「神のことを思わず、人間のことを思う(8:34)ように働きかけます。サタンの巧妙さは姿を見せず、神無しの解決をもたらそうとします。人間の知恵と力と経験によって解決するように仕向けるのです。サタンはまた、罪を覆い隠そうとさせます。自分を吟味し、悔い改めと赦しを求めることなしに、そして祈ることをしないで解決を図ろうとさせる、サタンはその姿を隠しながら、そのような力を発揮するのです。
さて、13節の後半には、不思議なことが記されています。「主イエスがサタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。試練のときは、野獣がそばにいるように思われるのではないでしょうか。しかし、害はありませんでした。なぜか。旧約聖書のイザヤ書11章6節以下の平和の回復の預言の成就でありました。そこでは、主イエスに天使たちが仕えていたのです。主イエスは一人で荒れ野に放置されたのではありませんでした。戦いのさなかを天使たちが仕えていたというのです。
さて、主イエスが洗礼を受けられた箇所を学んだとき、洗礼はご自分のためではなく、私たちのためであったことを学びました。私たち罪人のために、罪人の所まで徹底的にへりくだって洗礼を受けてくださったのです。
そして、私たちも主イエスに倣って洗礼を受けるとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の宣言を主イエスと共に、主イエスのゆえに与えられるのです。そして、主イエスのように、私たちもまた、洗礼から始まる歩みは、荒れ野へと追いやられ、サタンの誘惑を受けるのです。
しかし、その時も、私たちは一人ではありません。主イエスが伴ってくださり、十字架の主を見上げさせてくださいます。そしてみ言葉をもって慰めと励ましを与えてくださいます【ヘブライ人への手紙2:18(p.403)、ヤコブの手紙1:2-4(p.421)、1:12-13、コリントの信徒への手紙110:13(p.312)、1ペトロの手紙1:6-8(p.428)】
さらに、主イエスに仕えていた天使たちも伴ってくれるのです。天使たちとは誰でしょうか。それは教会の仲間です。祈りの交わりの中で支えられ、励まされるではありませんか。そのようにして私たちは信仰の成長を与えられるのです。
(牧師 渡部静子)
2026年7月19日(日)10:30~
聖書 創世記2章18~25節
説教 「出会いの偶然と必然」
牧師 北川裕明
創世記2章からもう一つの創世物語が始まる。1章では、いわば楽器の完成を「極めて良かった」と祝うことが記されたが、2章では楽器は奏でられなければ「良くない」と言われる。「人がひとりでいるのは良くない(18節)」のだ。そこで人という楽器が最高の音色を奏でるために、出会いの旅がはじまる。
神は家畜や鳥や獣、あらゆる動物たちを土で形づくり人と出会わせられるが、人が「名付ける(20節)」動物たちの中に、ベストパートナーは見つからなかった。神は人の琴線(あばら骨)から女を造り、人と出会わせられた。その時、はじめて人の琴線はかき鳴らされる。「ついに、これこそわたしの骨の骨、肉の肉(23節)」男から造られたので女と呼ばれた。人が「名付けた(=意味づけた)」のではなく、むしろ、女との出会いによって、人も男と呼ばれる。
この出会いは、やがて「父母を離れて女と結ばれる(24節)」。同質性を讃美し取り込む愛情から離れることによって、異質なままでの一体、即ち、「裸であっても恥ずかしがる(25節)」ことのないベストパートナーとなっていくのである。
「出会い」はいつも偶然を装う。しかしその偶然に秘められていた必然に気づくことが「出会い」なのかも知れない。
(牧師 北川裕明)
2026年7月26日(日)10:30~
聖書 マタイによる福音書18章6~14節
説教 「これらの小さな者」
牧師 藤塚聖
「片方の手や足が躓きになるなら切って捨てよ、片方の目が躓かせるならえぐり出して捨てよ」(8節)というイエスの教えは強烈です。片手片足になってでも地獄の火に投げ込まれるよりはましだという訳です。これはイエスの教えという形をとっていますが、戒律を重視するマタイの教会の考え方だと思います。
かつて聖書を素朴に読んでいた頃は、ここから信仰とはぎりぎりの世界だと感じましたが、今は解釈して読み直しています。人は不完全なので、どれほどのものを切り落としたとしても完全にはなれないでしょう。従って、これはそのまま受けとるには無理な教えです。しかし教会の歴史上、これをそのまま実践した人がいました。古代教会最大の思想家と言われたオリゲネスは、質素で禁欲的な生き方を追求するあまり、性欲を罪悪として自ら去勢しました。しかし後には聖書を精神的に理解するようになったようです。
この教えの前後には、小さな者を大切にすることが語られています。子供を受け入れる(5節)、小さな者の一人を躓かせない(6節)、小さな者を一人でも軽んじない(10節)、小さな者が一人も滅ぼされない(14節)、とあるように、イエスの関心は社会的弱者、多数派の中の少数派にあり、これらの人たちの人権が尊重されることにありました。
1匹の迷い出た羊の話しについては、99匹を残して1匹を探しに行くのは、効率を追求する現代社会では難しいでしょう。多数の利益のためなら少数の犠牲はやむを得ないというのが常識です。あるミッションスクールの授業でこの羊の話が議論されました。ある生徒は99匹を残して1匹だけを探しに行くのはえこひいきだと言い、一方である生徒は自分が迷い出た時に最後まで捜してくれるのはとても嬉しいと言いました。つまり誰一人も取り残されないということです。
よくメディアにも登場する作家の高橋源一郎氏は、著書の中で社会の常識を疑って、低い目線、小さな一人への視点を見失わないことを語っています。高橋氏の言う民主主義とは、最後は多数決だとしても、意見が通らなかった少数派が、それでも有難うと言えるシステムのことであり、軸足は常に小さな一人の置くべきだというのです。聖書が語っているのもそういうことかもしれません。
いま世界に目を転じた時に、いのちの価値に違いがあるかのようなことが起こっています。もし日本で殺人事件が起こったら、多くの時間と人が動員されます。しかし戦争に巻き込まれた地域では、毎日当たり前に多くの死者が出て、誰もその責任は問われません。逮捕状は意味が無いのです。それを前提にして、世界経済も政治も動いています。その矛盾に鈍感になってはならないと、イエスは警鐘を鳴らしていると思います。苦しむ声に耳傾けて、弱い立場の人の目線に立つこと、そこから世界を見るということです。
そういうことであるのなら、小さな一人をないがしろにすることは決してあってはならないことであり、石臼を首にかけられて沈められても(6節)、手足を切り落とされても(8節)、片目を失っても(9節)、文句が言えないほど重大なことだということを、改めて心に留めたいと思います。
(牧師 藤塚聖)
2026年8月2日(日)10:30~
聖書 マルコによる福音書1章14~15節
説教 「宣教の第一声はガリラヤから」
牧師 渡部静子
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。マルコ福音書1:15の主イエスの宣言は新約聖書のメッセージを総括する言葉であると言われます。ある神学者は、この句について「真実の意味において、全新約聖書はこの一句の注解である」と言います。
主イエスは、洗礼を受け、サタンの誘惑にあわれ、そうして宣教の公生涯へと入って行かれました。それは、「ヨハネが捕らえられた後」だったと、マルコ福音書は伝えています。
神に仕える祭司さえも権力におもねるような時代に、権力の前にさえ物おじせず、領主ヘロデの不義を指摘するヨハネを、ヘロデは権力の力で牢に入れてしまったのです(ルカ 3:19-20)。
主イエスはそのようなときに宣教の業を始められたのでした。神の国は、そのような暗黒の時代のただ中に始められたのです。
次に、主イエスの宣教の場所はどこだったのかが記されています。それはガリラヤでした。ガリラヤが公の活動の最初の舞台、福音の第一声が鳴り響く地となりました。
福音宣教の最初の地がなぜガリラヤだったのか。マタイ福音書の並行箇所ではその理由は預言の成就だと言います(マタイ4:12-17)。イザヤ書8章23節後半から9章1節の引用。
マタイ4:15に「異邦人のガリラヤ」とありますように、蔑まれた所でありました。そこに住む人々は「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む民」と呼ばれています。そのような「異邦人のガリラヤ」が大きな光を見るというイザヤの預言を成就するために、主イエスはガリラヤで宣教を始められたのです。福音がどういう人に向けられたものか、主イエスが一番、目を注いでおられるところはどんなところか、ということを明らかに示しているのです。
15節は、主イエスがガリラヤで宣べ伝えられた宣教の内容が記されています。バプテスマのヨハネも、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(Mt3:2)と語りました。そして、ヨハネは「蝮(マムシ)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(3:7)と、人々の罪を責めたのでした。ヨハネにとっては、神の国が来るとは、神の審判が下ることであって、その審判から免れるために、悔い改めよと呼びかけたのです。
主イエスもまた、「神の国は近づいた。悔い改めよ」とお語りになりました。ヨハネの言葉と大変似ているように見えます。けれども、大きな違いがあります。主イエスは、「悔い改めよ」のあとに、「福音を信じなさい」と語られたのです。「悔い改める」ということは、「福音」すなわち「主イエス」を信じることなのです。
宗教改革者のマルチン・ルターは、私たちの生涯は悔い改めの連続だと言いました。「キリスト者の生涯は、初めから終わりまで悔い改めから成るものである。ゆえに、ただ一回だけ悔い改めれば良いというものではない」。まさにそうです。繰り返し繰り返し、生涯にわたってキリストご自身に帰っていき、キリストを新しく信じ、受け入れていくのです。そして、礼拝こそ、悔い改めのとき宗教改革者のマルチン・ルターは、私たちの生涯は悔い改めの連続だと言いました。「キリスト者の生涯は、初めから終わりまで悔い改めから成るものである。ゆえに、ただ一回だけ悔い改めれば良いというものではない。」まさにそうです。繰り返し繰り返し、生涯にわたってキリストご自身に帰っていき、キリストを新しく信じ、受け入れていくのですであります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。二千年前にガリラヤで語られたイエス・キリストは、暗黒の地に住む現代の私たちとこの世界の人々に対しても、語りかけておられます。
(牧師 渡部静子)
